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久遠のものだという浴衣に袖を通した。久遠は父のものだったというそれに袖を通し、布団の上にあぐらをかいた。煙草を吸うようだった。二階堂はライターをつけてやった。どうも、と小さな声で礼を言い、久遠は顔を近づけた。 二階堂は布団の上に横になった。この布団の匂いも鼻に馴染んだ気がする。それでも横になればまた鼻に新しい畳の香り。 ふと思い至り、久遠、と呼ぶと、相手はちらりと見下ろした。 「厳しいご両親だったんだろ?」 「…ええ」 「お前のお母さん、ちゃんと解ってたんじゃないか?」 掌で畳の上を撫でる。 久遠はまた庭に視線を投げ、紫煙を吐いた。 真新しい畳。優勝したら宴席を、ではない。久遠の母親は決勝に勝とうが負けようが、久遠がそこまで来たことを褒めようとしたのではなかろうか。都合のいい考えかもしれないが、二階堂にはそう思われてならない。畳のいい香りをかいでいると尚更だ。 「諦めるには勿体なさ過ぎるよ、久遠」 「益体のないことだと、何度も言っている」 「世界がお前にサッカーを見ることを禁止した訳じゃない。見ることも、研究することもできる。現場に復帰するには十年を耐える必要があるが、お前は自分で意志が強固だと言ったじゃないか」 「…その頃は久遠道也の名を覚えている者はいない。いたとして、私を恨んでいるでしょう」 「俺は覚えてるよ、お前がどれだけ有能な監督だったか。木戸川清修悲願の決勝行きを阻んだチームの監督が誰だったか。解っている人間は確実にいるんだ。真実は闇に埋もれやしない」 久遠は黙っていた。手元の煙草がちりちりと灰に変わる。彼は思い出したように灰を落とすと、煙ではなく息を吐き出した。 「映画のような言葉だ」 「…だったのかもしれない」 「いや、あなたの言葉だな。あなたは格好良いことを恥ずかしげもなく言う」 ふはっ、と二階堂は笑った。久遠はどうやら褒めたつもりらしい。顔を背けている。 「俺は待ってる」 二階堂は手を伸ばし、久遠の腰を叩いた。 「お前がもう一度ピッチの側まで戻ってくるのを、いつまでも待つよ」 うつぶせになり、瞼を閉じる。久遠の視線が戻ってきて首筋や、ほんの少しのぞいた頬を撫でるのが分かったが、それも今は心地よい視線だった。 遅い月が昇り、さやかな光が座敷に射す。久遠は煙草を灰皿の上に寝かせ、自分も横になった。二つ枕の布団に静かな寝息が落ちる。虫は二人を起こさぬよう、縁の下で遠慮がちに鳴いた。 空が白み始めたばかりだと、流石に高地か肌寒い。おとなしい虫の声。蝉もまだ目覚めない。景色のどこもが朝露にしっとりと濡れている。いい匂いの空気だと、二階堂は昨日憎しみの目で見たばかりの景色を、もう一度新鮮な心で眺めた。青田の脇には露草が咲いている。たわむれに一本手折り、軽く振りながら歩く。花を綺麗だと思う。景色を美しく思う。田舎も悪くない。 花の上に乗った朝露が跳ねてシャツに飛んだ。久遠のシャツだ。そのまま拝借してきた。長袖なので、朝の気温にはちょうどいい。 ぬくもりか、と思う。少し笑う。おかしい。 目を覚ました時、久遠はまだ隣に眠っていた。時間は早すぎたし、昨日のことで二人は疲れ切っていた。心地よい疲れは身体を心地よい眠りにとどめて離さない。できれば二階堂ももう一度瞼を閉じてしまいたかったし、せめてもう少し久遠の体温のある布団に横になっていたかった。しかし、もう決めていたのだ。 昨日シーツと一緒に洗濯されたポロシャツが乾いているのは知っていた。しかし二階堂は久遠のシャツを拝借して、外へ出た。 空の端に月が残っていた。銀色の光をその表面にわずかに残した涼しげな月だった。 田の間を抜けたら、道が下る。数日前バスで上ったつづら折りの坂を今度は徒歩で下る。鬱蒼と茂る樹が風景の端に現れる。 ほんの三日の滞在だったのが嘘のようだ。今、この風景も匂いも二階堂の肌に馴染んでいた。絶え間なくどこからか聞こえる虫の音。早い蝉が鳴き出す。 「二階堂!」 叫ぶように呼ばれた。二階堂はここまで歩いてきて初めて、そしてようやく振り向いた。 青田の広がる高地の景色。遙か向こう、わずかに高台になったところに大きな屋敷が見える。三日前、あそこには鯨幕が張られていた。人の姿のない、暑い午後だった。 あの日、異界を彷徨うがごとく歩いた一本道の向こうから久遠道也が駆けてくる。 「よう」 片手を挙げて、笑った。 息をきらせ走ってきた久遠は、しかし追いかけてきたのに言葉が出ないようだった。 「ずっと走ってきたのか」 浴衣の裾をからげている。着替える暇もなかったらしい。なのに足下ばかり靴だから、妙な格好になっていた。 「帰るよ」 「……何故…」 「今日で盆休みも終わりだからさ」 久遠は返事を詰まらせ、まじまじと二階堂の顔を見たが、まるで何かに負けたかのような表情で大きく息を吐いた。 「追ってくると思ってた」 二階堂が言うと、むっとして顔を上げる。 「半分だ」 二階堂は苦笑した。 「半分は、追いかけて来ないかもしれないと思っていた。だから今、俺は嬉しい」 手を伸ばし、腕を軽く叩く。久遠はもう一度息を吐いた。落ち着いたようだった。 少し、並んで歩いた。 服は乾いていただろうと久遠が言った。 「わざとさ」 二階堂は軽く襟をつまんでみせる。 「取りに来いよ、俺の部屋まで」 「あなたが自分の服を取りにくるのが筋では?」 「俺もまた来る。だからお前も、俺のところに来い。それが人間関係ってもんだろ」 からげた裾を戻した久遠は懐手で顎を撫でた。様になっているな、と思い二階堂はひそかに笑った。そのポーズが気に入ったことは、言わなかった。 青田が終わる。道が下りにさしかかる。久遠が足を止め、二階堂が足を止めた。 二階堂はもう一度、風景と久遠を振り返った。日の出はまだだが、空はだいぶ明るくなっている。太陽の昇る気配に、空気が匂いを変える。 久遠は感情を押し隠すような無表情で立っていた。 二階堂はにやりと笑い、拳を繰り出した。いい速度だったが、久遠の反射神経もよかった。厚い掌がぱしんと音を立てて拳を受け止めた。 「取り戻しに来いよ、必ず」 掌は一瞬拳を包み込んだが、すぐに押し返した。 「……いずれ」 短く、しかし意志を込めて久遠は言った。 坂道を、見えなくなるまで久遠は見送ってくれた。二階堂は歩き出すともう振り返らなかったが、シャツに、背に、彼の視線を感じた。久遠の視線を、二階堂は肌で覚えているのだ。 手の中で少ししんなりした露草を胸のポケットに入れる。駅まではまだまだ、坂を下りて、それからも距離があった。農作業に出るらしい軽トラックが追い抜いて行こうとしたので、停めて、少し乗せてもらった。 駅では券売機の下で小銭を拾った。二階堂はそれをポケットに入れ、使わなかった。 最初の電車が来るまで、まだ時間がある。ホームのベンチに腰掛け、朝の匂いを胸一杯に吸い込む。ふと、久遠、と彼の名前が口をついた。 「そうだ忘れてた」 二階堂は独り言をこぼした。 「お前のこと好きだって、言い忘れたな」
2011.7.5
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