君の名は
銭湯の脱衣場がいつも以上に混んでいて、何かと思えばとっくに湯から上がったはずのジジイ連中が帰ろうとしないのだった。皆、番台のテレビにかじりついている。フィギュアスケートを放送しているのだった。響木には、それがよく分からない。女の選手を見ると寒そうな格好で滑ると思うし、男に至ってはてんで興味が無い。 そう言うと、ジジイの一人が振り向いて 「この可愛さが分からねえとはなあ、響木」 「そんな見た目くらいは分かる。踊りに興味がない」 番台を含め、連中一同哀れむような溜息をついた。このサッカーバカめ、人生損してらあ、という哀れみ。 響木は隣で黙って汚れたシャツを脱いでいる飛鷹に尋ねる。 「お前はどうだ?」 「はあ…」 曖昧な答えだった。 飛鷹もあまり興味がある風には見えない。 脱衣場に人が集中しているせいで、湯船はがら空きだった。 響木は背中を擦られながら、ふと思い出したことを口に出す。 「君の名は…」 「はい?」 背中から戸惑う声。 「征矢…っす」 笑うまい、と思ったがまさかの答えにやはり吹き出すのを堪えられなかった。 「な…なんスか」 「いや、君の名はってな、それこそお前が生まれるずっと前にやってたドラマだ、NHKの」 「はあ…」 「それやってる時間にゃ、銭湯から人が消えたんだとさ」 「あ……」 飛鷹は口ごもり、またごしごしと響木の背中を擦り始めた。 「連中ときたらまるで逆だ。帰りもせずにここで見て行こうってんだから、まあらしいと言えばらしいやな」 今回フィギュアで注目されている日本の選手は、それこそ連続ドラマのヒロインのように苦悩と挫折の中から蘇った選手だ。ジジイたちからすればドラマを見るようでもあり、孫を見守るようなものでもあり楽しみではあるのだろう。 しかし響木はふと思い出した「君の名は」に引きずられた。 真面目に見たことなどないが、それでも話はしっている。擦れ違う男と女の物語だ。ショールを巻くのが流行ったはずだ。それから、なんだか恥ずかしいようなことも流行の一つになったのだと漠然と記憶している。 湯船につかってもそのことを考えていた。 不意に隣から尋ねられた。 「君の名は…」 「ん?」 「いや、題名が…」 「ああ、主人公の男と女がな、お互いの名前しかしらないんだ。携帯電話もない時代のドラマだから、とにかく擦れ違って、よくまあそういうもんを見ると思ったよ」 「名前…」 そういえば飛鷹の名を耳にするのは久しぶりだった。そういう名前だった。征矢。背番号7番のイメージには相応しい名だと思う。 「征矢」 「……っス!」 「って名前聞いた時だ。そうだ、毛利元就を思い出したんだな、俺は。三本の矢」 しかし飛鷹は聞いているのかいないのか、顔を真っ赤にして、はあ、と息を吐く。 「…大丈夫か?」 大丈夫、と反射的に言いかけた飛鷹は顔がくしゃりとなる寸前の表情で 「お先します」 と言った。 脱衣場にはまだジジイ連中が残っている。例のヒロインが滑るのは最後なのだそうだ。 響木が上がった時には、番台の前は大騒ぎだった。離れた所で椅子にぐったり座っているのが飛鷹だった。 見て行けと何が何でもの勢いで誘われたが、飛鷹を連れて帰った。 外は寒いが、飛鷹の顔はいっこうに赤い。 「何か飲むか」 「いえ、お構いなく」 遠慮をするなと自動販売機でスポーツ飲料を買う。飛鷹が恐縮するので自分も同じものを買って飲んだ。飛鷹はありがとうございます!と九十度のお辞儀をしてから飲んだ。湯冷めせぬ程度に、とバス停のベンチを借りて腰掛けた。 缶から口を離しながら、飛鷹の唇は時々何かを言いたげに動こうとしていた。しかしそれは言葉にならず、また缶に口をつけるのを繰り返す。 「どうした」 声をかけると飛鷹はすぐ振り向いて、いいえと言いながら首を振る。 「何でも…」 「また、湯あたりでもしたか」 額に手を当てると、飛鷹は身体を硬くする。 その時、後ろから酔っ払いのような声が聞こえてきて、まずいな、と思った。あまり具合はよくないようだが、ここで絡まれるのもと思い立たせようとした。すると聞き慣れた低い声が「響木さん」と自分を呼んだ。 振り向くと久遠と、見覚えのある男が肩を並べて立っている。 「こんなところで会うとはな…」 響木は久遠の隣の男を見る。 「久しいな、木戸川の」 「ご無沙汰してます、正剛さん」 その瞬間驚いたのは隣で大人の挨拶を見上げている飛鷹も、その大人のはずの久遠もだ。 「こんな時間に、お前たちはどうした」 「フィギュアスケートのグランプリファイナルだったでしょう。うちのテレビ、アナログのままなんで、久遠さんちのプラズマディスプレイで拝見させていただきまして」 「サッカーの話もです」 言い訳をするように久遠が付け加えた。 「響木さんたちは」 「見てのとおり銭湯帰りでな」 「この寒いのに吹きさらしのベンチなんか座って」 二階堂が近づき、飛鷹が首に巻いていたタオルをスカーフのように頭に巻いてやる。 「濡れ髪が一番堪えますよ」 「ああ、すまんな」 酔い覚ましだと駅まで歩く二人を見送って、響木たちも雷雷軒へ急ぐ。 ストーブを点けてやり、飛鷹の髪を乾かした。 テレビをつけると、フィギュアスケートのヒロインが表彰台でメダルをもらったところだった。 「すっかり遅くなっちまったな。気をつけて帰れよ」 「…あの」 戸の前で立ち止まり、飛鷹は響木を見上げた。 「木戸川の監督…」 「二階堂か」 「響木さんの名前」 「ああ。まあ馴染みとしちゃ古くてな」 「そうスか…」 「正剛なんて久しぶりに呼ばれたからなあ、一瞬誰のことかと思ったぜ」 すると飛鷹が小さな声で「正剛さん」と逃げるように言った。 「…気をつけて帰れ」 乾いた髪の上に手をのせる。 「征矢」 その後、飛鷹の姿は7番に相応しい俊足で明かりの落ちた商店街から消えた。 「君の名は…」 響木は呟いて表戸を閉める。磨りガラスの戸の向こうは見えない。 ドラマの話を聞いた時は馬鹿馬鹿しいと思ったものだ、ガラス越しのキスなど。 今、馬鹿馬鹿しいと思ったのは自分の頭で、たとえこの向こうに飛鷹がいたところでこのガラスではその顔を見ることはできないし、何よりも自分は年齢差を失念しすぎている。 「やれやれ」 口に出し、テレビを消した。
2011.4.3
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