インターバル







 久遠はベランダに出て煙草を吸った。一人で住んでいた頃、蛍族はまだ多く見かけたはずだが、今通りを挟んだ向かいのマンションなど目の前に広がる街の夜の中に、あの小さな赤い光を見出すことはできなかった。
 花冷えでもある。まして、この悪天候ではベランダに出るのもいささかに惨めだ。
 霧雨が街を包んでいた。コンクリートの上に佇んでいるだけで、しんと冷える。久遠は肺の奥まで煙を吸い込み、喉の奥の違和感に、もう自分の身体はこの煙とニコチンを受けつけなくなったのかと感じた。結構な話だ。これからはきっぱり断って健全に生きればよい。
 元より煙草を嗜んでいた訳ではなかった。あの狭い二間の、どこかしらにいつもくしゃくしゃの煙草の箱があって、灰皿いっぱいの吸い殻を掃除したのはいつも自分。彼はわざとそうしていたのかもしれない。久遠さんが来なけりゃ灰がこぼれちまうんですよ。言われたこともない一言を、まるで本当に言われたかのように思い描くことができる。にっこり笑って、目元に少しだけ疲れをにじませて。彼は常に頼れる監督であり元気な体育教師の顔をしていたけれども、自分の前ではそんな表情をして見せた。
 あの人が幸せでいるといい、と思う。我が儘な願いではあるが、久遠はそう願わずにはおれない。あなたが今日もサッカーを楽しみ、毎日を活力溢れ過ごしているのならば、そう思うだけで久遠の心は救われる。
 まだ教育実習生の頃だった。木戸川清修の若きサッカー監督のことは知っていた。今では遠く懐かしい思い出だが、あの頃自分は、彼のようなサッカー監督になれたら、と思ったことがあるのだ。
 風が吹き、霧雨が煙草を湿らす。これでおしまい、だった。久遠は手にしていた小さな灰皿に煙草を押しつけ、揉み消した。煙の匂いが鼻をつく。匂いを払うように、軽く服を手で叩く。引き取ったばかりの幼い娘はもう眠っているが、この煙草の匂いは異物を持ち込むようで、ここで払ってしまいたかった。
 そうか、と久遠は思う。
 彼との思い出は、自分と彼だけのものなのだ、と。
 この灰皿ももう使わないだろう。あるいは自分が人生というものを取り戻して、彼を招き入れることができるようになれば、使ってもいい。その頃は、彼も禁煙している可能性もある、が。
 久遠は少しだけそれと分からぬほどの微笑を浮かべた。修吾、と彼の名を思い浮かべるだけで、その微笑は湧き上がる。新しい人生が始まったんだ。いつか、あなたにも話したい。いつか、ゆっくり。煙草にビールでも傾けながら、ゆっくり一晩語り明かしたいと思う。



2011.4.18