5
座敷に横になって庭を眺めている。久遠がシーツを干している。今日も嫌になるほどの晴天と暑さだからすっきりと乾くだろう。 頭の下にはハイデガーを敷いている。今日は、開いたとしても一字も頭に入る気がしなかった。身体のだるさもある。頭の中があの男で占められているせいもある。白日の下で感じ続ける恥ずかしさのせい、でもある。 あのシーツを汚したのは俺だ、と思う。勿論、久遠のせいだとも思う。むしろ、久遠のせいだ。あいつが意地悪をするからだ。 朝からほとんど喋っていない。黙って飯を食い、洗面所に用意された真新しい歯ブラシで黙って歯を磨き、あとは座敷でごろごろしている。 せめてあいつが勃つんだったら、と二階堂は久遠の後ろ姿を眺める。あの時、勃起していてくれれば、こんなに重たい事態にはならなかったものを。 しかし彼を責めても仕方ないのだろう。指を使ってきたということは、久遠は自分のものが役に立たないと気づいてのことだったはずだから。自らの欲望を果たせないと分かっていても求められたことは…だが、存外に悪い気分ではなかった。 いつの間にかシーツのはためく間に久遠の姿はない。どこへ行ったのだろうとぼんやり考えていると、低い声がぼそぼそと廊下に響いた。電話をしているようだ。聞き耳をたてるつもりはなかったのだが、静かな屋内に久遠の声は低くともよく通った。この後、来客があるらしい。 電話を終えた久遠が通りがかったので、畳の上に寝転んだまま呼び止めた。 「誰か来るのか」 「…聞いていたんですか」 身体を起こしながら弁明する。 「少し聞こえただけだ、気を悪くするなよ。邪魔なら…」 出て行く、と言おうとして言い淀んでしまった。それには久遠も気づいたはずだが、構いません、と二階堂を遮った。 「蔵のものを処分します」 「骨董を…あれ全部か?」 「私には必要がない」 「でも、形見だろ」 「昔からよく聞く話でしょう。駄目な息子が先代までの財産を食い潰す」 「…隠居でもするのか」 「先からそのつもりです」 確かに久遠はサッカー界を追われただけではない。同時に社会的地位を失っている。身をひそめて生きるのは、ごく当然の考えだ。 「俺も一緒にごろごろさせてもらうかな」 軽口のつもりだったが、久遠は笑わなかった。それどころか真顔で言った。 「あなたには帰るべき場所があるでしょう」 「ああ、あるさ」 二階堂はあぐらをかき、正面から久遠を見据えた。 「でも俺はお前を諦めるつもりはない」 「そう思われるのは勝手です。私の方からはもうお会いするつもりはありません」 はっきりと言葉で言われると、それはずどんと二階堂の胸に落ちた。同時にそれが胸の奥のマグマのような怒りを刺激した。 「昨夜あれだけ人の身体を弄んでおきながら、それはないんじゃないか?」 「いい思い出にさせてもらいましたよ、二階堂先輩」 「思い出だけでどうする、マスだってかけないくせに!」 煽ったつもりだが、久遠は表情を変えない。それどころか、酷薄な笑みさえ浮かべた。 「怒らせて、本音を引き出す魂胆ですか」 「そこまで分かってりゃ話は早い」 「本音ですよ。もうあなたにも会わない。ここで静かに暮らす」 「あれだけギラギラした目を見せておいて、枯れた発言だな」 「これで枯れたようなら私には都合がいい」 「俺のこと、恋しくはないのか」 わざと、二階堂は言ってみせた。これはこれで恥ずかしかったが、涼しい顔をする久遠への怒りの方が勝った。 「あなたのことは好きでした。大学の頃も。再会した時も」 あまりに正直な物言いに、二階堂は思わずぽかんとして久遠の顔を凝視した。淡々と、告白をする久遠はしかし、静かすぎる口調を変えなかった。 「あなたが手に入らないこと、あなたがいないことも、寂しいと思ったことはありません。それが私の日常だ」 やかましく蝉が鳴く。二階堂の背を汗が滑り落ちる。久遠は相変わらず蔭を背負うように廊下に佇んでいる。 「自分の手を汚したと言い、歴史あるサッカーチームを一つ消滅させ、全てを失った私を、あなたは不幸であり惨めだと感じているようだが、いいですか、私は私の意志でこうした。私には意志がある。強固な意志だ。だから、こう決めたら、そうなるまで私は耐えきります。サッカーにも、もう二度と、絶対に、関わらない」 「お前…」 二階堂は前のめりになり、畳を掴んだ。爪ががりがりと音を立てて緑の畳を掻く。 「お前は自分に嘘をついて、自分の心を殺してるんだ」 「やめてください」 それは拒む声ではなく、むしろ諭すように静かに響いた。 「死ぬ間際、母が替えたばかりの畳だ」 「あ…」 「母は私の率いるチームが優勝すると信じて、みっともない屋敷では祝賀会も開けないと畳替えをしたんです。準決勝に勝った報せを受けて」 呼び鈴が鳴った。二人はそこにじっと動かなかった。呼びかける声が響き、ようやく久遠が表に出た。 二階堂はぐったりと俯いた。 蝉の声が歪んで聞こえる。暑い。いつの間にか、屋内もこんなに暑くなっている。水を飲みたい。血が熱い。話し声がするので横目に視線をやると、久遠が骨董商を連れて庭を横切る。話、と言っても骨董商が一方的に喋るばかりで、久遠は相槌さえ打たなかった。 二階堂は瞼を閉じた。水を、と思った。その前に襲い来るめまいに耐えなければならなかった。 日の匂いがする。真っ白なシーツが海のように広がっている。久遠の背中は縁側にある。洗濯物を取り込んだまま、そこに腰掛け煙草を吸っている。 「おい」 背後から呼びかけると、右手が穏やかな仕草で煙草を揉み消した。紫煙が揺らぐ。 「駅まで送っていけよ」 久遠が振り返る。感情のない眸が二階堂の表をさらりと撫でる。 「帰る」 二階堂は吐き捨てた。 よく晴れているのに、あちこちで蛙が騒ぐ。夕立が来るのかもしれない。でもどうでもいい。自分はもう田圃だらけのこの場所を離れる。駅から電車に乗ればあっと言う間にこの景色ともおさらばだろう。 この長閑な景色を、こんな所には一度も住んだことがないのに懐かしさを感じさせる風景を、今や憎んでいるのだと二階堂は知った。ここが久遠の選んだ場所だからだ。サッカーから切り離した人生として、この広大な緑と空に挟まれた間のだだっぴろい家を、人の気配のない暗い座敷を、己の檻として定めたからだ。 あの準決勝まで音信さえ取らなかった相手なのに、二階堂はこの風景に久遠を取られた気になっていた。まるで十年来の恋人を奪われたかのように。 久遠のランドクルーザーは舗装の古い田舎道もすいすいと走った。エアコンが効いていて涼しい風はとても心地よかったが、二階堂は勝手に手を伸ばし、それを止めた。久遠はちらりと横目に見ただけで、何も言わなかった。 窓を開ける。風は吹き込むが熱い風だ。肌が急に汗ばむ。煙草でも吸ってやりたいと思った。この景色に煙を吐きかけてやる。二百種類以上の有害物質の混ざった煙を、思い切り。稚気にも近い苛立ちと共にそう思った。 山側に積乱雲がもくもくと湧き上がる。蛙が不意に鳴き止む。少し遅れて、胴に響く音がした。雷鳴だ。日が翳る。田の端からさっと影が覆ってゆくのを、二階堂はその目で見る。夕立は背後から追いかけるように車に迫った。そこまで白くけぶる壁が迫ったと思ったら、すぐにざんとランドクルーザーの屋根を打った。二階堂は窓を閉めた。 ワイパーがフロントガラスを拭う。民家の何軒かと続けざまに擦れ違い、穀物倉庫と集会場の古い建物が並ぶ。急に建物の密集する、その中心に駅があった。 駅の前は少しだけ拓けていて、一応駐車場らしく、掠れた白線が引かれている。久遠はそこに車を停めた。エンジンは切らなかった。 沈黙が車内に下りた。 二階堂も黙っていた。言うべき言葉は、もう言ってしまったのだ。そして久遠はそれを拒否した。話し合いは終わり。明日で盆休みも終わる。二階堂は肌に馴染んだあのアパートで、この非日常の空気を忘れてごろごろすればいい。帰ればサッカーがある。彼が生き、これからも生きたいと思う世界がある。久遠の捨てた世界だが、それを繰り返しても始まらない。 また手がポケットを探っていた。もう煙草はない。久遠も吸わない。彼が吸うなら、最後の最後にもらい煙草を別れのしるしとしてもよかったものを。 「元気で」 心にもない、しかし普段の二階堂なら心から願ったであろう言葉を吐いた。 「あなたも」 久遠は低く応えた。それが別れの合図だった。 ドアを開けると夕立は強くアスファルトを打ち、熱気と雨の匂いがむせるように立ち込めていた。二階堂は後ろ手にドアを閉め、振り返らなかった。 雨の向こうから弱い視線を感じた。あの目が、今や生気をなくした目が、ぼんやりと自分の背中を見送っている。腑抜けめ、と毒突いた。 小さな駅舎の改札脇には券売機が置かれている。コイン投入口の上に赤いランプが点いているから、今もそれが動いているのだと分かる。二階堂はポケットから小銭を探った。取り出したそれを入れようとすると、かちり、と投入口に触ったところで雨に濡れた指が滑った。声を出す間もなかった。コインは転がり、券売機の下に潜り込んだ。 ざあざあと夕立が降る。駅舎の入り口からも、改札口からも雨が吹き込んでいる。コンクリートの湿る匂い。雨に濡れた自分の肌からも、熱で水蒸気が立ち上る、自分の体臭と水の混ざった匂い。こんな田舎に住んだこともないのに懐かしい匂いと、音。景色だけが寂しい。天井の白熱灯は点かない。 夏影、と久遠は言った。 白雨、と久遠は言った。 その唇で二階堂にキスをした。 あの手が自分の身体を這った。 同じ手が味噌汁を作り、飯をよそった。 寂しいと思ったことはない、と久遠は言った。 同じ唇が、もうサッカーには関わらない、と言った。 もう二度と。 絶対に。 二階堂は踵を返すと雨の中に身を投げ出した。ぽん、とボールのように雨の中に飛び出し、狭い駐車場を見た。ランドクルーザーはまだ停まっている。エンジンが切れている。フロントガラスの上でワイパーが中途半端に止まっている。雨に濡れるガラスの向こう、ステアリングの上にうなだれた久遠の頭が見える。 久遠、と叫ぶ勢いが、叫ぶ声の出ないまま身体の中で渦巻いて、二階堂は水溜まりを跳ね上げ、ばしゃばしゃと運転席に近づいた。がばりと音を立ててドアを開くと、弾かれたように久遠の顔が上がった。 何も言わず、雨と一緒に無理矢理身体をねじ込ませ、相手の頭を掴んでキスをした。押されるがまま、久遠の身体はずるずると助手席側に傾く。二階堂は膝を乗せ、相手の身体を押し倒し、足を擦って靴を脱ぎ捨てた。水溜まりの中に濡れた靴の落ちる重たい音がしたが、それはもう耳には届かなかった。 唇を離し、二階堂は真上から久遠の顔を見下ろした。そして初めて彼の中に表情を見た。久遠は怯えていた。目の奥から孤独が流れ出して、久遠の顔を歪めていた。その上に自分の髪から滴り落ちる雨がぽとぽとと落ちた。 喉の奥が塞がる。せり上がるものが大きすぎて喉を通らない。しかし言わなければならなかった。言わなければ胸の奥から爆発してしまう。 「馬鹿野郎」 すり潰した声で二階堂は吐き捨てた。 それが決勝戦の行われるはずだったあの日からずっと胸の奥で渦巻き続けてきたものを全て溶かしていた。 「馬鹿野郎が」 久遠の顔はいよいよ歪み、目が、口元が表情を湛えきれずにいる。 唇から頬に二階堂は噛みついた。唇の端を歯が破った。血の味がした。その味に血の匂いを思い出した。暑く籠もった夜の匂いを思い出した。若かりし日の汗の匂い。煙草の煙。ぬるいビール。部室の狭い雀卓に久遠は座っていた。天井から裸電球が照らしていた。久遠はこちらを見た。二人は視線を合わせた。言葉はなく、初対面のお互いの目を見つめ合った。それが出会いだった。 二階堂は乾いた久遠の服を性急に脱がせた。シャツを捲り上げると、裸の胸板に触る。キスではなく、噛みつく。既に欲情はしている。そういう身体にされた。そういう心には、とっくになっていた。 久遠がわずかに身体を起こし自分でシャツを脱ごうとしたが、二階堂はそれを押さえつける。すると久遠は抗う力も強く、逆に二階堂の服を脱がせようとした。それは濡れて、なかなかうまくいかなかった。 二階堂は腕を払いのけ、起き上がると自分で服を脱いだ。その間に久遠も自分のシャツを脱いだ。 裸足の足の裏を雨が叩いていた。二階堂は振り向き、狭いドアの向こうに夕立の景色を見た。濃い灰色の風景は、輪郭も曖昧で、時さえ滞るようだった。 二階堂はドアを閉め、久遠に向き直った。久遠はじっと自分を見つめていた。目に滲んでいるのは、もう怯えではなかった。 どちらからともない、噛みつくようなキスだった。 掌で押すと、その形が分かった。何だ、と拍子抜けした。勃つんじゃないか。二階堂は自分の掌を舐めた。雨水の味がする。汗のしょっぱさも少し感じる。相手の分かな、と思う。いざとなれば口を使わなければならない覚悟もしていたので、直視してそれを掌に包み込んだ。久遠が小さく息を漏らす。それが聞こえて、二階堂の中には少し笑いが戻ってきた。 久遠の手が自分に向かって伸びる。ズボンを下ろされる瞬間は鳥肌が立ったが、口元は笑った。 二人こんな体勢になればどんな車内とて狭い。しかしそんなことも、もう二人の頭にはなくて、とにかく今はようやく交わることのできた達成感に息をきらせていた。 「お前にしては頑張ったじゃないの」 「…褒めてくれるんですか」 久遠は二階堂の腰を支えながら苦しそうに息を吐き、唇を舐める。 「これからが本番なんだけどな」 痛みに耐えながら、情けない顔で二階堂は笑った。 「でも、俺、後輩には弱いから」 「嘘だ。厳しい先輩だった」 「そりゃ、昔は、な」 キスをすると、意外にも久遠の方から離さない。頭をほとんどかかえられるように貪られ、あれ、続きの科白があるんだけど、と思いつつ二階堂も流される。 他の部員がいる手前、表だって久遠に好意を向けるのは難しかった。何より久遠は生意気で鼻につく後輩だと周囲の意見は一致していたからだ。二階堂はそもそも周囲の評価に関係なく、分け隔てない接し方をする人間ではあったけれども、中には鼻の効く奴もいる。久遠が自分へ向ける視線に、また自分が久遠へ抱く興味に感づかれないとも限らなかった。だから、あれ一度きりなのだ。煙草の味のするキス、たった一度の。 今、久遠からはやはりかすかに煙草の匂いがした。しかしキスを繰り返すうちにそれも気にならなくなる。今自分に突っ込んでいるのは今の久遠なのだ。 動いていいですか、と雨にも負けてしまいそうな囁き声が聞こえた。二階堂は意識が朦朧としかけていたが、彼が中にいるという痛みが現実に引き留めていた。よく顔を見ると、眉根を寄せて真剣な顔をしている。それがおかしくて思わず笑いがこぼれる。 「よーし」 支えるため、相手の胸に手をつき身体を起こした。 「お前の本気、見せてもらおうか」 挑戦的に笑うと、腰を支えていた久遠の掌が腹を押した。思わず声が漏れる。何をするんだ、と見下ろすと久遠もにやりと笑っていた。 「後悔、させてみせます」 そうだ。二階堂はもう、その覚悟をした。お互い関係を繋ぐことで生まれる傷も痛みも、相手の側にいるためなら。 「させてみろよ」 後悔するほど忘れられないものになればいい。俺も、お前にも。 夕立は止む気配がなかった。灰色の雨が屋根を五月蠅く叩き続けるのも、内側から響く声もいい勝負だ。雨の止む頃には、洗われた空に星が輝いていた。ランドクルーザーはしばらく沈黙していたが、やがて思い出したかのように動きだし、ライトで田舎道を照らした。 電車が遠くからやって来て、誰乗せることもなく、また彼方へ走り去った。
2011.7.5
|