ウォーキン・イルミネーション
キッチンのテーブルの上、水の半分だけ入ったコップが置かれている。久遠はそれを見下ろし、廊下に視線をやった。今は冬花が風呂を使っている。 まだぬくもりと共に濡れた髪をタオルで拭きながら、久遠はキッチンにあった電話の子機を取り上げた。十一桁の数字も慣れたもの。プラスチックの冷たい感触を耳に感じながら相手が出るのを待つ。 もしもし、と聞こえてくる声は平生よりも低い。 「こんばんは、久遠です」 名乗ると、なんだお前か、と声と空気がほどける。どうした急に、と問う時にはもういつものトーンだ。 「クリスマスのご予定は」 ご予定も何も、と二階堂は笑う。 お誘いとは嬉しいね。 「まあ、お誘いではあるのですが」 久遠は暗い廊下に視線を走らせた。 「娘と遠出をしようと思っています。ご一緒にどうですか」 電話の向こう側は少し沈黙した。そして大きく息を吸う音。 「とうとう俺のことを紹介してくれる日が…」 「いいえ」 短く否定すると、何だよ、と二階堂もあっさり返す。 「受験、医療系なんだろ? 余裕あるのか」 「ちょうど煮詰まる頃だと思うので」 「でも、どうして俺を。家族水入らずで出かけたらいいじゃないか」 今度は久遠が少し黙り込んだ。 「…久遠?」 「一緒に行きたい場所があります」 「もうプランがあるのか」 流石は先手先手の久遠監督、と茶化し二階堂はそれをオーケーする。 「クリスマス? クリスマスイブ?」 「イブに」 「分かった。選手はとっとと家に帰すかな」 おやすみを言って電話を切り、冷蔵庫に貼ったカレンダーでクリスマスまでの日程をもう一度確認した。背後では風呂から上がった冬花が頬を赤くしてキッチンに入ってくる。 「冬花」 冬花はテーブルの上のコップに手を伸ばし半分入った水を飲み干す。 「何?」 「クリスマスイブは予定を空けておいてくれ」 「ふふ、心配しなくても勉強しかすることはなかったわ」 微笑み、冬花はコップを流しで洗う。 「お前の水だったのか」 「冬って好き」 冬花はコップを食器かごに伏せ、独り言のように呟く。 「冬に飲む水って美味しい」 まだ勉強をしてから寝るらしい。先におやすみの挨拶をして自室に消える冬花を見送り、久遠は冬花が洗ったばかりのコップを取り上げた。冷蔵庫のミネラルウォーターを取り出して一口飲んだ。 冷たい水が喉の奥を滑り落ちる。不意に目が覚めた気がした。もう一度自分が立っているキッチンを見渡した。水が半分残ったコップ、自分が二階堂に電話をかけた子機、テーブルの上に置きっぱなしの都市ガスの明細、それらがやけにくっきり見えた。冬花のいた気配があたたかく残っていた。 久遠はもう一度、冷蔵庫のカレンダーを指でなぞった。もう一ヶ月ない、十二月二十四日。冷蔵庫に背をもたれ、水を飲み干す。溜息をつき、軽く目を閉じた。心地良い静けさの底で、耳の奥に残る二階堂の声を繰り返した。 国道と名のついた一車線の舗装道路をランドクルーザーは行く。連山の頂には遅い午後の陽にシルエットとなった風力発電の大きな翼が見えた。 助手席には二階堂が座っていた。冬花は後部座席でウォークマンを聴いている。 「音楽?」 小声で二階堂が尋ねる。 「英語です。リスニングの」 「真面目だねえ」 「私の娘ですから」 そう答えると二階堂は穏やかな笑みを満面に浮かべて、だよな、と言った。 風力発電所には日暮れも前から多くの車が駐まっていた。車を降りる際は、冬花はもうウォークマンも仕舞ってすっかりモードを切り替えている。 「懐かしい」 彼女は第一声にそう言った。久遠は軽く目を見開く。 「覚えてるの?」 二階堂が尋ねる。 「はい」 と明るい笑顔で冬花は頷く。 「小学生の頃、お父さんとゴールデンウィークに遊びに来たんです」 冬花が率先して歩き出す後ろで二階堂は久遠を見てウィンクをする。久遠は照れ隠しに足を速めた。 かつて短い草が雑然と生えているだけだった風車のある斜面、今は丁寧に草を刈られ、迷路のような通路が敷かれていた。曲がりくねった道の所々には針金で作られたトナカイやサンタのオブジェが設置されている。 これらは十二月の頭から一般に公開されているイルミネーションで、夜になるとオブジェなどが輝き出す。上から見ると電飾のない通路が「Merry Xmas」の文字となっているのが見える仕掛けだ。家族連れも見かけるがほとんどがカップルらしい。日が暮れるのを待って肩を寄せ合っている。 冬花も枯れた草をさくさくと踏み、人の集まる丘の上を目指す。寒い、と言いながらも笑顔で斜面を登る。 「とても明るくなったな、冬花ちゃん」 「ええ」 久遠と二階堂もあたたかい息を吐きながら後について上った。冬花のスカートと長い髪が横風になびく。笑っているらしい声も風の強さに飛ばされてしまう。しかし二人には彼女が笑っているのがよく分かる。 「あれから十…何年かな」 二階堂は呟き雲の流れる空を見上げる。 「お前も変わった」 「そうですか」 「いい方向にだよ。少し明るくなった」 「…冬花のお蔭です」 「そして冬花ちゃんが明るくなったのはお前のお蔭だよ、お父さん」 丘の上に辿り着いた冬花が手招きをする。もう片手には携帯電話を持っている。 「写真、撮りましょう」 「まだ早い」 ようやく追いついた久遠が言うと冬花は早速後ずさりをしながら二人の位置を指示する。 「明るいうちに一枚撮っておきたいの」 シャッター音。 二階堂が、次は冬花ちゃんとお父さん、と手を伸ばすと近くにいたカップルが撮りましょうかと声をかけてくれる。冬花は女性に携帯電話を手渡して久遠と二階堂の間に駆けてくる。 「はい、チーズ」 女性のかけたベタなかけ声と共に、冬花は口を英語のチーズの発音の形にする。二階堂も調子にのってVサインを作っている。久遠だけ棒立ちだった。 冬花は礼を言い、手元に帰ってきた携帯電話の画面を見て笑った。 「お父さんったら」 二階堂までそれを見て笑う。久遠も覗き込んだが、笑われるほどおかしくはないと思う。 ベンチに腰掛け、冬花が用意してきたコーヒーを三人で飲んだ。 「気が利くね」 二階堂は冬花を褒める。 「勉強、忙しかったんじゃないの?」 「時間が足りない感じですけれど、でも詰め込んでばかりだと頭がパンクしちゃいますから」 「それでコーヒーとお弁当にまで手が回るって、きっといいお嫁さんになるね。もしかしてもう彼氏とかいるの?」 冬花は微笑むだけで答えない。 「お父さんが困った顔してるよ」 「していません」 「声が不機嫌ですよ、久遠さん」 彼氏はいませんけど、と冬花は呟き、久遠の顔を見上げながら言った。 「私、てっきり今日はそういう告白をされるのかと思っていました」 ふ、と大人二人が黙り込む。冬花は立ち上がり、正面から自分の父と二階堂を見た。 「ここは私が初めて二階堂先生とお会いした場所ですよね」 「よく…覚えてるね」 「お父さん、イルミネーションだけが理由なの?」 久遠は返事をしない。二階堂も笑ってはいるが、口は噤んでいる。 「私、お父さんがもう一人増えるのかと思ってました」 だから思い出の場所なのかしらって。 と、冬花は両手で携帯電話を握り胸に押し当てる。 「二階堂先生」 「はい」 返事をする二階堂の声は裏返っている。 「私、大学に入ったら寮暮らしになります。そんなに距離がある訳じゃないんですけど、お父さんのことよろしくお願いします」 「いえ、こちらこそ、冬花さん」 二階堂の緊張した声に冬花はぷっと吹き出し、お父さん、と呼んだ。 「冬花…」 「ありがとう、お父さん」 冬花は髪をかき上げながら風車の回る丘を見晴らした。 「またここに連れてきてくれてありがとう」 日没と共に最初の明かりが灯った。トナカイが。トナカイの引くソリが。サンタクロースが。それから丘一面が光に彩られる。 三人で「Merry Xmas」の文字を歩いた。久遠と二階堂は間に冬花を挟み、それぞれの手を繋いだ。 丘を下って帰る際、自然と足が速くなる。二人は両側から思い切り引っ張り上げる。冬花はジャンプをし声を上げて笑った。光のこぼれるような笑い声が冬空に響いた。 ランドクルーザーは三人を乗せたまま久遠のマンションに到着する。ケンタッキーのチキンとコンビニで買ったケーキ、未成年を含むということでシャンメリーでの乾杯となる。泊まっていってください、と言ったのは冬花で、えー悪いなあ、と言いながらも二階堂は腰を上げない。結局、冬花の方が二階堂と喋っていた。結局、片付けが済み就寝となったのは十二時近い。 冬花はドアの影から覗き込むように顔を出し、ふふ、と笑ってからおやすみなさいを言った。 「いやあ…」 借りたスウェットを着た二階堂が閉まったドアを見ながら呟く。 「いやあ…なあ?」 「何ですか」 「すっかり大人なんだな、彼女」 久遠は溜息をついたが、頬に少し微笑みを滲ませて言った。 「親が思うより成長します」 「実感?」 久遠は水を汲んで二階堂の前に置いた。 「ん?」 「美味しいですよ」 「名水か何かか?」 「冬の水は美味しいのだそうです」 久遠は自分のコップから飲み干し、深く息を吐いた。二階堂もそれにならい、まるでビールを飲み干した後のようにぷはーっと声を上げる。 「もう一週間もせずに今年が終わりか」 「毎年感じていますが、月日の経つのは早い」 二階堂は久遠の腕を取り、軽く引き寄せた。 「…娘がいます」 「公認」 「調子に乗らないでください」 しかしキスは拒まなかった。 冬のキスは懐かしい。久遠は瞼を閉じて思う。好きな季節の中にいる。好きな季節の、いつものキッチンで美味しい水を飲んで。 瞼を開くと二階堂が微笑んで、軽く抱きしめてくれた。
2011.11.24
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