タイム
お前は自分を世話する女なんて要らないんだろうね、と産みの親に言われたことを思い出した。 セックスの後の女は理由を悟られたくない素振りでそわそわしていた。シャワーを浴び、床に落ちていた下着を身につけた。 「俺たち別れようか」 布団の上から言うと、女はキッと振り向いた。それから平手打ちを食らわされ、それを避けなかったことでまた詰られた。 「優しいばっかりの男なんて!」 優しい男が好みだって言ったじゃないかと思ったが口には出さず微笑んで彼女の手を握っていた。 女はひとしきり泣いて、またシャワーを浴びた。二階堂はしばらくその水音を聞いていた。日の落ちるのも早くなった。曇り空のその日は時計を見なければ時間の感覚も分からないほどだった。向かいの団地の、どこか早い世帯が明かりをつける。それが現実感がなくて、二階堂は女の服のポケットから煙草をくすねた。 ベランダで煙草を吸っている間に女は部屋を出て行った。それっきり街中で会ったこともない。 近くの家のボイラーを焚く音、夕食の準備をする音を聞きながら、ゆっくり全ての煙草を吸った。なかなか暮れない街の景色は身体を少し重くした。そして自分を産んだ女の言葉を思い出したのだ。 ユニットバスの床は濡れていた。それを踏んでシャワーを浴びた。バスタオルもしっとり湿っていて、二階堂はそれを掴んだまま狭いバスルームの入口でじっとしていたが、不意にそれを背後のバスタブに投げ込んだ。濡れた身体のまま畳の上に下り、だらだらと着る服を探した。 電話が鳴った。サークルの仲間からだった。それから大学に出かけて打ち上げの席に加わった後、童貞を食った。十一月三日のことだ。日付をよく覚えている。学園祭の日だったのだ。 今日の煙草はあの日の匂いに似ていた。ビジネスホテルのツインルームでベッドの端に腰掛け煙草を吸いながら、カーテンの向こうの夜景を眺めた。すぐ下の線路を挟んで駅と街明かりが見えた。自分の齢を数える。そこから三を引いて相手の齢を数える。現状、自分は母親の予言どおりやもめであるが、あの夜食われた童貞もまるでその余波を受けたかのようだ。独り者には独り者の理由もあろうが、煙草がこんな匂いのする夜は宿命めいたものを感じざるを得ない。 シャワーの音。誰に世話されるでもない男と、寄りかからぬ男がビジネスホテルの一室に煙草の煙と詰め込まれている。胸の高鳴りもときめきもなしに。ただセックスをするために。 勿論、それで十分だ。それ以上のものを望みはしない。あの日とは齢が違う、立場が違う、様々な意味で。 春に始まったホーリーロードの幕切れは二度の逆転を二人に与えた。春は優越者であった二階堂は今や敗者として相手の前に立つこととなった。それでも二階堂は笑っていて、相手は眉間の皺が消えなかった。 「またお前の勝ちだな、久遠」 駅の改札で待ち伏せ掴まえた男に言った科白を、二階堂は煙と共に吐き出した。シャワーが止む。二階堂はちらりとそちらに目をやり、煙草を押し潰す。 バスローブを羽織って現れた久遠を見ているとなんとも複雑な気持ちだった。本当に自分たちは歳を取ったのだ。顔の輪郭も、口髭も、バスローブから覗く臑も。老いたと言うには早い。しかし確実に時間は流れた。十年、二十年という時間が。あの頑健な背に爪を立てたことを昨日のように思い出したのに。二階堂は自分の手を見る。爪はいつも短く切り揃えている。 「どうぞ」 低い声で久遠が言った。 「ありがとう」 二階堂は微笑んで立ち上がった。ようやく押し潰した煙草から手を離した。バスルームの床は乾いていた。濡れているのはバスタブとシャワーカーテンだけだ。二階堂はバスタブに足を踏み入れカーテンを閉める。湯の温度は少し熱いほどに設定されていた。立ち昇る湯気がむせかえるようだ。二階堂はそれを深く吸い込む。そのままゆっくりとしゃがみこんだ。このまま一回抜いてしまいたいと思い、果たしてそれで後は大丈夫だろうかと心配になる。 「歳か」 一人でちょっと笑った。 念入りに身体を洗う。こういう感覚は久しぶりだった。ようやくセックス前の気分になった気がした。昔はセックスのことを考えなくても、ケダモノのようにその行為に突っ走った。しようと思ってするセックスは照れ恥ずかしい。今も少し恥ずかしい。 俺の方が三つも齢を取っている。腹の皮膚が弛んでいるのはそろそろ仕方ないことだろうか。いや、腹筋を続けるんだった。権力機構の中で力を手に入れ、俺はなまった。 笑われるかもしれない。そう思いながら湯を止める。笑われても仕方がない。いっそ笑ってほしいが…。 「笑わない男、か」 シャワーカーテンを開けると手を伸ばした先に乾いたタオルが用意されている。ふと見れば濡れたタオルなどは奥に、乾いたそれだけを使いやすいように出されていた。 二階堂は乾いたタオルから手を離し、奥にあるバスタオルを取った。それはしっとりと湿っていた。二階堂はそれに顔を埋め、大きく息を吐いた。 バスタオルだけ腰に巻きバスルームを出ると、ベッドに腰掛け本を読んでいた久遠が顔を上げ、そのまま表情を顰めた。 「バスローブがあったでしょう」 「そうか?」 髪も濡れて、と久遠は本を閉じる。 「髪くらい…」 「二階堂さん」 ベッドに座らされ髪を拭かれそうになる。一瞬、そのまま身を委ねたいと思ったが、いいやと自分に首を振った。 「先にこっちだ」 久遠を押し倒す。本がベッドから滑り落ちて絨毯敷きの床で籠もった音を立てる。久遠は不快そうな目で音のした方を見た。 「ごめん」 二階堂は謝り、本を隣のベッドに投げた。 「ごめん、ですか」 「すまない」 久遠の舌からも煙草の味がした。同じ味だったが、少し苦かった。二階堂はそのまま上に跨がろうとしたが、久遠は強引に主導権を奪った。歳かな、と思いながら恐いほど真剣な相手の目を見た。二十年の歳月だった。敗北と勝利だった。その全てが紙くずのように感じられるほどのむなしさと、歳月を経てなおも心の底に残った哀しさだった。 あの時、食っちまったのがいけなかったんだろうか、と二階堂は思う。例えばオトモダチから始めませんか、という陳腐な科白。俺は自分を世話する女は要らなかったかもしれないが、人生を並んで歩く相手を見つけることは諦めるべきじゃなかった。多分、もう遅いが。 二階堂はいつまでも息を切らしていた。仕舞いに久遠が、大丈夫ですか、と声をかけた。 「はは」 横になったまま軽く手を振る。 「これが最後かと思うと気合い入って…」 それを聞いて久遠は顔を背けた。彼は煙草を探した。二階堂の服からそれを見つけ出し、一本取り出す。そしてパッケージの中に一緒に詰め込まれていたライターで火をつけた。 「あなたが、そう決めつけるんですか」 久遠は低く問う。 答える言葉は見つからない。二階堂は黙ってその背中を見つめる。少し引っ掻いた痕がある。 「何か言ったらどうです」 「何を言えって…?」 二階堂が目を逸らすと、今度は久遠が振り向いた。 「…あなたは変わった」 「今更だろう。そもそもお前が、フィフスセクターに入ったと知った時にお前の方が言ったじゃないか」 溜息と共に紫煙が吐き出される。 立ち上がる気配に視線を上げると、久遠は服を着るところだった。幕切れなんてこんなものか。しかしまあ体力も存外使い果たしたので――やはり腹筋を続けなかったせいだ――身体でうやむやにすることはできない。身なりを整えた久遠はテーブルの上に身をかがめる。そして二階堂の裸の胸の上にメモを置いた。 「約束をしましょう」 二階堂が驚いて見上げると、久遠は少しだけ微笑んでいた。 「次の約束を」 久遠の背中は部屋を出て行く。それを二階堂はただただ黙って見送った。 少し眠った。真夜中に目が覚めた。眠る前に泣いたせいか、目が腫れぼったい。メモには日付と駅の名前。時間は今日と同じ頃、二階堂が待ち伏せていたあの。 二階堂は身体を起こし煙草を探す。しかしそれは見つからなかった。久遠が持っていってしまっていた。次の約束…。仕方ない、煙草とライターを取り返すためだ、と? 二階堂は裸のまま机の上の電話をとる。そして彼の名前のように覚えていた携帯電話の番号を押す。どきどきと胸を高鳴らせ、二階堂は待つ。久遠が電話に出るのを、息を止めて待つ。
2011.11.5
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