すべてのあなたに幸福な私が伝えたい言葉
不動の移籍先がスペインと決まった時、電話口で何故か冬花は涙を流した。 『冬花、泣いてんのか?』 「ええと…平気」 『一体どうしたんだよ。すぐ帰るから三十分で着くぜ』 「うん、うん」 『何なんだよ泣くなよ…、嫌なのかスペイン』 「そうじゃないけど、よく分からない自分でも…。早く帰ってきて」 『当たり前だ』 アムステルダムは冬の雨。 電話を切った冬花は窓辺からニュータウンの清潔な通りを見下ろす。雨が冷たく打つアスファルトの道。冷たい窓に額を押しつけると、その先で直角に交わったトラムの走る通りが見えた。 冬花は溜息をつく。ガラスが吐息に白く曇る。 何故急に涙が出たのか、理由は本当に分からなかった。 一年前、膝の故障を理由に帰国。そこで日本サッカー界を巻き込む事件に関わり、一段落したのを見届けて再びオランダに戻ったのが秋のことだった。 平穏な日々が続くとは思っていなかった。身体が資本の仕事、その上ラフプレーの多い不動であれば今後何度もこういう事態には遭遇するだろうと。勿論、移籍だってあるに違いない。それが国外であっても不思議ではない。 スペイン…。 漠然としたイメージしかないその国の名が不動の口から出た途端、冬花の魂が何かを思い出した。前世の記憶かしら、と涙を拭いながら思う。 懐かしくさえ、あった。 左手の指輪に触れる。確かなその感触に冬花は目を閉じる。 次についた溜息は現実の音がした。冬花は窓から離れるとキッチンに向かった。温かい料理を用意しなきゃ。それからお風呂。今日はバスタブにたっぷり湯をはろう。そしてゆっくり入って身体を温めよう。ちょっとおかしなテンションになっちゃった。明王くん、心配してるかも。 ばたばたと足音を立てて、不動は戻ってきた。 頭のてっぺんからつま先までびしょ濡れだった。 「…どうしたの、明王くん!」 「お前が心配だから急いで帰ってきたんだよ」 「トラムは…? タクシーとか…」 「トラムは時間通りに走りゃしねえし、タクシー乗るよか走った方が速い……寒っ」 「お風呂入って、もう沸いてるの。ねえ、無茶しないでよ」 「だーかーら、お前のせいだろ!」 不動を風呂に送り込み、びしょ濡れの服を洗濯機で回す。 キッチンに戻ると雨の匂いがした。冷たい雨の匂い。それなのに不動の体温の匂いもすると思った。熱の匂いだ。走ってすっかり熱くなった身体の熱。 冬花は鍋の火を止め、バスルームの入口に立った。 「明王くん」 「何だよ」 籠もった声。 「ごめんなさい」 「……別に謝るこたあ」 「どうしてだか自分でも分からないの。でも、もう落ち着いたわ。だから…」 「上がったら話聞いてやるよ」 「…ありがとう」 少し早い夕食の席で、冬花はぽつぽつと話をした。 「移籍のことは勿論驚いたんだけど」 「ここを離れるのが嫌か?」 「そうじゃないわ。愛着もあるけど、でも明王くんと一緒にいるならもっとあちこち行くことになるだろうなって思ってたし」 「ホームシック?」 「だから!私は明王くんと一緒にいたいんです」 すると不動はニヤニヤ笑い、赤くなった冬花の頬に触れた。冬花は一層照れながら、そういうことじゃないの、と呟く。 「…どうしたんだよ。いきなり泣くから吃驚したんだぜ」 「私も…吃驚した。どうして泣いてるのか分からなかった」 冬花が触れると、不動はその手を握ってテーブルの上に置く。 「言ってみろよ」 その目が優しく見つめるので、また泣いた時の空気が自分の中に蘇る。 ああ、明王くんが手を握ってくれている。指輪をした左手がちゃんと私の手を握っている。目の前にいる。私の話を聞きたいって、彼は私を見つめて待ってくれているんだわ。 「まるで、前世でそこにいたみたいな気分だった」 涙声で冬花は言った。 「前世の記憶とか、よくね、分からないんだけど。でも私の魂は一度そこにいたんじゃないかって思ったの。急に目の前に色んな景色が広がって。バレンシアの街並みとか、火祭りの夜の様子とか。頭の中に閃いたその景色を見ていたら、私急に涙が出てきて、止まらなくなって…」 「まて、冬花」 「え?」 不動は少し怖い顔で自分を見ていた。頭がおかしくなったと思われたのだろうか。 「バレンシア?」 「…ええ」 「オレ、スペインってしか言ってねえよな」 「あ……」 バレンシア、なの?と小さな声で尋ねると、不動は無言で頷いた。 冬花は思わず口をついて出た言葉を繰り返す。バレンシアの街並み。火祭りの夜。…スペインのことは通り一辺倒しか知らないのに。テレビで見たのかしら。雑誌で読んだのかしら。 ぎゅっと掴む手に力が入った。 「オレな」 不動が真剣な目で見つめる。 「ずっとお前のこと避けてたんだ」 「…え?」 「高校一緒で、オレたち付き合ったの最後の方だったろ」 「うん…」 「あの後ヨーロッパ行きが決まって、オレ、正直ホッとしてたよ。やっとお前から離れられるって」 「え、あ、明王くん…」 「最後まで聞いてくれ。オレ、お前と離れるのが怖かった。お前、急に消えちまいそうな気がしてたんだ、付き合ってる時もな。オレの知らないところに消えてそのまま…他の誰かのものになりそうな気がして、お前と付き合ってる最中も不安だった。お前がいなくなった時、平気でいられる自信がなかったんだ。だからいつ別れても平気なように心の準備をしてた」 「そんな…初めて聞いたわ」 「言わなかったからな」 不動は唇の端を歪めて笑う。 「だから日本を出て、あーもう心配しなくていいんだって、お前が誰のものになろうが構うかよって。清々した気分でサッカーできると思ってたら、そうは問屋が卸さねえでやんの。お前が大学卒業の電話してきた夜、アレでパーンって全部ふっ飛んだ」 「明王くん…いつも平気そうな顔してたわ」 「痛いのを隠すの得意なんだぜ、オレ」 そうね、そうだった。冬花は息を吐き、不動の手を握り返す。 「一年前、お前に指輪を渡すまで、オレは何度も夢を見た。お前が泣く夢だ。色んな場所でお前が泣いてる。外国のどこかの通りとか、バスターミナルとか、東京のお前んちの玄関とか」 「私は明王くんの前では泣かないようにしようと思ってた…」 「お前、強い女なのにな」 「そうでもない。支えられて強くなったの」 「じゃ、オレもそうだ」 ワイン、と思ったが身体を温めたかった。紅茶にジンジャーを落としたのを抱え、二人はリビングのソファに並んだ。 「オレが見た泣いてるお前も、前世っていうか…何つうの、嘘とか妄想じゃねえ気がすんだよ」 「私が見た景色も…」 「オレはもう夢を見なくなった」 「私は…」 冬花は熱い溜息をつく。 「泣いてたけれど、悲しいだけじゃなかったの。とても懐かしかった。遠回りをして家に帰り着いたような、そんな気分だった。泣きながら……」 その時の気持ちが蘇る。冬花は言葉を途切れさせる。 「泣きながら、私……ありがとう…って、思ったの」 「ありがとう?」 「はっきり言葉にならないんだけど、そんな気持ちだった…」 ぼんやり漂わせていた視線を不動に向ける。 「あなたに、ありがとうって思った」 「オレに」 「電話、嬉しかった。一緒にスペインに行けるの、私…」 また涙が溢れてきて冬花は掠れた声で、嬉しい、と囁いた。 不動の腕が肩を抱き寄せる。 エアコンの熱は上滑りしてしまい、二人は身体の芯から自分達を温めるものを求めた。 冬花は不動の胸に顔を埋め、明王くん、と小さな声で呼んだ。不動の匂い、体温の匂いを感じる。腕が強く抱きしめる。痛いくらいで心地良かった。ここにいてくれる、夢じゃないわ。 アムステルダムの雨の夜に、それぞれの魂が見た遠い思い出がゆっくりと溶けてまざるような気がした。冬花はもう一度泣いた。泣きながら微笑んで、その顔をぐいぐいと不動の胸に押しつけた。 くすぐってえよ、と不動が笑った。 * 冬花は夢の中で冷蔵庫の中にいた。 扉を開けたのは不動だった。 彼女は笑って、心配しないで、私達は幸せになれるわ、と不動に言った。 不動が、ありがとな、と言って頬にキスをしてくれた。 * 目覚めた時、ベッドの上で手を握り合っていた。いつから手を繋いでいたのだろう。寝返りだって打ったはずなのに。 冬花は横を向き、不動の顔を覗き込む。 「…起きてるでしょう」 「バレたか」 「分かります」 不動は瞼を開き、おはよ、と手を繋ぎなおす。 「ん?このまま寝たっけか」 「どうだったかしら…」 裸の肩が毛布からはみ出して寒い。朝食を作らなければとおも思った。それでも動く気がしなかった。 「離れたくないわ」 「離したくねえんだよ」 不動の腕が抱き寄せる。 「離さねえし」 「…どのくらい?」 「一生」 「……お腹空いちゃう」 冬花は笑った。 すると不動は冬花を抱え上げたままキッチンに向かった。 「やだやだちょっと明王くん、パンツくらい履かせて」 「離れたくねえんだろ」 「だとしても風邪引いちゃう!」 窓の外は雨が止んでいた。まだ寒いが、今日はよく晴れそうだ。 テレビが今日の天気予報を読み上げる。冬花は昨日洗濯機で水につかりっぱなしだった洗濯物をようやくバルコニーに干した。 「冬花、オレの服」 「はいはい」 珍しくスーツの不動。本人は嫌がるが、今日は移籍発表の記者会見だ。 「テレビの前で待機してるから」 「ついてくりゃいいのに」 「奥さんにはやることがたくさんあるんです」 玄関先で襟やネクタイを直し、ぽんと叩いて送り出す。 「いってらっしゃい」 「いってきます」 一歩を待っているので、冬花はその頬にキスをした。 「ここかよ」 「そこにしたい気分なの」 「じゃ、夜は遅くなるけど」 「お土産楽しみにしてます」 不動の後ろ姿が見えなくなるまで見送り、冬花はやっと部屋に戻る。 記者会見の後、パーティーにも出席するから…日付が変わる前には帰ってきてくれるかしら。二次会に行ってまでアルコールなんて、フィジコ的には許せないんだけど、今日くらいは多めに見た方がいいのかな。帰ってきたら、また小腹が空いてるはず。何か作っておこう…。 冬花は冷蔵庫を開ける。野菜室の中身がとぼしい。 トマトを買おう。そう決めた。真っ赤なトマト。そう言えばスペインにはトマトを投げるお祭りがあるんだっけ…。 「あら」 思わず独り言を呟く。 「明王くん、いつの間にトマトが食べられるようになったんだろう…」 振り向くと冷蔵庫の白い扉が、午前の景色を映して明るく光っている。 「ね?」 冷蔵庫に向かって同意を求めるように、冬花は微笑みかけた。
2012.5.15 それより前に、ゆうひさんのお誕生日プレゼントに。
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