クロッシングポイント







 目の前にいるのは見知った男であると同時に見知らぬ男で、この小説的な言い回しを用いたくなる程度には久遠道也は動揺したし、いささか混乱もしていた。
 駅の改札を出てマンションへ帰る道のりの、あまりに見慣れた風景の中に何の違和感もなく馴染んでいるのと同時に、完全な異物たるものとして感じるのは久遠ただ一人だった。帰路につく人々は皆それぞれの目的、それぞれの見える景色の中へ流れてゆく。雑踏と、熱気と、雨上がりの蒸し暑さ。誰かの体臭、きつすぎるフレグランス、それらがアスファルトから立ち上る蒸発した雨の匂いとまじって身体にまとわりつく。不快だった。早く帰って汗を流そうと思っていた。ほんの一秒か二秒前までは、そんな近時の未来を疑ってもいなかった。
「やあ」
 目の前に佇む見知った顔の見知らぬ男は片手を挙げて久遠に笑いかける。上物のスーツと、それには不釣り合いな古いこうもり傘を片手に。きれいに髭をあたった清潔な笑み。眼鏡の向こうで細められる目尻には笑いじわがある。
 私はこの男を知っている。私はこの男をよく知っていた、かつて。彼は旧知だ。彼はライバル。彼は恋人だった。俺は彼の恋人だった。
 二階堂修吾。
 どこからどう見ても彼にしか見えない。挙げられた手には見覚えがあったし、笑顔も、笑いじわも、その柔らかな声音も、全て記憶にあった。ここ一年会う機会が減っていたが、だが忘れるはずもない。何年会わずとも、それが十年でも、何十年でも久遠は彼を忘れるはずがない。しわが増えようと、白髪になろうと、雑踏の中から見つけ出せるだろう。しかし。
「忘れたのか?」
 男が笑う。
「俺だよ、木戸川清修の二階堂だ」
 見間違えるはずがない。あの手は何度も自分を抱いた。あの首筋の匂いを覚えている。相手が自分の首筋に顔を埋める時触れた髪の感触も覚えている。
 服のせいか? 眼鏡のせいか? あの上物のスーツで包まれた下には自分の知らない肉体が詰まっているかのようで、久遠は身震いする。真夏の、雨上がりの夕方に、足下から寒気が這い上がる。
 相手は一歩二歩と動けない久遠に近づく。
「会いたかったよ、やっと時間が取れたんだ。一杯どうだ?」
 久遠はどんな顔をしていいのか分からない。しかし二階堂という存在に馴染んだ肉体は久遠の心をよそに勝手な反応を示す。柔らかな声。穏やかでありながらこちらの心を掴み、有無を言わせない。会いたい、そう言われれば久遠は腰を上げるしかない。彼の声と自分の欲望が回路で繋がっている。数ヶ月ぶりに電子の走った回路は、久遠の身体を痺れさせ肌を粟立たせた。
「つきあってくれるだろう?」
 久遠は頷いて、二階堂の促すままに歩き出す。久しぶり、の挨拶も交わさないまま。

 雷雷軒ののれんをくぐると、らっしゃい!と景気のいい声が出迎える。カウンターの中でもうもうと立ち上る湯気の向こうから客を出迎える飛鷹は久遠の姿を見て顔をほころばせた。
「お久しぶりです、監督」
 そして隣の男に目を向け、少しの戸惑い。
「やあ飛鷹、繁盛してるじゃないか」
 二階堂は先に店の中へ踏み込むと、更に奥の人影に声をかける。
「正剛さん、お久しぶりです」
 久遠は店の奥の響木を見た。こちらをじっと見ている。サングラスで表情を知れないようだが、空気は伝わる。
 が、二階堂はそれを全く感知していないのかテーブル席に腰掛け、ほらほらと久遠を促した。
「取り敢えずビール、それから…」
「お前に食わせるラーメンはない」
 響木の重い声がして、それなりに賑わっていた店内は急に静かになった。
「じゃ、チャーハン」
 場違いなほど明るく二階堂の声は響いた。
「大盛りで」
 飛鷹は響木に目を遣る。しかし響木は何も言わなかった。
「チャーハン二丁!」
 飛鷹はいつもの店の雰囲気を取り戻すように声を上げた。
「響木さん、厳しいなあ」
 テーブル越しに二階堂が笑う。久遠はまだ何も言葉を発していない。
「ご挨拶じゃねえか」
 ドンと音を立ててビールが置かれる。響木がじろりと見下ろしている。
「お久しぶりです」
「言う言葉はそれだけか」
「何がですか?」
 二階堂は笑う。いつもの笑顔のようだが、それはあまりに整いすぎていた。二階堂の笑顔はもっと表情豊かで、優しさや情けなさも全て内包していた。なのにこれは、まるで壁を作っているかのような笑顔だ。
「久遠」
 響木が呼んだ。久遠は返事も忘れて響木の顔を見上げた。老いた師はじっと久遠を見下ろしていたが、不意に背中を向ける。カウンターの中から飛鷹も見ていた。久遠は思わず逃げるようにビールを掴んだ。
「いやいや悪い、俺が」
 二階堂が瓶を取り上げ、久遠にコップを持たせる。
「まずは乾杯っと」
 手が伸び、二階堂の腕を掴んだ。二階堂はビール瓶を持ったままじっと動きを止めた。
 その時ようやく二階堂から整えられた笑みが消えた。そして残ったのは疲れか諦念か、情けない笑みの残滓だった。
「注ごう」
 久遠は瓶を取り上げた。今度は二階堂が黙ってコップを差し出した。
 二人はお互い手にしたコップを軽く触れ合わせた。賑やかさを取り戻した店内で、その小さな硬い音は二人の耳にだけ届いた。
 二階堂は一気にビールを呷り、晴れやかな顔で口元の泡を拭った。久遠も半分ほど干してコップを置いた。
「そういうことなのか」
 静かに言うと、二階堂の目に優しい光が蘇る。
「お前は変わらないな、久遠」
「そう見えるか」
「見た目という意味なら」
 二階堂は手を伸ばし、指先で久遠の口髭をなぞる。
「変わったけど、少し」
 かつてポロシャツに着古したジャージ姿でラーメンをすすっていた男は、スーツに身を包み、眼鏡の奥から久遠を見つめた。久遠は見つめられるままその視線を受け、二階堂にビールを傾けた。
「ありがとう」
 なみなみと満たされたコップに二階堂は言った。落ち着いた声音。それは真夜中の沈黙に似ていた。久遠は目覚めたことを言わず、目をつむったままその沈黙を聞いていた。狭苦しく一つの布団に二人分の身体を押し込んで肌を触れ合わせていた夜。満足感と浅い眠りの後の静けさ。二階堂は煙草を吸った。その匂いをかぎ、煙を吐く息を聞くのが久遠は好きだった。
「いつから」
 久遠の問いに、何が、と問い返すような真似を二階堂はしなかった。
「いつから、か」
 コップから口を離し、二階堂は息をつく。
 懐から取り出した煙草には見覚えがあった。十年前と、更にその前から変わらない煙草。しかしそれに火を付けるのはパチンコの景品のライターではなく、ジッポーだ。二階堂の名前が刻印されているのを久遠は見る。
「サッカーは、昔からサッカーだ。何も変わることはない。そう思っているのか、今でも」
「あなたは、そうは思わなくなったと?」
 ため息と共に二階堂が煙草の煙を吐き出す。懐かしい香り。二階堂は軽く目を伏せアルミの灰皿を引き寄せる。
「サッカーは楽しい。俺の信条だ。お前だって解ってるだろう。サッカーは楽しい。サッカーには夢がある。現実もある。勝利も敗北もある。涙の味と悔しさにかみ殺した言葉がある。でもゴールした瞬間の歓喜の爆発はそれを全部報う」
 懐かしいじゃないか。
 二階堂は言った。
「懐かしい光景だな、久遠」
「………」
「もう滅多に見ない光景だ。フィフスセクターが管理し始めたからか? 違うだろう。それ以前からサッカーはそれ以上の力の手先となっていた。敗者は敗者。そこでジ・エンド。這い上がるチャンスなんか残されちゃいない。俺は泣いて終わるだけの選手を何人も見たよ」
 二階堂は上目遣いに自分の向かいに座る男を見た。
「お前はどうだ、久遠。雷門中サッカー部監督は」
「ああ」
「俺以上の数を見ただろう」
「見た」
 簡単な話さ、と呟き二階堂はビールを一口呷った。
「お待たせしました」
 飛鷹がチャーハンを運んできた。大盛りの皿はゴトリと音を立ててテーブルに置かれる。
「ありがとう」
 二階堂の顔にまた笑みが浮かぶ。
「ウス」
 久遠は黙って飛鷹の後ろ姿を見送る。
「さ、食おう食おう」
 二階堂は久遠に向かっても笑顔を見せた。
 二人は何本もビールをおかわりした。二階堂は饒舌だった。
「この前の試合は良かったよ」
 ホーリーロードの決勝の話だ。
「お前のチーム、一年の使い方が面白かったな。でも、俺の戦略が一枚上手だった」
「良い試合でしたよ」
「負け惜しみか?」
「まさか。あなたは私のことをよくご存じのはずだ」
「ご存じご存じ、ご存じだとも。だからお前が冷静そうに見せて腹の底では悔しさでぐらっぐらに煮えたぎってるのも知ってる」
「悔しさは悔しさ、試合の善し悪しは別です」
「俺だって優勝の喜びは別として、純粋にサッカー指導者として見ててさ、お前とお前のチームにはやられたって思ってるんだぜ。あそこで一年を起用するとは思わなかった。あの久遠監督のことだ、試合結果を投げて一年に経験積ませようとか思った訳じゃないんだろ? 勝つつもりだったんだろ?」
 それ以外で自分が動くと思っているのか、そんな目で見てやると、ほらな、と二階堂は楽しそうに笑った。
「ちゃんと育ててやれよ」
 店はピークも過ぎたのか人が少なくなっていた。通り物のように店内が一瞬しんとなった。それは一瞬のことで、またお喋りが始まったが、久遠たちのテーブルは静かなままだった。
 二階堂は短くなった煙草を揉み潰し、ビールを呷った。
「お前の意志はどこにあるんだ」
 久遠は押し殺した声で、修吾、と呼んだ。
「サッカーだよ」
 二階堂は笑う、苦々しく。
「サッカー以外のことなんて考えたことがない。例外があるとすれば、お前くらいなもんだ」
「サッカーのことを考えて、フィフスセクターを選んだのか」
 軽く顔を伏せたまま二階堂は目を合わせようとしなかった。眼鏡が視線を隠し、口元にわずかに残った笑みからは彼の感情をどちらのものとも判じることができなかった。
「選手ってのはさ、俺たちにとって実の子同然だよな。卒業しても、いくつになっても。放っておけないんだよ」
 次に顔を上げた二階堂は、懐かしい教師の笑みを浮かべていた。
「あの一年、大事に育ててやれよ。フィールドの真ん中で人目もはばからずあんなに悔しがって、本当にいい選手だ。強い選手になれる」
 勘定をしようとして、二階堂が率先して財布を開くのもかつてはなかった光景だった。響木が渋い顔をしてレジを打つ。
「あ、領収書を」
 二階堂が付け加えると心底嫌そうな顔をして、隣から飛鷹が、響木さん、とたしなめる。
「冗談ですよ」
 笑って、二階堂は釣り銭とレシートをポケットに突っ込んだ。
 古いながらも冷房の効いていた店内から外へ出ると、むっとする熱気が身体を包み込む。久遠は不意に息苦しくなった。
「次はどんな対面になるんだろうな」
 息苦しさを誤魔化すように皮肉を込めた科白を吐く。
「どこだってさ」
 それなのに二階堂は笑って答えるのだった。
「サッカーのある場所でなら、どこでだって会うだろう」
「……修吾」
「こわい顔するなよ」
 軽く肩を掴まれる。久遠の中で身体の覚えている記憶と、心が拮抗する。抗うこともできないまま棒立ちになっていると、二階堂の顔が近づいた。
「こわい顔も貫禄だけど、でも、やっぱり台無しだ」
 キスの間中、久遠は目を開けていた。眼鏡が自分と二階堂を隔てている。
 久遠は乱暴な仕草で二階堂から眼鏡を奪った。唇に噛みつくと喉の奥のうめきが直に伝わった。血の味がした。
 指紋のべったりついた眼鏡を返す。二階堂は苦笑してそれをポケットに突っ込んだ。
「くすぐったかった」
「…何が」
「キス」
 二階堂は指先で鼻の下をさした。
 後ろ姿を久遠は見送らなかった。お互いに背を向けて歩き出した、しかし辿り着く場所は同じなのだろう。同じ一つの場所で自分たちは決着をつけるしかない。緑の芝の上で、あのフィールドで。
 熱い風が街を吹き抜ける。唐突にうめき声が久遠の喉をついた。
 久遠は立ち止まり、曇った夜空を見上げた。涙が伝った。心を二つに引き裂くような痛みが彼を襲った。
 大粒の雨が頬を打った。雨はあっという間に本降りになり、為す術もなく佇む久遠をずぶ濡れにした。
 それでも。久遠は思う。それでもあの人は濡れないだろう、きっと。手元の古いこうもり傘。懐かしい、懐かしいあの頃。
 変わらないな、と優しい声が耳に蘇る。
 久遠は俯く。丸めた背中を雨は容赦なく打つ。久遠は泣きながら家路についた。長い道を雨に濡れながら、歩いた。



2011.8.27