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息苦しかった。夢を見ていると思った。そこから覚めようと瞼をこじ開けたと思ったのもまた夢で、二階堂が本当に目覚めたのは暑さに耐えかねた手が布団を払ったからだった。 息が通った。瞼の外側の明るさを感じた。現実が蝉の声をともなってじわじわと眠りを侵蝕する。 今度こそ本当に瞼が開いた。天井からぶら下がる蛍光灯が見えた。広い部屋だ。首を巡らせると、昨日と同じく障子も襖も取り払われたままだった。既に夏の陽は眩しく庭に射しており、鮮やかな松の緑の中から蝉の声がする。暑いかと言えば、それは布団のせいで、それを払いのけた今はずいぶん涼しかった。まだ午前中ではあるのだろう。 起き上がったものの、上半身裸のままうろつく訳にもいかない。ともかく、と布団だけは畳んで隅に寄せた。枕元の洗面器はなくなっていた。蚊取り線香の皿には渦巻状の灰が綺麗に落ちていた。二階堂は座敷の真ん中に腰を下ろしたまま、昨夜冷却シートの貼られていた首筋を掻いた。 畳を踏むかすかな足音が聞こえた。顔を上げると久遠が立っている。 シャツの白さに二階堂はハッとした。昨日の久遠は蔭そのもののようだった。そうだ、昨日の彼は喪服を着ていたのだ。 シャツの清潔さはやけに際だって、眩しい印象さえ二階堂に与えた。しかし本人は、記憶にもある仏頂面というか無表情で佇んでいる。 「あ…」 寝過ぎて声が少し掠れている。 「おはよう」 笑顔も間に合わなかった。唐突なことで、こちらも驚いた顔のまま、しかし毛繕いの挨拶が口をつく。 久遠が口を開いた。二階堂は我知らず身構えた。 「朝食があります」 感情のこもらない声が言った。 「食べますか」 取り敢えず、すぐに追い出しはしないらしい。朝食を摂って、ではお引き取り下さいと言われる可能性はあるが、これで少しは話す機会を得た訳だ。 「…呼ばれようか」 二階堂は立ち上がり、それからようやく口の端に笑みを取り戻した。久遠は既に背を向けていて、それを見なかったが。 改築をしたのかダイニングキッチンのような台所は広く、テーブルも広くて新しいものがしつらえられていたが、ひどく整頓されていて生活臭が薄かった。先まで久遠のいたのが桜咲木中ということを考えても、彼がこの実家に同居をしていたはずはない。この家の主は…。 昨日見た光景がようやく意味を成し始める。 二階堂はテーブルの脇に佇んだが、久遠は腰掛けるように促すでなく、みずやから茶碗を取り出すと炊飯器の飯をよそった。コンロには片手鍋がかけられている。味噌汁の匂いが鼻をくすぐる。 それらを手に振り向いた久遠は、佇む二階堂を見て少し眉を動かした。 「どうぞ」 近い席の前に茶碗と箸が置かれる。二階堂はようやく腰を下ろし、味噌汁をつぐ久遠の後ろ姿を見た。 シャツに隠れて、あの隆々とした背中がある。一度だけ見たことのある裸の背中。何故かそれを思い出す。夏の午前中の匂いのする涼しい台所で、何故か熱気に籠もった大学の部室が思い出される。 振り向き、久遠は味噌汁を出す。そのまま立ち去ろうとするので、おい、と呼び止めた。 「置き去りにするのか」 「…なんですか?」 「ここまでしてくれたんなら、少し付き合えよ。一人の飯は寂しい」 敢えて素直な気持ちを言葉にしたが、久遠の表情は揺らがない。しかし戻って茶を入れた。真正面ではなく、斜向かいに腰掛けた。それでも、まあ十分だ、と二階堂は思う。 「忙しいところに押しかけたみたいだな」 久遠は答えない。 「迷惑しただろ」 どうせ沈黙したままだろうから、と、すまない、と続けて言おうとしたが、その最初の息と久遠の言葉がぶつかった。 「いえ」 久遠はそっぽを向いたまま言う。二階堂は出かけた言葉を飲み込み、そのまま息を詰める。 「別に」 短く、久遠は言った。 二階堂は息を吐いた。 「すまなかったな。……誰か」 「母が。もう長く伏していました」 久遠の手は湯飲みを掴んではいるが、口をつけようとしない。 学生時代に父はもう亡くなったのだという話を聞いたことがある。であれば、二階堂の知る限り、久遠は肉親を亡くしてしまった。それ故の無表情と、視線だろうか。 フットボールフロンティア決勝戦を目の前にした事件。 母親の死。 これら二つに関わりが…と論理が繋がるのは自然なことではあり、二階堂は表情に出して苦々しくなる。 あれはただの事件ではなかった。監督による暴力事件だ。それによって名門サッカー部が一つ、潰れたのだ。 報道のあった日、あの学校も、そして久遠の名前も一日中テレビに出ていた。 久遠。この田舎では名士らしい。 二階堂は飯をかき込んだ。あまりに下劣な妄想だった。 音を立てて味噌汁をすすったが、久遠は全くこちらに注意を払わなかった。目を軽く伏せ、軽く放心しているようだった。 「ごちそうさまでした」 ぱん、と手を叩くと、久遠の顔が上がった。目がこちらを見る。 「ごちそうさま」 二階堂は相手の目を見て言う。 結局、話はほとんどしなかった。久遠は茶碗を引くと、それを流しに起きっぱなしにはせず、すぐに洗った。濡れた手を布巾で拭う、一連の仕草は手慣れている。 今度こそ久遠は二階堂を顧みず台所を出た。二階堂はその後についていく。 久遠はそのまま玄関に至り、揃えられていた下駄を履いた。 「どこに行く」 二階堂が訪ねると、ちらりと振り向いた。 「幕を片付けます」 戸を開ける。陽が眩しい。 「手伝おう」 二階堂の言葉は届いたのか、返事はなくすたすたと外へ出る。二階堂は自分の靴が揃えられて いたので、それを履いて後を追った。 長い塀にかけられた鯨幕を片付ける。手伝う二階堂を久遠は拒まなかった。 塀の向こうから蝉の声がする。空には今日も雲一つなく、倒れそうな暑さにまたなるのだろうと思われた。涼しいうちに仕事か、見下ろせば田圃に人の姿がある。ここにも生活があるのだと、二階堂は当たり前のことを思った。 鯨幕は畳んで櫃に仕舞われた。二人はその櫃を屋敷の裏手にある蔵へ運び込んだ。 それは白壁の本物の蔵だった。経年のくすみの他、落書きの跡など一切ない真っ白な壁。中は埃くさく、しかし涼しかった。入り口からの明かりで見えるだけだが、大小様々な木箱が積まれている。二階堂は思わず口を開く。 「これ、中身は?」 「骨董のたぐいでしょう、おそらく」 久遠が立ち止まり、二人は片隅に櫃を下ろす。 「父も、その前の代も趣味だったと聞きますから」 「お前は?」 「私は触ったこともない。蔵に入ったのも、これが初めてです」 少しは感慨のある様子だった。久遠はすぐに表へ出ようとはせず、高い天井を見上げていた。 「親は…」 躊躇いながら二階堂は尋ねた。 「厳しかったのか?」 「ええ」 素直な返事だった。 「声を荒らげることはなかったが、父には叱られた記憶しかない。母は、成績を上げれば褒めてくれましたが」 どんな表情で両親を語っているのか、その表情は見えない。暗闇の中目をこらしていると、その人影はすいと近づいて、二階堂が慌てる間に擦れ違った。 「私は昼食にします。あなたには早いですか?」 「いや…付き合うよ」 表に出た途端、蝉の声がわんわんと包み込む。陽が、裸の背中を焼く。 「暑いな」 思わず口をついて空を見上げる。 視線を感じた。 確かに、久遠は二階堂を見ているのだった。それは何度も感じたことのある視線だった。皮膚が、それを覚えていた。 二階堂は気付かないふりをできなかった。顔を下ろすと、久遠と視線が合った。視線が合った瞬間、久遠は目を細めた。奇妙な表情だった。常に無表情なくせに、更に何かを隠そうとしているかに見えた。 「服、貸してくれないか」 二階堂が言うと、久遠はふっと背を向けた。 暑さは屋内にも這入り込んでいた。外から見れば蔭は涼しそうだが、それでも熱気がある。 「こっちで食おうか」 久遠からシャツを借りた二階堂は座敷を指さした。自分からの提案をもしかしたら嫌がるかもしれない、と思ったが、久遠は存外にあっさりと、構いません、と答え扇風機を持ち出してスイッチを入れた。 「本来の卓は別の部屋に仕舞っているので、縁側に長机があります、それを」 「よしきた」 わざと明るく二階堂は答えた。 昼はそうめんだった。マヨネーズを入れると言うと、久遠はそこで初めて顔をしかめた。 「…薬味で食べてください」 「美味いぞ。食べてみたら分かるから」 「どうぞ」 きざみ葱を押しつけられた。 久遠が皿を洗っている間に、二階堂は広い座敷を改めて見回した。まず奥座敷の仏壇前で手を合わせる。真新しい位牌。そこには古いものから幾つも並んでいた。 立ち上がり上まで視線を移した二階堂は、そこにかけられているもののほとんどが久遠道也の賞状であることに気付く。小学生の、それも幼い「くどうみちや殿」から高校サッカーで活躍した「久遠道也殿」まで、それらはずらりと並んでいた。 母親、なのだろう。これを飾ったのは。 気がつくと、隣の座敷で長机を拭いていた久遠がじっとこちらを見つめている。二階堂は笑いながら振り返った。 「成績優秀じゃないか、久遠クン」 「…二階堂先輩が何をおっしゃる」 言いながら久遠の口元はわずかに歪んだ。 「それら全てを、我が手で水泡に帰した。それが今の私だ」 しまった、と思い口を噤む。 だが矛先は久遠の方から収めた。彼は布巾を手に台所に戻ってしまう。水音がした。二階堂は溜息を吐いた。 そうだ、まだことの真相を何も聞いてはいない。真相どころか、何一つ、些細なことさえ何一つだ。 もう一度賞状を見上げた。高校サッカーの賞状には、一緒に写真も収められていた。優勝に皆が笑顔を浮かべる中、久遠だけは笑っていなかった。 「ああ…」 二階堂は声に出して溜息を吐いた。 午後になっても、久遠は二階堂に向かって帰れとは言わなかった。昨日のように座敷の蔭にあぐらをかいてる。 本を、読んでいるのだった。 脇に積まれたタイトルを、二階堂は見た。『論理哲学論考』、作者の名前は見たこともない。『歎異抄』は法然だったか親鸞だったか。『存在と時間』はさすがにハイデガーの著作だと分かる。そして今久遠が手にしているタイトルは『人間的な、あまりに人間的な』。ニーチェ。 どれも読んだことがない、いや、ハイデガーだけはレポートのために少し囓った。しかし女にだらしない性格だったと、教授の付け加えた蛇足しか覚えていない。 ハイデガーに手を伸ばすと、久遠は横目にちらりと見た。しかし何も言わなかった。並んで読むのもあれだろうからと思い、二階堂は本を持って縁側に移動する。柱に寄りかかると開け広げた座敷に向けて風が流れるのが感じられる。 パラパラとページを捲り、言葉の引っかかったところから読み始めた。指導書以外にこんなに文字の詰まった本を読むのは久しぶりだ。意欲がない訳じゃない、と二階堂は自分に言い訳をする。忙しくて開く機会がなかった、それだけ。俺だって、人間的な向上心もあるさ。 蝉の鳴く庭は白く眩しい。 盥に水でもはって、足をつけて読めば気持ちがいいだろう。そう、提案しようかと思った。それなりに暑かった。扇風機は首を振るものの、縁側に座る二階堂まで風を届けない。視線が文字の上を滑る。暑いな、いや、少し心地良いくらいだが。二階堂はページの端の影が緑色の滲むのを見る。濃い影だ。本の中は、あの蔵の中のように埃くさいが、やはり涼しそうだ。深く、涼しげな影。 何て言ったかな、と二階堂は呟く。 夏影ですよ、と答える声がある。 そんな言葉があっただろうか。しかし、ずっと昔聞いたことのある言葉のようにも聞こえた。 夏影や、岩にしみいる、蝉の声? だっけ? 芭蕉はそんな句を詠まなかったでしょうね。 そうだ、間違えた。 「兵どもが、露のあと」 ふ、と風が揺れる。久遠が笑ったらしい。自分を見下ろすその顔はなり損ないの笑顔だったが、二階堂はそうだよ、と笑った。俺はお前のそんな顔が見たかったんだ。 りん、と涼やかな音がした。二階堂の瞼はもう閉じていたが、それはガラスではなく鉄製のあれだろうと、音に思った。
2011.7.5
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