シンギング・レイン







 少し早く起きて乾した洗濯物が濡れるのを覚悟した。夕立だ。海側の空がさっと曇った。それから一気に、来た。どうっと街を叩く音がする。ビル街を叩き、水の柱のような雨が迫ってくる。二階堂は笛を吹いて選手を集合させた。大会前だ。練習はしてもし足りないが、用心をしなければ、やりすぎた選手が必ず、年に一人か二人は体調を崩す。三十分ほど早い解散をすると、最後の一人が部室に飛び込んだ直後、校庭にも雨が叩きつけた。
 屋内では子ども達が置き傘の話やら帰りのバスの話をしている。二階堂は軒下に佇んで、雨降る校庭を見下ろす。背後からは熱気と、むっとする匂いと、笑い声。
 開いた窓から振り向けば、誰も子ども達は笑顔で、帰宅するのに何の心配もいらないことは羨ましいと思わなくもない。不便で、ままならない年頃でもあるが、しかし煩悶と同じだけ自由も持っている。大人のそれとは異なるものだ。
 制服に着替えた選手達一人一人に手を振り、最後に主将から部室の鍵を受け取って職員室に戻った。置き傘があった。
 黒のコウモリをさして帰るのは懐かしい気がした。暖かくなっていた、と言うもののこの夕立は春雨とは趣が違う。早速、夏が近づいてきているのだ。大会の季節だ。
 木戸川清修は今年も全国に進むことが出来た。東京代表はいつものように帝国学園。おそらくここが最大の敵だろう。今年の代表校は番狂わせの感がない。常勝校が普通に上がってきた体だ。あとはブロック次第。決勝まで行って、当たるか、否か。優勝を目指すからには、ここと当たらないということはない。それ以前に敗北することなど、できない。
 横断歩道で足が止まった。ふと考えが途切れて、またベランダの洗濯物のことが頭に滑り込んできた。やれやれ、齢を取れば取るほど周囲は煩雑になる。自分の生活一つシンプルには済ませられない。サッカー一筋、寝ても覚めてもそれに邁進できる子ども達は確かに羨ましい。
 走り過ぎる車が泥水を跳ねた。二階堂は膝まで濡れた。文句は喉まで出かかって、結局溜息になった。テールライトは既に遠い。信号が青になったので横断歩道を渡った。
 アパートに近づき、窓の灯を数えるのは癖だ。たとえ自分の部屋にあたたかいそれはないにしろ…。
 そこまで考えて、二階堂の歩調は緩む。
 一、二…、と数え直す。
 明かりが点いていた。
 心当たりがない。最近は男性関係もご無沙汰であるし、老いた親が訪ねてきたとも思えない。
 ふと希望のようなものが一瞬掠めたが、いや、まさか。
 泥棒と鉢合わせをしたときの心構えをしつつ、音を忍ばせて錆びた外階段を上った。ドアの前には濡れていない傘が立てかけられていた。二階堂はそれをじっと見下ろしていたが、せめて武器になるようにと握り締めていた自分のコウモリを隣に立てかけた。手が濡れていた。彼はそれをズボンの尻で拭った。
 ドアを開ける。
 玄関から見て明るい部屋が目の前に広がっているのは妙な心地がした。料理の匂いがするのも。自炊はするが、じっくり味わうためのこんな匂いをさせたことはない。
 襖が開いていて、奥の四畳半も見えた。部屋の電気の所為で、ベランダの外の夕立の空が暗く沈んで見えた。洗濯物は濡れていなかった。畳の上に正座して、それを畳む男がいたからだ。
 顔が上がる。
「勝手にお邪魔しました」
 相変わらず暗く低い声で彼は言った。
「合い鍵の隠し場所が、前と変わっていなかったもので」
「変えてないんだよ」
 二階堂は靴を脱ぎ、部屋に上がる。
「ただいま」
「…お帰りなさい」
 そう言うのを少し恥ずかしがるように久遠道也は言った。
「吃驚した」
「そうですか?」
「そうだよ驚いてる。翼よあれがパリの灯だ、と来たもんさ。窓に明かりはついてるわ、泥棒かと覚悟しきや料理の匂いに迎えられるわ、びしょ濡れだと思った洗濯物は畳んであるし」
 すまない、と二階堂は手を伸ばす。
「一本取ってくれ、乾いたのを」
 ズボンは膝まで濡れている。二階堂は濡れた靴下を土間にそのまま脱ぎ捨て、ズボンを脱ぎにかかった。久遠はジャージを手渡してくれた。
「本当は、待つつもりでした」
 背を向けながら久遠はぼそぼそと言った。
「しかし驟雨が…」
 手にした洗濯物をちょっと持ち上げる。
「この程度なら迷惑にはなるまいと。いや、ご迷惑をおかけするようだったら、もう毒食らわば皿までと思って」
「いや」
 二階堂は久遠の正面に腰を下ろし、胡座をかいた。
「ありがとう」
 残った洗濯物は少ないが畳む。下着は先に畳まれていて、少し照れたが面には出さなかった。
「…まさか俺の洗濯物が雨に濡れる予知をして来た訳でもないだろう」
 二階堂が言うと、久遠は少し沈黙していたが、そうかもしれませんよ、と冗談ともつかない返事をした。
「何があった?」
「どうと言うことはない。ただ、お訪ねしただけです」
「娘を置いて?」
 久遠は膝の上に畳んでいたシャツを他のものと重ねた。二階堂はずい、と近寄り少し無理矢理なキスをした。明かりが邪魔だと思った。
 久遠が抵抗をしなかったので、そのまま畳の上に押し倒す。
「…時間はどれくらいある」
 低い声で尋ねると、久遠は目を伏せ、少しです、と答えた。
 ゴムに手を伸ばすにも結局立ち上がらざるを得なかったから、紐を引っ張って明かりを消した。隣の部屋は点いているが、まあ構わない。顔も見えるし、と思う。
 久遠はただ寝転がってはおらず、畳んだ洗濯物を部屋の隅にどけ、カーテンを閉めようとした。
「開けたままで」
 二階堂が言った。久遠は振り向いた。物言いたげな表情ではあったが、不満というのではなかった。久遠は自分で服を脱ぎ、その服も畳んだ。その時だけ、情欲以上に微笑ましさを感じ、二階堂は鼻から息を漏らした。

 セックスの後の気怠さにひたるでもない。久遠は淡々と服を着て、下着姿のままの二階堂は間抜けを晒しているな、と自嘲する。この後、更に彼のいなくなった部屋で、彼の作った料理を一人、食べるのだ。物侘びしさは、あったものの失われた分だけ抉る。
「今度」
 思いついて口を開く。
「冬花ちゃんも連れてくるといい」
 意外そうな顔で久遠が見るので、確かに大した城じゃあないが、と言い訳した。
「肉体関係抜きだって、俺はお前と付き合っていたいから」
「それは…」
 俯き、久遠はぽつりと言った。
「私が我慢できそうもありません」
 一戦交えた後だと言うのに下半身がてきめんに反応を示した。今言うな、と言おうとしたが、やめた。久遠は俯いたままだった。
 洗濯物をありがとう。それから料理も、ありがたく食べさせてもらうよ。本当に来てくれて助かった。いや、最近溜まってたしな。そんな冗談を交えた別れの言葉が頭の中をだらだらと流れてゆく。が、流れ行き過ぎるだけで、一言も口から出なかった。その間に久遠は玄関で靴を履いていた。
「また、来いよ」
 とだけ、言った。久遠は黙って、まだ小雨の止まない表へ出て行った。雨の匂いが吹き込み、ドアが閉じる。一瞬、傘に向かって伸ばす手が見える。
 二階堂は数秒、その光景を瞼の裏に繰り返してぼんやりしていたが、不意に立ち上がった。なんとかズボンだけを穿き、玄関のドアを開ける。
 乾いた傘が一本立てかけられていた。黒のコウモリは、水の滴った跡だけを残して、なかった。二階堂は首を伸ばしたが、狭い通りを、黒のコウモリ傘をさして行く人影は見つけきれなかった。



2011.5.25