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次に瞼を開いた時、蝉の声はじわじわと五月蠅い油蝉から、あの独特の郷愁を呼び起こす茅蜩の声に変わっていた。二階堂は硬い枕に気付いた。存在と時間が頭の下に横たわっていた。ちょっとした趣向だな、と思う。 久遠の姿はない。 台所だろうか、と立ち上がる。手は自然と、枕にしていた本を掴んでいる。しかし台所に久遠の姿はなかった。他人の家だが、と遠慮しながら他の部屋を覗き、風呂場まで見たが、湯の用意はされているものの、人の姿はない。玄関に行くと下駄がなかった。広い土間に自分の靴だけがぽつりと揃えられていた。二階堂はそれを履いて、外へ出た。 茅蜩の声が包み込む。それは身体を包む声というより、魂を直に包まれるような奇妙な感覚だった。郷愁。住んだこともない、訪ねたことさえ初めてのこの田舎に長い時間をかけて辿り着いたような切なさ。夕景の中、人はない。自分が一人、いるばかりだ。久遠の姿を探す。白壁の蔵。松。昼前まで鯨幕の張られていた長い塀。 「久遠」 小さな声で呼んだ。その声は虚空に小さな石を一つ落とすような心許なさで口からこぼれ、小石のような頼りない質量で地面に転がった。 帰ってこないのかもしれない。 不意に思ったのではなかった。あの電話を受けた日から、ずっと懸念としてあった。自分に見届けさせるために、久遠はあの電話をしたのではないか。 見届けるも何も、彼の姿はない。二階堂は門前に佇み、斜光と同じく長く伸びる門の影の中で明るい夏の夕景を眺めた。 ふと、懐かしい匂いが鼻を掠めた。遠くから音がする。足音、ではない。雨音だ。遠くが白く霞んでいる。雲の淡い影をまとい、夕立がやって来る。 雨の白い壁はあっと言う間に二階堂の眼前に迫った。慌てて門の下に入ると、今まで自分の立っていた場所がどっと濡れて土の色を黒く染めた。そこで気付く。ここは舗装もされていないのか。 雨でどこもかしこも白くけぶっている。だが、涼しい。跳ねる雨粒が足首を濡らすのも心地よい。二階堂は門にもたれかかり、ほっと息を吐いた。 「何をしているんですか」 遠くから声が呼んだ。大声を出しているようだった。雨音が強く、ノイズのように遮られはしたが、確かに届いた。二階堂はそちらに首を傾けた。玄関先に久遠が立っている。自分をじっと見つめている。 「…呼んだか?」 二階堂が笑うと、久遠は逆に仏頂面になった。 「何をしているんですか、二階堂先輩」 「迎えに来てくれよ」 雨の中に片手を差し出す。掌を強い雨が叩く。 「濡れちまう」 溜息も聞こえた気がした。 濃い紺色の傘が雨の中に開いた。傘が雨を遮る、その境界さえはっきりと見える強い雨だった。 「来ましたよ」 眉間に皺を寄せたまま久遠が言った。 まるで憎まれているのかと思うほど強い視線だった。二階堂はそれを感じたことがあった。血肉に食い込むような視線だ。そんな眼差しをこの男は持っている。 まだ、持っているのだ。 今、この傘を払えば雨に濡れる久遠はどうするだろう。血が滾るだろうか。自分を殴るだろうか。それとも。 「悪いな、我が儘言って」 へらへらと笑い、二階堂は傘の中に入った。広い傘だった。二階堂の肩は濡れなかった。しかし久遠の肩は濡れていた。男二人が一つの傘の中だ。当然だった。 「お詫びをするよ」 「そんなもの期待していない」 「台所を貸してもらえれば。お前がそれを許すならだけどな。で…」 玄関に着く。久遠は雨粒を払って傘を閉じる。そして玄関脇に立てかけた。 「先に、風呂入っちまえよ」 濡れた肩を見下ろして、言った。 「そのつもりでした」 短く答えて、久遠は先に玄関に入った。 「台所を使うなら、どうぞ勝手に」 濡れた肩の後ろ姿が暗い廊下に溶けようとする。その刹那、何を思ったのか、急に後ろ髪を引かれたかのような仕草で久遠は振り返った。 彼は二階堂を越して開いた戸の向こうを見つめた。 「どうして白雨の中に…」 ぼんやりとした口調だった。 「お前を探しにさ」 二階堂も、久遠が白雨と呼んだ景色を振り向き、溜息をつくように言った。 風呂から上がると、久遠はもう寝ようかとしている。夜は九時もまわっていない。 「早いんじゃないか?」 「もう、やることがないので」 手には読みさしの本があるから、自室――幾つもある部屋のうちどれかは知らないが――で、一人静かに読もうというのだろう。それくらいなら、と思い「つきあえよ」と言う。 明かりの落ちた縁側に並んで座った。月はまだ昇らず、蚊取り線香の小さな赤い光が際立つ。煙の、懐かしい香りが鼻をくすぐる。これにビールがあれば最高だと思っていると、久遠が持ってきた。 「テレパシー?」 手渡されるのを見上げて尋ねる。 「つきあえと言ったのは先輩だ」 別にアルコールまで期待してなかったのだが、と思ったが口には出さなかった。話題を変える。 「先輩って呼んでくれるなんて、懐かしいな」 「そうですか」 「どういう風の吹き回しだ」 「どんな風も吹いていない。あなたのことは先輩としか呼んだことはありませんが」 「まさか。この前の…」 これは触れざるを得ない話題だった。だから二階堂は口に出した。 「フットボールフロンティアの時は、勝ったのにしかつめらしい顔して、二階堂監督、だったじゃないか」 「公私は使い分けます。当然でしょう」 ビールのプルトップを開ける。缶は掴む指先を痺れさせるほど冷たい。よく冷えた液体が刺激しながら喉を流れてゆく。 「…一体、何があったんだ」 二階堂は湿した唇を開いた。 顔を見ると、久遠の横顔はまた何もかもを拒絶する無表情になっている。指はビール缶を掴んでいるが、開ける気配もない。 虫の声が涼しげに響く。昨夜も感じたが、夜は本当に涼しい。風もさらりとしていて湯上がりの肌を撫でる。 旧知の間柄であり、アルコールがあり、この環境だ。本来ならば思い出話に花を咲かせるべきなのだ。しかし、久遠は既に岸を違えたかのように遠い。 「久遠」 引き摺り戻すように二階堂が呼ぶと、ちらりと冷たい視線だけがこちらを見た。 「ご存知のとおりです」 「俺が何を知ってるって?」 「報道されたでしょう。あれが事実だ」 「…お前の専門は国語だったよな。あれは事実、か。なら真実はどうなんだ?」 「知ってどうするんですか」 真実のあることを案外あっさりと認めた久遠は、しかし見下すような色さえ滲ませて二階堂を見た。 「葬られた真実は存在しないに等しい。そして葬ったのは私の意志です。あなたには関わりのないことだし、関わらせるつもりもない」 「俺はヤワじゃない」 「あなたのタフさがどうのと問うてはいない。別にあなたを思って言わないのではないのだから」 手がビール缶を離れ、立てた膝を軽く抱く。 「…選手のことか」 久遠は答えない。 監督が何かを守ろうとするならば、ましてそれが中学サッカーの監督ならば、守りたいものは何よりもそれしかない。自分のサッカーの実現、優勝、名監督という名声に惹かれるのは人間ならば当然のことだが、それ以上に監督であり、教師であり、これから羽ばたこうとする十代の少年達の未来を思えばこそ、それを考えるのが中学サッカー部の監督であり、そうあるべきだと二階堂は考えている。久遠もおそらくそのはずだ。 久遠が暴力沙汰を起こすとは、それが報道によって知らされたものでも、二階堂には信じられなかった。しかも決勝戦を前にだ。 「生徒、だったのか」 その問いを、二階堂は口に出してしまった。この環境であり、二人きりだからこそ、尋ねずにはいられなかった。今ここにいるのはサッカー監督ではない。旧知の、一人の男の身を案じる二階堂修吾だ。 久遠はやはり答えない。ただ目を細め明かりの射さぬ庭に視線を投げた。 何も言わぬ横顔は、独りの顔だった。すぐ側に二階堂がいるのに、やはり隔てられていた。何もかも手放し、孤独の野に佇んでいる。 「それで、実家に戻ったのか」 「いいえ」 声は答えたが、眸は遠くを見たままだ。 「母の死の報せを聞いて戻りました」 「最期に…」 「立ち会っていません」 淡々と久遠は答えた。 大変だったな、という言葉は二階堂の口の中で萎んだ。口の中が乾いた。なのにビールを口にすることも忘れていた。 「戻っては…来ないのか?」 「どこへ?」 今度こそ軽蔑を込めて久遠は振り向いた。 「俺に、どこへ戻る資格があると言うんだ」 腕が伸びる。それを二階堂は避けることができない。胸ぐらを掴まれ、されるがままに首が揺れた。 「あなたがご存知のとおりですよ、二階堂先輩。俺は名門と名高かった桜咲木中サッカー部を潰し、選手達の勝利と未来を奪い、資格を剥奪され、追放された。いいや、誰にされた訳でもない。俺のこの手がしたことだ」 「…そんなことはない」 「空々しい言葉だと、自分でも思わないのか」 引き寄せられ、首元が締まる。息が苦しい。二階堂は久遠の手を掴む。しかし力は入らなかった。 何かが通り過ぎたように、久遠の荒々しさはすっと静まった。胸ぐらを掴む手がほどかれる。二階堂は深く息を吸う。一瞬、ぼやけた視界の中で、久遠が悔しそうに顔を歪めた。 「あなたのようになりたかった」 小さく呟かれたその言葉を、二階堂は聞き漏らすところだった。耳鳴りの中で幻聴を聞いたかとも思った。しかし、久遠は俯き、ぼつりと吐き出した。 「俺は、あなたのような監督に…」 手が完全に離れる。二階堂の身体は後ろに崩れ落ちた。ビール缶が倒れ、残っていた液体がこぼれだした。 「あ…」 二階堂は思わず手を伸ばす。濡れた床の上を掌が滑る。その上から久遠の手が掴んだ。 「くどう…」 夜の闇が迫るように感じられた。押される。背が床の上に落ちる。重量のある闇が肩口を押さえつける。 「何故、来たんだ」 しゃがれた声が言った。 「別れは告げたはずなのに…」 「あの電話で…気にならないはずがないだろ、お前のこと」 爪が食い込む。歪んだ唇の端から食いしばった歯が見える。闇は久遠道也の形を取る。久遠は声ならぬ声で唸っている。 「久遠」 二階堂は自由のきく指先でそっと久遠の腕に触れた。 「久遠…」 「呼ばないでくれ」 唇を塞がれた。自分の口の中のアルコールの匂いが沸き立つ。それと、何故か煙草の匂いが鼻を掠めた。二階堂はそれを懐かしいと思った。煙草の味のキスだ。何年ぶりだろう。 近すぎて久遠の顔が見えない。月はまだ昇らない。暗い夏の夜の底で、眉間に寄った皺や、乱れた髪、視界は断片的に二階堂の目に映る。 二階堂は久遠の腕を掴んだ。相手がぐっとのしかかるのが分かった。だから、瞼を閉じた。その方が久遠のことがよく分かった。 もう一度久遠と呼ぼうとしたその声は、キスに飲み込まれて消えた。 糊のきいたシーツに顔をこすりつける。それ以外に縋るものがない。久遠はその背に縋らせてくれない。二階堂は意志の力をフル稼働させ、懸命に声を殺す。しかし快楽の波は容赦なく彼を追い詰め、深い場所に突き落とそうとする。堪えきれない。油断すれば歯の隙間からあられもなく情けない声が漏れる。 「くど…う」 何とか彼の名前を呼ぼうとする。手業だけで自分を翻弄する男をだ。 久遠は二階堂の手によって服を乱されてはいたが、それを脱ぐことはなかった。目は欲情の色に染まっている。しかし、その息が熱くなることはない。 名前を呼ばれると久遠は、黙らせたいと思っているのか後ろから首筋に噛みつく。まるで動物だ。肉食獣が捕食にかかるような仕草だ。息の根の止まるような痛みも、今は快楽と縒り合わさり二階堂を苦しめる。もう二度も絶頂を止められていた。 二階堂の口から漏れるのは、ほとんど嗚咽に近かった。痛みに耐える息にも似ていた。しかしその目は涙で潤み久遠を求める。 五感が熱に溶ける。身体の奥から溶かされる。しかしその中心に久遠自身はいない。彼が用いているのはその指だけだ。どろりとした液体と数本の指に、二階堂は翻弄されている。 ずるい。 息の合間に思う。 俺はここで何か失うとしても、お前にならくれてやっていいと思ったのに。そう決めてお前の敷いた布団に横になったのに。服を脱いだのに。お前の裸に、その背に触れようと手を伸ばしたのに。 その指も久遠のものではある。しかし、まるでイかされるためだけにそれは触れ、動いているようで、そのくせ二階堂が絶頂の際に立つと、それを邪魔するのだ。 意地悪だ。 子どものような言葉が溶けかけた思考に浮かぶ。 俺はお前なら受け入れようと決めて脚まで開いたのに、それで服さえ脱がないなんて…、いや服を脱がないのはこの際許そうものだが、せめてジッパーくらい下げたらどうなんだ! 欲情しきった目をしておいて、こんな仕打ち……。 後ろ手に手を伸ばし、久遠の頬を引っ掻く。それは傷つけるというより、軽く掻いた程度にしかならなかったが、久遠は指の抽挿を止め、二階堂…?と耳元で囁いた。 「もう…いい加減……」 口を開いた途端、隙を突いたかのように前を弄られ、声が出る。 耳元で、久遠が笑う。 「いい加減…何?」 「いい加減にし…」 「だから、何を」 喉の奥で二階堂が泣くと、久遠はいっそう強く根元を握り締めた。 既に流れ出しているものが涙なのか汗なのかも分からない。どろどろだ。溶けている。 「くどう…お前…」 「恨むなら、どうぞ」 「お前…は、それで……」 喘ぎあえぎ言葉にすると、ふ、と息が掠めた。 「満足ですよ。あなたが」 すっかりコツを得たらしい、二階堂に悲鳴を上げさせることの出来る箇所を、久遠の指はたがわず掠めた。 また、目の前が白くなる。もう駄目だと思う。神経が焼き切れる。快楽だけで死んでしまう。 久遠の声が、じりじりと焼け焦げる神経の上を撫でる。 「こんなに悦んでくれるので」 強く、シーツに顔を押しつける。現実の感触も、もう分からなくなってきた。 久遠。久遠久遠久遠くどうくどう。頭の中は久遠でいっぱいだ。唇が震えている。久遠、と自分の声が聞こえる。譫言のように呼び続けている。それしか知らぬかのように繰り返している。哀願の言葉も、快楽の喘ぎも、全てがそれだ。 射精の瞬間、飽和しきった快楽は五感を押し潰し、二階堂の心を叩きのめした。 遠くから、耳鳴りが消えるかわりに夜の虫の声が蘇り、涼しい夜風が濡れた肌の上を撫でる。二階堂は自分が荒い息をついているだけでなく、泣いていることに、しばらく経って気づく。 布団の上にぐったりと身体を沈め、霞む視界に久遠の姿を認める。久遠は、あの猛暑日、座敷の奥に座っていた時のように、午後静かに本を読んでいた時のように、片膝をたてて緩く俯き座っている。視線は遠くを見るように、ぼんやりと二階堂を見ている。 喉がつかえた。久遠、と呼ぼうとしても声が出ない。久遠と名のつくもの、感情も何も吐き出してしまった。果たして今のこれが快楽の余波か、怒りか、それともこれが愛しさであるのか、分からないままに二階堂は足を伸ばす。足の裏が久遠の股間をやんわりと押さえつけた。 息が、漏れた。 二階堂はもう一度、久遠、と呼ぼうとした。しかし声は嗄れてしまっている。 足の裏には何の熱情も感じられない。二階堂はまばたきを繰り返し、もっとしっかり久遠を見つめようとした。しかし夜の闇が、倦怠感が、輪郭を溶かしてしまう。 ふ、と。 また、息が触れた。 久遠は二階堂の足を持ち上げ、その足の裏にキスをして返した。 自嘲の息が濡れたキスの痕を冷たく掠めた。
2011.7.5
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