ウォーキン・ウィンド







 国道と名のついた一車線の舗装道路は蛇行しながら畑の間を縫い、連山の頂を目指す。両側に広がる麦の畑は穂の色づく前であり、みずみずしい緑が風に吹かれて音を立てて揺れている。車を運転する久遠の耳にその爽やかな音は届かないが、助手席の冬花は開いた窓にしがみつくようにしてその風景を見つめている。
 冬花は囁くような声で言う。
「お父さん、風の足跡が見えるのよ。銀色なのよ」
 窓から手を伸ばして指さしたり、座席の上にのぼってはしゃいだりなどしない。
 幼い彼女のこの大人しさは自分の与えてしまった影響なのだろうと思う。あの事故の記憶と共に、冬花には封じられてしまった感情がある。
 手のかからない子ども。大人しくて素直ないいお嬢さん、とマンションの隣人からも言われたことがある。褒め言葉ではあろう。しかし久遠の思いは複雑だ。自分は父親として彼女と接することができているのか。
 先日もそうだった。ゴールデンウィークを前に、どこへ行きたいかと尋ねても冬花は家にいると言った。
「だってお父さん、お仕事でしょう? 私、お父さんのお手伝いするわ」
 胸をつかれた。揺れた感情が表に出ぬよう、いつもより強く冬花の頭を撫でて彼女を俯かせた。彼女はちょっと笑って自分の頭を撫でる久遠の手に触った。
 遊園地、動物園、デパートでお買い物…、何でもいいだろう。冬花が自分の希望を言いさえすれば久遠は喜んでそこへ連れて行くつもりだった。
 では逆に自分が彼女の喜ぶような場所に連れて行ってやろうと考えても、こここそはという場所は浮かばなかった。
 連休初日、雨が降った。
 結局家にいて、久遠は持ち帰った仕事をした。ただし、なるべくリビングにいた。冬花は静かに本を読んでいた。それまで遊んでいたのだろう、小学校で作った図工の作品が本と一緒に並んでいた。ペットボトルで作った風車。雨でなかったらベランダに出して回る様を見たかったのだろう。
 久遠は途中で仕事をやめ、地図を広げた。ただ走り、景色を見るだけのドライブなどしたことがなかった。そこで社会科見学の資料などを引っ張り出し、ドライブコースを定めたのだった。
 強いが、しかし爽やかな風が吹いていた。冬花の言うとおり、麦が風に撫でられ、穂が銀色に光って見える。
 道が大きくカーブする。その先は山間に入っていく。
 花もすっかり散り、青々とした葉を繁らせる桜。野生のまま花を誇らせる藤。冬花はまだ花の名前をよく知らない。
「むらさきの花」
「藤」
「ピンクの花」
「躑躅」
「白い花」
「それも躑躅」
「赤い花」
「それも躑躅だ」
「躑躅はたくさん色があるのね」
 冬花が微笑み、こちらに向き直る。
「ピンクの花」
「花水木。あれは本当は花じゃない」
「じゃあ、なあに」
「葉っぱ…のようなものだ」
「ピンクの葉っぱ」
 今日ようやく彼女はにっこり笑う。
「かわいい」
 出かけよう、と言った時もきょとんとしていた冬花の笑顔に、久遠は少しホッとした。
 前方、山間から巨大な人工物が覗く。風力発電は遠くからもはっきりとその姿を見ることができた。冬花の興味も、花から一気にそちらへ引きつけられた。
「大きなかざぐるま…!」
「あそこでお昼ご飯を食べよう」
「ほんとう?」
 冬花の声が弾む。
 何もない山の中に、風力発電所は唐突に存在した。前年の上級生の社会科見学地がここだった。ゴールデンウィークまだ二日目だからか、しかし発電所には見学らしい車は多くない。地味な場所を選んでしまったと久遠も気づいたが、冬花は風車を見上げて口をぽかんと開けている。
 職員は丁寧に二人を案内してくれた。冬花は風車の模型が豆電球を点けたり音楽を鳴らしたりする装置の前から動かない。
「…久遠、さん?」
 突然声をかけられても、一瞬、自分のこととは思えなかった。何故ならここはゴールデンウィークにも関わらず人の少ない観光地で、ましてあのようなことがあって一線を退いた自分に親しげに声をかけてくれる人間など、ほとんどいなかったからだ。
「久遠さん」
 それなのに、その声には溢れるほどの親愛の情が込められていた。自分はまだ振り向いてもいないのに。 ああ、この人は、と久遠は思う。声だけで、勿論誰かなど分かっていた。 久遠は黙って振り返った。
「久遠さん」
 声は三度自分を呼んだ。変わらぬ笑顔が目の前にあった。
「こんな所で出会うなんて」
「ご無沙汰しています、二階堂先生」
 やだなあ先生だなんて、と事実教職にある男は言い、自分の傍らの少女に気づく。
 冬花を引き取ってからはなおのこと、昔の知り合いとの接触を避けていた。噂でも聞いていない限り、二階堂は冬花のことを知らない。
 冬花も振り返り、そして二階堂を見た。
「…こんにちは」
 二階堂が笑顔を向ける。
 冬花はそっと久遠の横に寄り添い、
「こんにちは」
と頭を下げた。
「冬花、この人は木戸川清修という中学校の先生だ」
「お父さん、中学校の先生とお友達なの?」
「そうだよ」
 と答えたのは二階堂だった。
「そうだ」
 と、二階堂の言葉に押されるように、久遠もうなずくことができた。
「よろしく。お父さんのお友達とも仲良くしてくれるかな、ふゆかちゃん」
「はい」
 冬花は控えめに微笑み、うなずいた。
 売店でサンドイッチを買い草原を風車の下まで歩く。冬花は珍しく、久遠と手をつないで離さなかった。二階堂はただ笑って、二人に向かって話しかけるようにそれとなく気を遣っている。
 冬花は礼儀正しい。しかしそれに隠れて人見知りでもある。
 風車の下は勿論風が強かった。三人は膝の上にのせたサンドイッチが飛ばないように、風にあおられながら食べた。
「気持ちがいいね。こう気持ちのいい風に吹かれることなんて、都会ではないから。ここには風しかないみたいだ」
 一つのサンドイッチを一口二口で食べてしまった二階堂が伸びをしながら言う。
「二階堂…さんは、どうして」
「ここ、穴場でしょう。こんなに天気のいい日は外に出たかったから、羽根を伸ばしにね」
 今この時期、フットボールフロンティアの予選で忙しいはずだが、そのことについて尋ねることはできなかった。
「心が軽くなるね」
 二階堂は特に冬花を見下ろしながら言う。冬花はじっと二階堂を見つめている。気づいた彼が目顔で尋ねると、
「はね…」
と小さな声で言った。
「羽根、本当にはえたらいいなあ」
 二階堂は笑う。
「そしたらどこにでも飛んでいけるね」
 そして急に立ち上がると斜面を物凄い勢いで駆け下りた。
「あっ」
 久遠は思わず声を上げる。
 二階堂がジャンプをする。勿論、尻餅をつく。
「二階堂さん!」
「へいきへいき…!」
 笑って手を振っているが痛そうだ。尻をさすりながらゆっくりと斜面を登ってきた。
「失敗しちゃったよ」
 息を切らせる二階堂に、久遠は自分の分のペットボトルを差し出す。
「はは、すみません」
 彼はそれを一気に飲み干した。
「はしゃぎすぎちゃって」
「どこに飛んでいくつもりだったんですか」
 若干のあきれを含んだ言葉に返されたのは、思いの外真面目な視線だった。
 久遠は黙って二階堂の手から空のペットボトルを受け取った。
「葉っぱ」
 冬花が呟いた。
「何だ」
 久遠が尋ねると、葉っぱ、と繰り返し冬花は二階堂に向けて一歩踏み出す。そして背中についた葉を小さな指で取った。
「ありがとう」
 笑顔の二階堂の言葉に、
「どういたしまして」
 と冬花は言葉こそかたいものの、少し和らいだ表情で答えた。
 草原を歩きながら、冬花は久遠の手を握っていたが、何度かちらちらと二階堂を見た。二階堂が手を差し出すと、それをそっと握った。
「そうだ、ふゆかちゃんは飛べるかもしれないな」
 二階堂が言い、久遠を見る。
「私、飛べるの?」
「いいかい」
 二階堂は久遠と息を合わせ、いち、に、さん、と冬花の手を引っ張り上げる。小さな身体は草原から浮き上がり、二、三歩、風の上を歩いた。
 冬花が小さく声をあげた。
「すごい…!」
「よし、もう一度いこうか」
 次に身体が浮かび上がると、今度は冬花は笑い声を上げた。
「ナウシカみたい!」
「じゃあもう一回!」
 それっという声と共に、風の上を歩く冬花の笑いが草原に響く。
 駐車場で別れる際も冬花は名残惜しそうだったが、二階堂もそんな顔をしていた。久遠は冬花を先に助手席に乗せ、二階堂に頭を下げた。
「今日はありがとうございます」
「何もお礼の言われるようなことはしてませんよ」
「いえ…」
 久遠が俯くと、二階堂の手がぽんぽんと優しく腕を叩いた。
「大丈夫」
 二階堂は真面目な瞳で真っ直ぐ久遠を見つめ、言った。
「無責任な言葉をかけてるんじゃない。大丈夫だ」
「…ありがとうございます」
「また会おう、いつでも」
 互いに軽く相手の身体を抱いて、離れた。
「約束だぜ?」
「はい」
「連絡待ってる。じゃなきゃ…」
「飛んで……」
 久遠が思わずこぼした言葉に顔をくしゃっとさせると、二階堂は嬉しそうに久遠の背中をばんばん叩いた。
「分かってるじゃないか」
 道中お気をつけて、と久遠は二階堂の身体を引きはがした。
 帰りの車の中、冬花は眠ってしまった。胸の上で小さな手を組んでいる。一体、どんな夢を見ているのだろう、と久遠は思う。冬花の寝顔が微笑んでいるからだ。
「あなたのお蔭だ」
 そう呟く久遠は、自分も微笑んでいることに気づいていない。



2011.4.24