断片たち







青い崩壊/青の崩壊


 糸が切れる。音が溶け出す。身体が投げ出される。沈む。落ちる。落ち続ける。どこへ?
 どこまでも心が沈んでゆくので、まるで身体も一緒に落ちて行くようなそんな心許なさだった。いや、本当は心許なく感じるだけの心もなく、揺らいで。
 底のないプールをどこまでも沈んでゆくかのようだ。溶け出した音が青く身体を包み込む。
 ――誰かの声がする。
 神童は青の中に溶け出しそうになる意識を必死で引き留め、耳をすまそうとする。しかし溢れ出し溶け出したピアノの音は海水のように神童の耳を塞いで、その向こうに響く声を明瞭には届けない。
 ――でもオレは聞いたことがある。
 聞き慣れた声。聞き馴染みのある声。オレが住む世界の声だ、と。
 時間を超えることに躊躇はなかった。恐れも抵抗も不安も何一つ感じなかった訳ではないが、しかしじっとしてはいられなかった。自分の大好きなものを守りたいから。サッカーは自分と仲間を繋ぐ絆だから。神童の存在する世界と違う世界を生きる誰かを繋ぐものだから。守る。守りたい。サッカーだけではない、仲間も、友達も、自分の愛するものを…。
 ――守った、はずなのに。
 世界が揺らいだ。初めてだ。百年以上も昔に作られ、きっとこれから百年以上もそこにあるのだろうと思っていたものが壊れてゆく。ピアノがバラバラに解体されるのを見たような。天板が割れ、ワイヤーが弾け飛び、支えを失った白鍵も黒鍵も宙を舞う。足下が、揺らぐ。
 ――倉間は、知らない。
 本当の歴史を。共有していたはずの思い出を。たった一つの試合の記憶を起点に、全てが違ってしまった。
 ――倉間…?
 本当に倉間なのだろうか、目の前にいるのは。日米親善試合が放送された翌朝、部室に飛び込んで真っ先にその話をした。あの日は朝から部室の空気が明るかった。朝から神童も、倉間も笑っていたのだ。
 ――覚えていない…んじゃない。
 目の前にいる倉間の中にはそこから始まる時間が全て存在しない。今の倉間の記憶の中で神童はどのように振る舞ったのだろう。その悪夢のような試合を観て、一体どんな顔をし、どんな言葉を交わしたのか…。
 ――いや、話したかどうかさえ…。
 定かではないのだ。自分ではない自分のことを神童は知る術がない。もしインタラクト修正が定着してしまったら…勿論目の前から倉間が消えることはない。今回はそういう話ではないのだから。しかしサッカー禁止令だけの話ではない。神童は永遠に倉間を失う。倉間との思い出を、交わした言葉を、あの日の笑顔を。そして倉間も。
 ――倉間にとってもオレは別人なんだ。
 ぐらりと頭が揺れた。頭の中で揺れた気がしただけだが思わず足下を見た。それなのに足下から海のような悲しみに包まれてしまった。倉間は目の前にいるのに。
 ――倉間。
 目の前にいる倉間の目にもサッカーが失われることへの憤りが宿っていて。
 ――ああ…。
 オレの覚えているお前も、きっとそんな目をした。そうだな。
 ふと落下しているのではないと知る。絶望に飲み込まれているのではない。星を底の底まで潜っていったら、そこには輝く熱がある。光の生まれる核がある。暗闇ではない。
 背後から射す光が視界いっぱいに広がって悲しみの青を塗りつぶす。青が淡い影となって掻き消えてゆくのを、神童は大きく見開いた目で見る。
 ――声が聞こえる。
 天馬の。監督の。チームメイトの。それに。
 神童はまばたきをした。目の前には部室の光景が広がっている。
 ――オレたちにはサッカーがある。
 涙をこらえた瞳が熱い。
 ――オレたちはサッカーをすることができる。
 神童は前を向く。
 ――オレたちは自分の力で未来を手に入れる。
 チームメイト一人一人の顔を見る。そこにあるのは神童が心から信じる仲間たちの顔。強い意志をもった瞳。
 ――一緒にやってくれるだろう?
 そう思いを込めて見つめると、視線の合った倉間は一つ頷いた。
 ――負けない。
 神童は息を吐いた唇を強く結んだ。
 ――オレたちは負けない。
 部室を出ると晴れ渡った青空の下、彼らを見知らぬ過去へ連れてゆくバスが待っている。青い空も、青いバスも、そしてユニフォームを彩るブルーも。
 ――オレは恐れない。
 ふと、バスに乗ろうとしていた倉間が立ち止まって神童を振り向いた。肩越しに午後の光が射して。
 神童は目元だけ微笑んで倉間の肩を叩いた。倉間も少し強張った表情の下から試合前の、いつもの挑戦的な笑みを覗かせた。
「勝とう」
 神童は囁いた。




授業中の僕ら中学生


 ふと自分達がただの中学生なのだなと思い出すのは、柱にペンで記されたかつての身長を見下ろした時や電車の運賃で子どものボタンを押さなくなった時、ポジティブな面もあるけれども、例えば若干の小言を言われつつ月のお小遣いをもらう時など成長したと思いつつも子どもであることを思い知らされることの方が多い。
 思春期はなにかともどかしく、ままならないが、その中でふとただの中学生であることを実感させられる時はあって、それが授業でサッカー以外のスポーツをやる時だと言うと、意外にも二年の多くが頷いた。
 それを聞いた錦が「狭い狭い、井の中の蛙大海を知らずじゃ」と笑うことができるのは海外での生活があってのことで、稲妻町の生活だけでもいっぱいいっぱいな倉間はちょっと黙ってしまうが、「井戸の中もなかなか大変っすよ。釣り堀だって広いもの」と浜野が笑うと少し安心する。
 喋ってばかりいるので教師から怒られた。
「お前達、何やってるんだ」
 近づいてきたのは教師ではなく神童だった。
「授業は真面目に受けろ」
 めいめいに笑いながらだらしない返事をし、手にしたラケットを担いでコートに散る。
「倉間は錦とペアか?」
「負けっぱ。オレだって運動神経悪い訳じゃねーけど、あいつチートくさい」
「錦のは努力の賜だよ」
 ネットの向こう錦が構えたので、神童はコートの外に出る。倉間はそれをちょっと振り返った。
「神童さ、テニスやってた?」
「…いいや?」
「やってるっぽく見えるよな」
 頭を指さすと、ああ、と少し照れたような顔をして神童は帽子を直した。
「帽子だけだろう?」
「様になってる」
 おしゃべりはおわりぜよ、と錦の声が響いてテニスボールは黄色いビームのように迫る。倉間はそれを懸命に追いかけ、両手に掴んだラケットで打ち返した。重い。強い。それを腕から感じる。サッカーとは違うが、これはこれで楽しい。神童の声が聞こえた。応援してくれていた。倉間はラケットを握りしめ、渾身の力で振り抜く。

オマケ

「たまには違うコンビもいいっしょ」
「僕はコンビ結成したつもりはありませんけど」
「言い方が悪いんだろ。ペア」
 と一乃の助け船。しかし速水は握りしめた両手をぶんぶん振る。
「その方が意味深じゃないですか!」
「テニスならペアは普通だよ」
 フォローしながらも笑いながら青山がじゃんけんの手を出した。
「じゃ、勝ち抜け同士でペア組むってことで、文句なし」
 じゃんけんぽん!と四人の声が揃い、勝負は一回で決まる。浜野と一乃は勝った者同士、不適に笑いながら相手側のコートを見据える。また速水と青山はじゃんけんの負けを返すべく、その視線に受けて立った。
「オレたち波に乗ってるからな」
 一乃が浜野とラケットをぶつけさせながら言う。
「じゃんけんで運を使ったことを後悔しますよ」
 速水が言い返し、青山がサーブのためボールをつく。
 鋭くホイッスルが鳴った。青山はよく晴れた空にボールを放り、大きくラケットを振りかぶった。

(2012.6.4 わたりさんの落書きから)




神童拓人を見つめる瞳


 私のものではない瞳で世界を見つめている。私が知らない光で絵が描かれるのを、ようやく太陽の沈んだ窓を背に見つめていた。私には眼球の在処がはっきりと感じられた。そして自分のものではないそれが見つめる世界の色に、瞳も魂も泳いでいるような気がした。
 夕闇が終わり、夜が始まり、青く沈んだ世界にふわりと灯った白い電気の光。それに照らされた髪の色がどんな風に変化するかなんて、その下で微笑む表情のどこに光があたるかなんて私は知らなかったのだ。かすかな笑みを湛えた瞳の縁。涙の膜を見下ろす瞼の淵。君の頬にも光はあたる。唇をじっと見つめるのはマナー違反ですか?
 不思議だなあ。空気は水みたいだったのに、光のあたったところから空気になるんだ。君が微笑みの一歩手前の表情を浮かべているここがどこなのか、私は三つくらいの世界の名前を言わなければいけない気さえする。地球の上、帰り道、熱せられた空気の熱さが夕風に押し流されて、長袖もボタンは一番上だけを外したシャツも似合いの時間だ。お腹が空いているはずなのにね、君は誰かを見送っているんだろう。私は他人の眼球をとおしてそれを見ている。君が微笑みかけようと思っている誰かの瞳の中、水晶体の海に泳ぎながらそれを見ているんだよ。君はそのことを知らないのでしょう。
 私は誰にも知られない秘密を抱いているかのようだ。世界中の誰に話しても恥ずかしくない秘密。自慢さえしたくなる秘密。だけど秘密はこのアイボールの中に閉じ込められて、ひそかに笑うそれも涙の膜を薄く震わせるだけ。この瞳の持ち主は今、笑っているのでしょう? それをちょっと教えてくれたら嬉しいかもしれない。
 ほら夜の明かりが灯るよ。ひとつ、ふたつ、みっつと、君と君が微笑みかけたいこの瞳の持ち主の歩く道を照らすよ。明るく照らされた君の瞳に、私は君の感情を感じる。それは屈託のない、見返りも何も求めない、ただの優しさだ。君自身さえ優しさを滲ませていることに気づいていないかもしれない、感情。だけどそれは瞳、頬に反射する光に、明かりに照らされた髪の一筋一筋に溢れているんだよ。
 でも、そうだね、君は知る必要はないのかもしれない。だってそれは君にとって当たり前のことだから。いつもの、当たり前の感情だから。日々の生活が与えてくれる微笑みなのだから。
 明かりの照らす道を帰ろう。夜が人工の光に不思議と発光する青となる、地球の上の、東の端の岸、二人の歩く道を帰ろう。私はそれを見つめている。見守り、眺め、君を見つめる瞳の涙のそばを泳いでいるよ。君は知らないでしょう。これは君にだけ隠された秘密なんだから。

(2012.6.5 わたりさんのUST配信を拝見しつつ)




のりくんの素直な夢


 思わず椅子から立ち上がってしまった。どこへでも行けそうな気がして。椅子が鳴った。静かな教室から教師の声さえ消えて、本当に水を打ったような静寂に満たされた。椅子の脚が床を擦った音の余韻が自覚さえなかったうたた寝から目覚めたばかりの倉間の耳に残った。それから、赤面。日に焼けたその顔であっても分かるほど真っ赤になって俯いた。
 最初に笑ってくれたのは浜野で、一気に教室の空気がほどける。あきれ顔の教師が眼鏡の向こうで見開いていた目をふっと細めて、おはよう倉間、と言った。
「勢いのいいお目覚めだな」
「あ…」
 まだ口のきけない倉間に着席を促し、授業は再開される。笑いは風の吹き抜けるように収まったが、倉間の背には羞恥に燃え上がった熱が残っていた。
 夢を見ていた。
 夢だとは思っていなかった。教室を抜け出して神童を迎えに行き、梅雨の晴れ間を海に向かって走っていくつもりだった。立ち上がったところで目が覚めた。窓の向こうは雨が上がり濡れた桜の葉が濃い緑を光らせている。梅雨入り宣言の二日後、早い晴れ間。倉間は手で顔を覆う。今日は神童の顔を見られない。

(2012.6.9 寝る前に)




白と黒の静かな戦い


「チェスをしないなんて人生の損だと教えてくれた」
「誰が」
「オレにピアノを教えてくれた人」
 それはちょっと妙な言い回しだった。ピアノ教師とは神童は言わなかった。何かあったのかな、と思うが何があったって倉間には関係ないし、ここで口を挟む気もない。
 ネット対戦のチェスだった。雨の降る土曜日の暇潰しだった。せっかく向かったアウェーの練習試合は前半を終わったところで中止になってしまった。何となく物足りない連中がぞろぞろと神童について屋敷にお邪魔した。いつものメンツだ。二年が揃いも揃って。
 パソコンのモニタでは狭いのでテレビにそれを映し出した。神童の他にルールを知っている者はいなかったが、サッカーも一種の頭脳ゲームだ。把握の早い者は早い。霧野あたりはまあ頷けるとして、錦が「なるほど、やるのう!」と声を上げた時は驚くと同時にちょっと嫉妬した。
 ボードゲームは詳しくない。そもそもサッカーができればそれで満足なのだ。
 オセロなら分かる、と言うと他にも同意見のものがいて、「別に白と黒だからって訳じゃないけどさ」と一乃が何故か恥ずかしそうに言った。
「オレ、五目並べなら分かる」
 これが浜野。
「囲碁なら分かります。漫画全巻読みましたからね」
 速水。
「それジャンプだろ」
「あれで囲碁分かるか?」
 口々に喋り出すが、倉間はそれに集中できない。視線はテレビ画面に、いや、それを見つめる神童の真剣な横顔に釘付けだった。釘付けなのを悟られないよう、だよな、とか、まあな、とか適当な相槌を打っていたが、視線を逸らすことだけはできなかった。
「おっ!」
 小さな声を上げて気づいたのは霧野。錦が一乃と青山を両脇に抱えてテレビを振り返る。相手の新たに指した手。黒のビショップが動くのが、画面の3D画像ではスムーズに見えたが、その実プレイヤーの迷いの末に動かされたものであると、今日初めてそれを見る彼らにも分かった。
「チェックメイト」
 神童の声は静かだったが勝利の確信に満ちていた。その微笑みは、不適でさえあった。ピッチの上でさえこんな表情は見ない。泣き顔は普通。笑顔はまあまあレア。でもこれは超レアな表情かもしれない。
 白のクイーンが動き、勝利が確定する。その安っぽい電子音よりも、ソファの上からの歓声が包む。
「勝った」
 短くしかし素直な喜びを滲ませて神童が言った。倉間は掌を差し出した。神童がその手に自分の手を重ねる。ぱちん、と小さくはっきりした音。倉間はふと気づく。神童の手は白い。そして自分の手はよく日に焼けていた。
 ――でも、やるならオセロだな。
 チェスよりはオセロ。それより、サッカー。

(2012.6.11 チェックメイト)




ひとりとひとりと、ふたり


 こちらを見ているのかと思った、その視線は実のところ軽く下降するラインを描いていて、その先で淡い光のように拡散するのだった。何を見ているのか…。ぼんやりと物思いに沈んでいるようでもあったし、背後で交わされる会話に静かに聞き耳を立てているような――そんな真似はしない性格だと知っているけれども――そんな表情にも見えた。
 沈黙する神童は仮面をつけているようには見えないのだが、何を考えているのか読みづらい顔ではあった。眼の色は静かで思慮深く、長めの髪は表情に陰りをつける。素の表情で、神童は微笑まない。軽く結ばれた唇は言葉にされるべき言葉が見つかるまでいくらでも辛抱強く閉じていることができた。
 何を考えているのか、と軽々しく尋ねることはできない。否、無駄なのだ。それこそ淡く表情を変えて、言葉以外の意思表示をされる。今はまだちょっと考えているから…。そんな意味のことを。
 神童の姿が消えても、その雰囲気はしばらくそこに留まっている。強いられたそれではない、自発的に共有される沈黙。その中で彼の視線を追い、彼の沈黙に耳を傾け、唇が開くまで待ち続ける。そういう芸当ができる人間は多くなかった。霧野。それから一乃の場合は、二軍から見上げている間に鍛えたものだろうか。倉間は…背を向けてしまう。その顔を見ていると、思っていることでも悩んでいることでも何でもいいから言ってしまえ、と襟首を掴みたくなるからだ。
 だから気づかなかった。次の視線がこちらに向けられていることに、視線の刺さる背中さえ気づかなかった。気づかない背中に向けて神童が少し表情を和らげる。もの言いたげな瞳だが、それでも視線は柔らかい。倉間などはぎょろ目の部類だから普通にしていても睨んでいるように見えるらしい。
 表情を和らげたはずの神童の口元が、またふと沈黙の形をなした。今度は少し意図的で、感情の滲んだ沈黙だった。
 視線を向けられた主がそれに気づかないことで神童の視線とその数十センチ分の空気が膠着し、彼は少し息苦しさを感じた。無意識のうちに手が襟首に伸びてボタンを一つ外す。溜息はかすかに、誰にも気づかれぬ程度に鼻からそっと吐き出され、瞼がほんの少し物憂げに下りた。視線に宿った意志は、ほんのちょっとだけ、背中を詰っていた。ほんの、ほんのちょっとだ。ネガティブな感情のベクトルをあまり外には向けないから、神童は…。それでも溢れたそれは、心を許しているが故のもどかしさであり、些細な我が儘であり、気の置けない友人への、おい、こっち向けよ、というサイン。

 自分の部屋で、誰もいない自分だけの場所で神童はようやく裸足になる。冷たい感触を踏みしめ、これが現実だなと思うと納得せざるを得ないようなきもしたし、寂しくもあった。そうか、寂しいんだなオレは、と。認めたくないそれを認めると立っていることもできなくなって、しゃがみ込み膝に顔を埋めた。
 ここにいてほしい、訳じゃない。ここはオレの部屋だから。オレがオレだけになれる場所だから。二十四時間一緒に…いたいだろうか…オレはどう思っているんだろう。今は一緒じゃなくてもいい。でも、あの視線には気づいてほしかった。振り向いてほしかった。どうして気づかないんだ倉間、オレはあんなにお前の背中を見ていたのに。
 この言葉を聞いたら倉間は、自分こそ遠ざかるお前の背中を見ていたのだと言ったかもしれないが。
 オレたちはお互いの背中を見ていた。交わらない視線が互いの背中をすり抜けて、何度寂しさや苛立ちに変わったのだろう。仲良くなった今では、いっそうもどかしい。膝の上で目を伏せ、神童は小さな卵のように丸くなる。瞼の闇が包み込む半径一メートル四方もない世界。オレの内側の世界だ。静かで、声がない。
「ああ…」
 声を吐き出し、神童は瞼を開く。
「声を、かければよかったんだ」
 遠くで呼び鈴のなるのは聞こえていた。しかしそれは殻の外の世界だ。神童は俯いたまま、溜息をついていた。だからドアが乱暴に開いた時は、大きなリアクションではなかったのかもしれないけど目を見開いて本当に驚いたのだ。
「神童」
 声を荒らげているわけでもないけど、その声は背中から真っ直ぐ神童の心臓を貫いて目を覚まさせた。ぺたぺたと足音。玄関で出されたスリッパの踵を軽く引きずる音だ。どすん、と音は立たなかったが、勢いとしてはそれと同じ急落で闖入者は神童の隣に腰を下ろす。
「何やってんだよ。引きこもり?」
「倉間…」
 目を見開いた神童を、倉間はぐっと背を丸め、下から覗き込んだ。
「よっ」
「ああ…」
 さっき部活が終わったばかりなのに、またこの挨拶。ぶっきらぼうで、朝だろうが昼だろうが夕方だろうが変わらない。
「倉間…?」
「そうだけど」
「どうしたんだ…?」
 そりゃこっちの科白、と倉間は呆れる。
「お前がオレに言いたいことあったんだろ」
 言いたいこと、と呟くと、倉間の目はぎょろりと神童を睨みつける。
「ずっと見てたろ、オレのこと」
 気づいていたのか、と言うかわりに息を飲んで、鼻腔が僅かに広がる。
「あんだけ見られれば気づくっつーの。アホか。ばーかばーか」
 何故か最後の方は照れながら倉間は言った。
「分かってくれたのか」
 思わず微笑むと、倉間は眉間に皺を寄せる。
「だーかーら、お前さ、言わなきゃ分かんねーんだよ」
「そうか」
 神童の肩から力が抜け、それはそのまま身体のバランスを崩した。頭が倉間の左肩にどさりとのった。
「…重い」
 倉間の抗議には返事せず、神童はそのまま身体ごともたれかかる。
 何も言う気分ではなかった。言葉は言葉として生まれる前の幸福な混沌の中に溶けていた。そのことを倉間に伝えるのは難しくて、それこそ気持ちで伝わればいいのにと思う。頬の下に倉間の肩の温度を感じながら、自分が今安心して、したいことをしているのだと分かってくれたらなと思った。言葉で確かめるのは無粋だった。
「重いし」
 倉間は言いつつも、神童を振り払おうとか、押し返そうとか、身体を引いてそのまま神童の身体を床に落下させようとか、そんなことはしなかったからだ。自分より小柄な肩が、背中が、脱力した神童の体重を支えていた。
 それは神童からすれば甘えすぎだった。心地良さがそのまま羞恥に変わった。じわりと上がる体温が倉間に伝わってしまいそうで、神童はずるずると重心を傾ける。頬が倉間の左肩から離れ、身体は背中から静かに床に倒れた。
 倉間がちょっと首を傾げて自分を振り向いた。急に重みのなくなった肩がわずかに揺れ、平衡を取り戻す。
「お前さ、マジで、何か言えよ」
「何を」
「いつも言ってるだろ、何でもだよ」
「何でも…?」
 好きとか、と言いかけて飲み込む。その言葉を発した瞬間、限界まで上がった体温が身体を爆発させるような気がした。
「ありがとう」
 小さな声で呟くと、倉間は唇を尖らせた。
「意味、分かんねーし」
「言葉のとおりだ」
「国語の追試はたまたまだ。あんまり馬鹿にすんなよ」
「してないさ」
 知ってる、とでも言うように今度は倉間が溜息をついた。それを神童は床の上から見上げた。倉間の背中や表情を見上げるのは新鮮な気持ちがした。
 手を伸ばして臑に触れる。持ち上げたぼんやりした視線を、倉間はちゃんと受けとめてくれた。
「気づいていないと思った」
 神童は呟いた。
「お前に対して腹を立てていた」
「八つ当たりだ」
「逆恨みだろう」
「どっちでもいい」
「そうだな。どっちでもいい。もう怒っていない」
 流れる髪が憂いを含んだ影を払い、表情を変える。
「だから、ありがとう、さ」
 倉間はちょっと顔を赤くして、しかし顔を背けることはできず視線だけを逸らす。
「来てくれるなんて、思わないじゃないか」
「で、いじけてたのかよ」
「声をかけなかったことを後悔していた」
 珍しい言葉を聞いたと倉間の視線が引き戻される。
「後悔?」
「お前の名前を呼べばよかったよ」
「どうして」
「呼んだら振り返ってくれただろう」
「まあな」「それから話せばよかった」
「言いたいことを?」
「ああ」
 神童はゆっくりまばたきをする。
「別に話題はなかったが、それでも」
「なかったのかよ」
 そう言ったものの倉間は呆れているわけではないようだった。指先が、臑にかけられた神童の指の先にちょっとだけ触れた。
「何で触ってんの、お前」
「いけないか?」
 倉間は返事をしなかった。またちょっと沈黙がおりたが気詰まりではなかった。
 その後倉間が帰るまで、床が冷たいとか、そんな話をした。

(2012.6.13 わたりさんの絵茶を見学しながら)



2012.5〜6 渡鳥さんの絵を拝見しながら、照応。