宵は盛春なり
朝から薄ぼんやりした天気だったけれども、結局日の光は一条も射さないまま夕に暮れ、夜と共に溢れ出した雨と風がやってきた。暴風は神童の邸の庭木をざわめかせ、ピアノの音さえ放たれた途端どこからともなく外へ抜け出て風に攫われるような気がした。暴風荒れ狂う夜。春の嵐だ。 電話の音には自分では気づかず、家の電話が保留状態で自分のところまで運ばれてきた。点滅するボタンを押して応答すると、携帯見ろよ、という倉間の声。着信は三度にわたっている。すまない、と謝りながらピアノの蓋を閉めた。 昼間は曇天の下にも暖かかったのに、花曇りの熱気も風に飛ばされたか夜は急に肌寒い。神童はカーディガンを引っかけると自分で台所に向かった。コーヒーと紅茶で迷う。電話口で尋ねると『自分が飲むんだろ』ともっともな返事だ。 「でも、お前が決めてくれたら」 『オレが?』 「少しは気分が違うかと思ってさ」 日光の射さない春は、去年を思い出して息苦しくなる。心がどんよりと重たく沈む。 『じゃ、気分変えてコーヒー』 「片手で淹れるのは難しいな」 『インスタントにしろよ』 甘い物も欲しくなった、と言うと、ドーナツねえの、とまるで常備されているかのような倉間の言葉。 「今日は買ってない」 『今日、は?』 「倉間が来なかったから」 『…夜にドーナツとか太るぞ』 「自分から提案しておいて」 『うっせ』 コーヒーを手に部屋に戻る。 「風がひどい」 『ああ』 「ピアノを弾いていてもうるさいくらいだ」 『優雅だなあ、お前』 「いつもの練習だ。何も特別なことは」 『そういうとこが優雅なんだよ。オレたちと違う』 「そんな…」 『ま、オレにはピアノがない分ゲームとかあるし。お前のピアノだって、たまにはちょっと面白いよ。クラシックわかんねえけど』 速水の影響で手を出した音ゲーの話を少し。倉間が電話口で口ずさんで、ベートーヴェンのアレンジだと教える。 『ああ、やっぱ。聞いたことあると思った』 一番得意な曲だと言う。 「今度弾こうか」 『この前弾いてたろ。だから覚えてんだよ』 「その…それ調で」 『できるのか?』 「練習しておく」 『いいよ、いつもので』 コーヒーに口をつける。 いいよ、いつもので。 やっぱり紅茶が欲しくなった。いつもの倉間が側にいる時の味を。電話をしたままピアノが弾ければいいのに。この音が届いて倉間と繋がったらどんなにいいだろう。紅茶と、ドーナツと、ベートーヴェン。 「明日、一緒に帰ろう」 『ドーナツ付きか?』 「もちろん」 嵐が窓を震わせる。神童はいつもと違うコーヒーの香りに包まれて、明日の約束を口にする倉間の声に耳をすませる。その向こうでも風が吹き荒れているのが分かる。これが春嵐の音、春嵐の香り、春嵐の味。記憶の中にまた新しく重なってゆく。まだ見えない明日の景色と共に。
2012.4.22
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