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 バスは木陰の落ちるアスファルトの道をだらだらと上る。蛇行する、ひたすらの上り坂だ。外が暑いのは、窓から射す日にも分かる。冷房は効いているのに、肌に貼りつくような熱が消えない。引き続きの猛暑日。
 二階堂は学校でコピーした地図を今一度取り出す。下りるバス停はこの次だった。しかしどうだろう。こんな木の鬱蒼と茂った山の中に放り出されるのだろうか。
 不意に重力の変化を感じる。道が平らになった。二階堂は地図から顔を上げた。
 バスは高地を走っていた。今までの鬱蒼とした緑が嘘のように両側は拓け、稲が日の輝きを浴びている。遮るものなく降り注ぐ真夏の太陽は今まさに南中しようとしていた。
 バス停には屋根もない、標識が一本立っているだけだった。
 映画なんかで見ると、こんな田舎のバス停ってベンチと木造の小屋みたいなのがあるイメージなんだが。二階堂は日を遮るため地図を庇にし、辺りを見渡す。ただ、ただ緑の稲田と、雀よけのバルーンや案山子。時々、民家がある。隣家と隣家の間はひどく離れている。
 二階堂は田舎を持ったことがない。祖父母も、親戚も、皆街中に住んでいる。言えば意外な顔をされるが、土や畑というものに縁がなかった。
 さて、と息をつく。
 どこが久遠の家だろうか。
 大学時代に交わした言葉の中に、二階堂は久遠の故郷を覚えていた。都内と区分されるものの、かなりの田舎だと思った記憶がある。車で一時間ときかなかったはずだ。実際、二階堂も電車とバスを乗り継いだし、駅ではかなりの時間バスを待たされた。
 とかく、行くしかあるまい。これから帰ろうとしてもバスを待つ間に日射病になってしまう。誰か人に行き会えば教えてもらえるだろう。
 久遠の家。
 何故、そこまで訪ねていこうとしているのか。
 あんな電話をされて、気にするなという方が無理だ。二階堂は憤然としてみせる。しかし会ってどうするつもりか。説教か、戻ってくるよう説得か、一体何を話すべきなのか、心は決まっていない。考えるよりも足が動いている。
 会えば、何とでも言葉は出るだろう。
 湿気はないが、とにかく日差しが強い。庇を作る腕もじりじりと焼かれる。久遠の家を探すどころか、まず最寄りの民家にも近づかない。人がいない。
 ふうふうと息をつきながら一軒の農家の前に立った。玄関先の日陰に、犬がぐったりと伏している。二階堂が近づいても、吠えもしない。
「ごめんください」
 声はこだました。人の気配がない。
 犬がちらりと視線を上げ、目が合った。
「留守かい?」
 話しかけたが、向こうはすぐに興味をなくしたらしく、瞼を伏せた。
 二階堂は再び田舎道を歩き出した。不思議なことに、民家はどこも留守のようだ。しかし畑に出ている様子もない。
 田舎の景色の中に、ぽっかりと人だけがいない。まるでホラー映画だと苦笑しようとしたところで、逃げ水の向こうに影を見た。
 黒い影がぞろぞろと歩いてくる。二階堂は思わず立ち止まり、その姿がはっきりするのを待つ。
 一団は喪服を着た人々だった。先頭が二階堂に気づき、会釈をする。二階堂も会釈を返し、彼らに道を譲ってしまう。と、奇妙な光景に一瞬圧されてしまったが、ようやく出会えた人間だ。二階堂は最後の人間を捕まえた。
「すみません」
 古いモーニングを着た老人は、二階堂の呼び声に足を止める。
「…どうしなさったの、あんた」
「久遠さんの家を探しています。確か、このあたりだと…」
「ああ…」
 男の顔が悲しそうに歪む。
「ほら、あすこ」
 指さす先は稲の海の向こう、少し高台になった場所だった。
 大きな家だというのは遠目にも分かった。
 男が自分から離れて去って行くのにも、二階堂は気づかなかった。稲に、山の緑に、青空。自然に囲まれたこの景色の中で、そこだけ異様に浮かび上がっていた。
 白と黒が交互に続く、鯨幕。
 腹の底からすっと冷たくなった。二階堂は高台に向かって走り出した。
 鯨幕は延々と続いていた。
 つづら折りの坂を駆け息の切れた二階堂は、それに沿って歩きながら、ただの一本道であるはずのこの道を何度も何度もぐるぐると回っているような錯覚に陥った。門がいつまでたっても近づかない。常に陽炎立つ道の先にある。
 喪服を着た人々と擦れ違う。
 皆、暑そうな顔ひとつせず軽く俯いて二階堂と擦れ違う。線香の匂いが鼻を掠める。誰か一人にでも、と声をかけようとしたが、相手はすぐに擦れ違ってしまった。二階堂はそれを振り向いて追いかけることができなかった。もし振り向いて、その鯨幕の続く先に門が見えたらどうしよう。これは何かの悪い夢なのか。
 鯨幕に手をつき、軽く俯く。影は自分の真下に小さく落ちるばかりだ。まるで足下に黒い穴が開いているかのようだ。
 馬鹿馬鹿しいと首を振り、手にしていたペットボトルの茶を頭からかぶった。
 顔を上げる。
 鯨幕は途切れ、門は目の前にある。
 二階堂は深く息をついた。立派な門構えの下には涼しい陰が落ちていた。古い木の表札に墨文字で久遠とある。ここが本当に久遠道也の生家らしい。
 門をくぐると、まるで時代劇で見るような古い日本家屋がどっしりと建っている。玄関の戸は閉じられている。呼び鈴を探すが、ない。二階堂はきょろきょろと辺りを見回し、縁側らしき方へまわった。
 庭には足跡がたくさん残っていた。
 障子も襖も開け広げられていた。庭、縁側、座敷と内外の区別はなく、そこは解放されていた。にも関わらず、なお座敷は暗かった。太古から動かぬ蔭がじっと横たわり息を潜めて眠っているような気がした。その中に一人の男が座っている。庭を向いて座っている。膝を崩し、軽く俯き、その表情はうかがい知れない。しかし、座敷の蔭と同じようにそれは静かでひっそりとした姿だった。蔭そのもののようでもあった。
 二階堂は庭にぼんやりと立ち尽くした。両腕をだらりと下げ、身体は意志から切り離されたようなのに、ただその眼だけが座敷の奥に吸い寄せられる。
 眠っているとも、泣いているともつかない男の姿。
 久遠…、と掠れた声が喉から漏れた。しかし背後の松に取りついて鳴く蝉の声がやかましく、それは二階堂自身の耳にも届かない。自分が声を発したのかどうか、不安になった二階堂はもう一度口を開こうとして喉も口もからからに渇いていることに気付く。ペットボトルを持っていたはずだった。あれはどこへやっただろう。濡れた服が、うなじが日に焼かれて熱い。涼しげな蔭は目の前にあるのに、そこへ手を伸ばすことさえ憚られる。あそこに座っているのは誰だ。本当に、あれは、久遠なのか。
「くどう……」
 乾いて引き攣った声を、喉から軋みを上げながらようやく絞り出した。
 蔭が、男が静かに顔を上げた。
 冷たい眸が座敷の奥から二階堂を射た。そこには驚きもなく、ただ全てを受けつけぬ、鏡のよ
うに冷たく硬い光を持った眼がある。その光は、彼の意志でさえないようだった。ガラス球のような、意志も感情も、解釈も拒む視線。
 二階堂は喪失を感じた。これは俺の触れたことのない虚無だ。光はあるが、まるでブラックホールじゃないか。涼しげな蔭が、彼が顔を上げただけで今は高重力の異様な空間に感じる。しかし二階堂は自然と笑っていた。
「久遠…」
 今度こそ名前を呼べた、自分の声で。少し歪みはしたが、安心を誘うような、いつもの声だ。
 彼は立ち上がり、そして背を向けた。
 蔭が揺らぎ、濃くなり、久遠の背の中に深くなる。
「何をしに来たんだ、二階堂さん」
 顔が強張った。作った笑顔を、二階堂は引き攣らせた。
 何をしに来たか、だと? あんな電話を寄越しておいて。あんな声で俺の名前を呼んでおいて。それで餌針に食いつくがごとくのこのことやって来たらば、今度は何をしに来たんだ、だと?
 怒りはもはや呆れにも近かったが、近々の経験ではあまりにストレートに行動に駆り立てる怒りだった。二階堂は、てめえ…、と低く唸りながら縁側に向かって大股に近づいた。
 右の拳を握り締める。殴ってやる、という意識さえなく、感情は全て真っ直ぐに久遠に向かっていた。
 靴を脱ぎ捨てようとする。一瞬、身体がぐらつく。クソ、と小さく悪態を吐き縁側に手を突こうとした瞬間、目の前が暗くなった。
 蔭だ。
 暗く、深い蔭だ。
 久遠、と名前を呼んだ。しかしそれもやはり二階堂自身の耳にも届かなくて、果たして自分の口からその名が漏れたのか、それが相手に聞こえたのか確かめることもなく、反響する蝉の声が傾ぐ身体を包み込む。蝉の声は乱反射し、薄れゆく意識の中で二階堂はそれを蔭を白く塗りつぶす光のように聞いた。

 寒い、と思って目が覚めた。
 足が布団を蹴りやっている。剥き出しの肩が冷たくなっている。二階堂は布団を引き寄せようと手を伸ばそうとして、違和感に息を止める。
 畳の匂いがした。まだ新しい畳の匂いだ。
 糊のきいた布団の上に、二階堂はゆっくりと手を滑らせた。ここが久遠の生家だと思い出したのだった。
 ぱたりと音がする。額から滑り落ちた手ぬぐいはもうぬるくなっている。が、身体はもう十分冷えていた。
 二階堂は身体を起こした。
 目はすぐに闇になれた。正確には闇ではなかった。月明かりが庭に射すのを、そこから見渡すことができた。襖も障子も開け放たれたままの座敷に二階堂は寝かされているのだった。
 枕元には水を張った洗面器と、蚊取り線香の小さな明かり。それらを眺めているうちに、庭で鳴く虫のかすかな声がじわじわと耳に蘇り、二階堂はすっかり目を覚ました。
 日射病。だったのだろうな、と思う。が、布団に、タオルに、蚊取り線香に、と。何をしに来たと言ったわりに看病はしてくれたらしい。
 二階堂は首筋を掻こうとして、そこに冷却シートが貼られているのに気付く。苦笑しながら剥がした。
 服は着ていない。今なら思い出せるが、この家に踏み込む前にペットボトルの茶を頭からかぶっていたのだ。脱がせたのだろう。肌が汗でべとついているということは清拭はしてくれなかったらしいが、文句は言うまい。十分手厚い。
 本人はどこにいるのだろう、と思って暗い座敷を見回したが、その姿はなかった。まさか忍者のように、蔭の中に蹲っていると思った訳でもないが。
 時刻は分からない。しかし外の景色を見る限り、もはや早い時間ではない。今夜はありがたく寝せてもらうか、と二階堂は今一度横になった。
 タオルは洗面器の水でもう一度絞り、目の上に当てた。冷たさと共に穏やかな夜闇が瞼の上から頭の中まで下りてきた。今は静かな気持ちだった。二階堂は深く息を吐いた。
 久遠。あいつは一体どうしてしまったのか。果たして何があったのか。
「久遠…」
 今度こそ、呼ぶ名前は己の耳にも届いた。二階堂はもう一度溜息を、安堵のそれを吐いて全身を弛緩させた。
 眠りはすぐに訪れた。それは心地よく二階堂を夢の世界に誘った。縁側に、柱の陰にひっそりと座っていた久遠が振り向き、またあの冷えた眼差しで自分を見ていることに気付かせる間もなく。



2011.7.5