ロンゲストサマー







 久遠道也。大学の二学年後輩だった男だ。二階堂は一年留年をしているから、実際は三歳の齢の差ということになる。
 同じ教育学部、サークルもサッカー部に所属し、チームメイトとして同じピッチを踏んだこともあった。二階堂が久遠のことを強く覚えているのは、そのサッカーセンスによる。無愛想でコミュニケーション能力の低い男だったから誤解も受けやすかったが、彼のサッカーは実に雄弁だった。二階堂は彼を気に入った。
 気に入った男だった。同時に気になる男だった。自分に遅れること二年、久遠もまた中学校の教師となった。相手は国語の教諭、片やこちらは体育教師。都と隣県で地理的にも離れたが、共通項が一つ。サッカー部顧問兼監督。気にせずにはおれない。
 時をそうおかずして手腕を発揮した久遠が招聘された先はサッカー名門校と名高い桜咲木中だった。人には言えないが、二階堂は新聞の端に小さくその記事を発見した夜、アパートの部屋で小躍りしたものだ。
 これで奴とサッカーができる。自分の率いる木戸川清修と比肩しうる選手を揃えた久遠は、必ずこの全国大会、フットボールフロンティアを勝ち進んでくるだろう。おそらく最高の舞台で、俺たちはサッカーをする、と。
 久遠道也。サッカー監督としても素晴らしい腕だった。年齢差、先輩後輩の間柄を忘れ最高に興奮する試合のできる男。
 そして最高の選手、最高の舞台の最高の試合で、二階堂を負かした男。
 その男が暴力事件を起こした、のだそうだ。

 暑い。
 部活は午前中に終わり、明日から盆休みに入る選手達は嬉々として帰路についた。
 二階堂は汗に濡れたポロシャツを着替えると職員室に向かった。
 彼には仕事がある。
 今年から三年生の副担任を任されていた。フットボールフロンティア今年度大会の幕が閉じた今、先日までのレギュラーメンバーだった生徒達は受験生となり、新たな壁に立ち向かわなければならない。その手助けをするのが教師の仕事だ。
 二階堂は進路票を睨みつける。第一志望にはサッカーの強い名門高校の名前。そのことに不服があるわけではない。生徒の学力を心配した故の眉間の皺ではない。職員室は冷房が壊れていた。室外機が煙を吐いたのだ。久遠の部活中にそれを見た。あの時は生徒達と脳天気に笑っていたが、今自分はその職員室の中にいる。
 うだるような暑さ、と言う。空気は熱湯から立ち上ってきたばかりのように、ねっとりと肌にまとわりつく。呼吸さえ重い、気がする。節電のキャッチコピーが印刷されたうちわであおいだが、焼け石に水の表現すら生ぬるい。血が沸騰なんかしたら大爆発だ、と授業中笑ったことがあったが、今まさに沸騰しているのではないかと思えるほどだった。
 学年主任の女性教諭が扇風機を持ってくる。
「わっ、二階堂先生、部活の後そのままでしょう、着替えたらどうです?」
「これでも着替えたんですよ」
「すごい汗ですよ。お茶を飲みませんか?」
 主任がそう言ったらいれるのは自分だ。二階堂は隅の冷蔵庫から麦茶を出し、二つのコップに注いだ。
 職員室には二人の他、人はない。このアクシデントで、皆早々に退散したそうな。
「私はもう少しいなきゃいけないけど、先生は無理しなくていいんですよ?」
 冷房を壊した張本人らしい主任は業者が来るのを待っている。二階堂は麦茶を一気に飲み干すと苦笑した。
「帰っても、似たような蒸し風呂ですから」
「お互い熱中症には気をつけましょう。業者が来たらこっちのもんですよ。うんと涼しくなるんだから」
 二階堂は笑顔だけ返して、書類の山に顔を埋めた。
 扇風機は首振りで、時々しか風をよこさない。暑い。
 暑さには強い方だと、二階堂は思っていた。子どもの頃からとにかくサッカーが好きで、炎天下でもボールを蹴っていた。そのうち、勝負の熱の心地よさを覚えた。二階堂は、どんなに暑く苦しかろうと笑う男と呼ばれていた。
 まあここはピッチでも勝負の場でもないのだが、と書類をめくる。
 電話が鳴った。その電子音さえ歪んで聞こえた。現実感を失っていた二階堂は、受話器を取るのがワンテンポ遅れた。
「はい、木戸川清修中学校」
 電話に出たのは主任だった。音楽を担当している彼女の朗々たる声を聞きながら、二階堂は彼女に向かって、すみません、という口の形と謝る顔をしてみせる。
 ふと、電話を取った主任の顔が真顔になり、こちらを見る。まずったかな、と心配が掠めたが、彼女は受話器を指さして言った。
「二階堂先生、クドウさんという方からお電話」
 くどう。
 一瞬にして様々な場面が脳裏をよぎる。
 久遠だ。
 二階堂は受話器を指さした格好のままの学年主任に軽く手を上げ、自分の机に近い電話を取った。内線ボタンが点滅している。
 鼻の先がむず痒くなった。その短い刹那、二階堂の脳裏にはある光景が蘇った。
 煙草の匂い。暑く密閉された狭い部屋。薄暗い中響く麻雀牌のぶつかり合う音。裸電球が卓の上と、その四方を囲む面々の顔を暗く照らしている。
 久遠は唯一の明かりの下から不意にこちらの暗がりを振り向き、自分と目を合わせる。
 暗がりの中にはその勝負をにやにやと見守る幾つもの視線があったにも関わらず、久遠はたがわずこの自分を見た。表情が暗く沈み、些かにこけて見えたのは、おそらくプレッシャーのせいだった。確かに久遠は苦境に立たされていた。
 恒例の新入生歓迎の麻雀だ。賭けるのは金だけではない。上下関係を知らしめるためにも、負けのごとに新入りは服を脱がされた。
 久遠の上半身はすっかり裸だった。滴る汗が背や脇腹を伝っていた。いい身体をしている、それはサッカー部でならまあ当たり前のことだ。しかし久遠のそれは何とも様になっていた。確かにプレッシャーはあった。しかし彼はそれに負けていなかった。上を全て剥ぎ取られても、堂々としていた。
 生意気そうだ、と誰かが囁き、それに同意するうなずきがそこここで起きた。二階堂の感想もそれに反対はしなかったが、それ以上に久遠の態度に惹かれた。
 冷静そうに見える。しかし何か、滲み出る感情が感じられる。何だろうか、とその横顔を凝視していると、久遠がこちらを見たのだった。眼の奥に勝負師らしい光がぎらついていた。その視線にさらされ、二階堂は鳥肌を立てた。
 ほんの数秒のことだ。目の前では内線ボタンが点滅している。明るい、正午過ぎの職員室。八月だ。しかし二階堂の腕には鳥肌が立っていた。彼は点滅するボタンを押した。
「お電話替わりました」
『……久遠です』
 分かっている。反射的に、二階堂は何故か苛ついた。久遠の声には覇気がなかった。
「どうしたんですか。わざわざ電話なんか」
『今回のことで、お詫びをしなければならないと思って…』
「それをすべき相手は俺じゃないだろう」
 電話の向こう側で久遠はしばらく沈黙した。二階堂がじれて声を発しようとすると『いいえ』と沈んだ声がした。
『私は、あなたにもお詫びすべきだと…』
 それからまた少し口を噤む。今度は二階堂は待った。溜息をこらえるような息づかいが聞こえた。
『あなたは先輩でもある方だから、一度、こうやって区切りをつけておきたかった。申し訳ありません、自己満足な電話だ。しかしこの世界から離れる前に、どうしてもあなたの声が聞きたかった』
「おい」
 不穏な言葉に思わず呼びかけたが、久遠は一息に続けた。
『サッカー協会からの処分が正式に下りました。私はもうサッカーから離れます。お世話になりました、二階堂先輩』
 待て、と言う間もなかった。二階堂の指は思わず何度もフックを叩いていたが、無情な電子音が響くばかりだ。
「久遠…?」
 思わず声に出して呟き、向かいの列の主任が顔を上げた。二階堂は受話器を見つめたまま、動けなかった。腕に、再び鳥肌が立っていた。
 八月十三日、関東一円猛暑が報じられた日のことだ。



2011.7.5