ハレノ、ソラ、シタ







 季節外れだというのに、海岸脇のシャワーはコインを入れると冷たい真水を吐き出した。二階堂は服のままずぶ濡れになりながら、しばらく真水の心地よさに打たれていた。
 シャツは濡れた肌にはりついてなかなか脱ぐことができない。苦心して脱ぎ、水を絞った。すると、腕が差し出された。シャツを渡すと、腕はそれを絞り直してから二、三度はたいた。
「下も」
 声をかけられる。二階堂は大人しく脱いで、それも渡した。
 九月の海は思った以上に冷たかった。
 はしゃいでみせたのはわざとだ。服のまま海に飛び込んでみせたのもわざとだ。自分はそういう人間だと二階堂は自覚している。目の前の男が暗く、憂さに沈んだ顔をしていれば、尚のこと自分の役割を存じていた。これで彼が笑えば安いもの。
 しかし久遠は笑わなかった。二階堂はずぶ濡れのまま、海の中から、砂浜に佇む久遠を見た。久遠の目は自分を見てはいたが、その滑稽さを楽しむことも、笑うこともしなかった。
 久遠は、ただ芯から二階堂を見詰めていた。海の中で、二階堂も笑うことをやめた。
 暴力事件が起きたのは事実。久遠がその責任をとったのも自ら選択した末のことだ。彼の精神力の強さは二階堂も知っている。しかし、その彼が日がな部屋から出ず、煙草ばかり吸っているのも、事実。
 連れ出した時、二階堂が楽観視してしまったのは、誘われた故とは言え久遠が自らの足で部屋から出たからだった。立ち直る気持ちがない訳ではない、そう思った。しかし久遠は変わらない表情の下、見慣れたワードローブの下を全て抉り取られたかのように虚ろだった。
 二階堂にも分かっていた。分かっていたから余計に笑みを浮かべることは難しかった。久遠は自分の前でようやく、その虚ろをあらわにしたのだ。諦念と虚脱感。どうしても襲い来る悔恨。逆境を退ける口惜しさはその姿を消し、久遠の瞳はひたすら暗い。九月の明るい空の下、真夏の余韻をたっぷり残した海を前にして、何も持たない彼の虚ろはいよいよ顕著だった。
 二階堂は黙って海から上がった。久遠が先に立って歩き、海岸脇の道路を挟んでコインシャワーを見つけた。
「ここで身体を洗うといいでしょう」
 それが外出して初めて久遠の発した言葉だった。
 シャワーに向かって顔を上げる。真水が顔面を打つ。少し錆の匂いもする。
 二階堂は口を広げ、水を口に含んだ。開いたままの口の端からこぼれて、少しぬるい温度を移し、身体を流れる。
 不意に水勢が弱くなった。二階堂は瞼を開いた。弱いシャワーの向こうに、円形のシャワーヘッドが見えた。やがてその輪郭がはっきりとし、水は完全に止まった。
 二階堂は俯き、水を吐き出した。音に気づいたのか、シャワーの前で待っていた久遠が振り返った。手に、シャツとズボンを畳んでいる。絞った後、叩いて皺を伸ばしてくれたのだろう。
「すまない…」
 二階堂は手を伸ばし、それを受け取ろうとした。
 しかしシャツは手に触れる前に、濡れたコンクリートの床に落ちた。
 意図的に落とされたのだ。
 顔を上げると、久遠の身体がぐっと近づきシャワーボックスに押し戻される。
「久遠…ッ」
 久遠の手は乱暴に伸びて二階堂の髪を掴んだ。濡れた髪がきしきしと音を立てた。久遠のもう片手には硬貨が握られていた。彼はそれを投入口に落とした。
 ざっ、と音を立ててシャワーが降り注いだ。
「くど……」
 二階堂が言い切らぬうちに、久遠は噛みついていた。キスではなかった。唇の端が切れたのが分かる。熱、それから歯によって切られた痛み。血の味。真水の降り注ぐ下、久遠の息づかいがはっきりと聞こえる。頬を噛まれ、鼻を噛まれた。しかし鼻を噛むそれは最初唇に噛みついたそれとは違っていた。泣くように、甘えていた。柔らかく、しかし求めるように食むそれに、二階堂は久遠の虚ろがようやく生み出した感情を感じた。
 抱き寄せて、キスをしてやる。初めてキスを教えるような、そんな気がした。
「二階堂さん…」
 久遠が耳元に囁いた。
 駄目だ、とは言えなかった。ずぶ濡れの下着をずり下ろされるのに、もう抵抗はできなかった。二階堂は抱いた手で、あやすように久遠の背中を叩いた。
 後ろ向きにさせられた。一回だけだ、と言ったがそれは久遠の話で、自分は二度イかされた。

 コイン三枚目のシャワーは二人で浴びた。それぞれのシャツを絞り、濡れた冷たいそれを羽織った。
「申し訳ありません」
 傾き書けた日の下で、久遠は言った。二階堂は、気弱な声に振り向いた。久遠は俯いていた。
「これでは電車に乗れない」
「乾くまで歩けばいいさ」
 笑ったのは、二階堂の本心で、ごく自然なものだった。
 歩調を合わせ、並んで歩いた。服以上に、濡れた靴が嫌な音を立てるが、それさえ愉快だった。急に愉快な気分になれた。
「久遠」
 二階堂は呼んだ。
「お前には悪いかもしれないが、俺は今楽しい。お前は、少なくとも俺の人生では損ないたくない男だよ」
 久遠は何も答えなかった。
 海岸線の田舎道を一駅分、歩いた。服は完璧には乾かなかった。靴もだ。電車に乗り、ドアの側で向かい合って立った。
「俺の部屋に来ないか」
 車窓に西日を眺めながら二階堂は言った。
 久遠はしばらく考え込み、答えた。
「見境なく襲いますよ」
 冗談か本気か、しかし二階堂は短く笑った。
「どうせ俺の部屋だ、見境なくたって構うもんか」
 駅で、久遠だけ乗り越し料金を払った。
 二階堂のアパートに着く頃には日も落ち、服も乾いていた。
 乾いた服は玄関を入ってすぐに脱いだ。のしかかる久遠の身体からは海の匂いがした。海には浸っていないのに、と思いながら二階堂は瞼を伏せた。暖かい日の温もりの残る畳の上で、一瞬、砂浜で抱かれるような幻覚を感じた。
 キスは、唇の傷に滲みた。



2012.5.18