スプリング・カム







 寒の戻りの冷たい風が夕空の下、大通りを強く吹き抜ける。それから逃れるように駅に入ると、冬に逆戻りしたような装いの人々でごった返していた。
 二階堂は冷たくなった手を擦り合わせ、息を吐きかけた。指先がかじかんでいる。時計を見上げたが、約束の時間には早いようだった。しかしそう待たされはしないだろう。彼はいつも約束の五分前には到着するような男だ。
 ベンダーの前にも人が並んでいて、その後ろから何があるのかとチラ見する。無糖コーヒーが売り切れていた。ブラック派が多く並んだらしい。
 自分の番になり硬貨を投入した二階堂は、甘さ控えめ、の謳い文句に妥協しようかとしたが、ふと見ると、今まで人に隠れていた缶が目に入った。
 発作的にボタンを押した。
 風は冷たいが駅の表で待った。ジャンパーの襟は立てているものの吹き込んでくる寒風に首を竦めながら。足下から這い上がる寒さは骨を震わせるものの、両手で包み込んだ缶は温かだ。むしろ熱いほどで、二階堂はそれを両手の間で転がしながら彼を待つ。
 久遠は常に違わず約束の五分前に顔を見せた。
 彼は寒さに震えている二階堂を見て、傍目には分かりにくいがしまったという顔をした。
「待たせましたか…」
 言葉半ばで二階堂は久遠の頬に缶を押しつけた。ぬくもりにびっくりした久遠は語尾を弱くして、たっぷり間を置いた後、二階堂さん、と呼んだ。
「待ってませんよ」
「寒そうだ」
「あなたもね」
 ほんのプレゼント、と言うと、久遠は頬に押しつけられていた缶を受け取った。
「…おしるこ」
 缶に書かれた筆文字を読む。
「おしるこ…ですか」
 二階堂は何も言わずに、ただ笑った。
 プルトップを開けない躊躇いは、きっと久遠はこういうものを飲んだことがないに違いないからだ。二階堂は楽しみながら成り行きを見守った。
 久遠は一つ心を決めたようでそれを一気に呷った。喉が鳴る。小さな缶はあっと言う間に空になった。
 なおもにこにこ笑ったまま見ていると、久遠は缶を覗き込んで、あ、と呟いた。
「飲みきれなかった」
「どれどれ」
 覗き込もうとすると、自分が飲んだあとを見られるのは気恥ずかしいのか手を引こうとする。二階堂はそれを捕まえて、缶の底を見つめた。
 小豆の粒が残っていた。
「缶を振らないから」
「言ってくれなかった」
「だって、子どもじゃないでしょう」
 久遠はむすっとすると、もう一度缶を呷り底を手で叩いた。何粒かは下りて来たのだろう。もぐもぐと口を動かしている。
 電車に乗って、久遠のマンションに向かった。
 夕飯は久遠の手料理を御馳走してもらう予定だったが、さっきから黙り込んでいる久遠は、何が食べたいかとも尋ねてこなかったので、これは作戦に失敗したかと二階堂は内心苦笑する。あれは久遠を困らせる気はなく、ただ彼の可愛いところを見てみたかっただけなのだけれども。
 マンションは駅から近い。こんな立地のいい所に住めるのか、と二階堂は身分差を思い知った気分だ。
 ふと、隣を歩く久遠の姿が消えて二階堂はギョッとする。
「道也?」
 振り向くと彼はベンダーの前に立ち止まっていた。缶を取り出している。熱いらしく、指先でつまんでは右手左手と持ち替えていた。
 目の前で久遠がニヤリと笑った。
 頬に熱い缶が触れる。
「どうぞ」
 押しつけられたのはコーンポタージュの缶だった。
 コーン粒入り。
「…受けて立ちましょう」
 缶を振ってから中身を呷る。
 飲み終えると久遠は遠慮せず缶の底を覗き込んできた。
「ほら」
「…たまたまですよ」
「でも飲みきれなかったでしょう」
「だからたまたまだって」
 久遠は嬉しそうにしていた。表だっての表情は変わらなかったが、足下がうきうきと弾んでいた。
「そうそう。何が食べたいですか、二階堂さん」
 しかし人生万事塞翁が馬、か。
 マンションへ続く並木は桜が二分、三分と咲いている。街灯に照らされ、小さな花弁が白く光る。
 何がいいでしょうねえ、と考え込む振りをしながら二階堂は歩調を落とし、桜の下を歩く久遠の後ろ姿を眺めた。
「何はなくとも、まずあなたかな」
「冗談を言うには相応しくありませんよ」
 久遠はさらりと流す。
「そもそも食べられるのは客人の方でしょう」
「え?」
「塩とクリームを塗り込んでやって来る」
「宮沢賢治?」
 二階堂はくつくつと声に出して笑った。
「意外だな」
「そうですか。私はそもそも国語教師なので」
「じゃあ」
 大きく踏み出して遅れた分を取り戻し、再び並んで歩きながら二階堂は言った。
「奥の部屋で大口開けて待っていてくれるんだ」
「あなたが鉄砲もドスも呑んでいないと分かれば」
「何が怖いんだ?」
 指の背で頬をそっと撫でると、久遠は驚いたように振り向いた。
「…あなたの、そういうところが」
「怖い?」
「人を幸福にする才能のある人の側にいると、自分がその手を離した時のことを考えて臆病になります」
 二階堂はぎゅっと強く久遠の手を握った。
「これでも、怖いか」
 囁くと、久遠が低く、走りましょう、と言った。
「走る?」
「待ちきれないから」
 二階堂は満面に浮かぶ笑みを堪えず笑う。
 軽く、繋いだ手を持ち上げて見せた。
「握ったまま?」
「それは…流石に」
「じゃあ、もっと速く走らないと」
 手の離れたのが合図だった。
 走ってマンションのエレベーターに飛び込み、息つく間もなくキスをする。階数のボタンを押し忘れていた。ポン、と音を立てて扉が開き、今しもエントランスに入ってきた他の階の住人と一瞬目が合った。
 二階堂はにっこり笑い、閉じるのボタンを押した。追って久遠が階数のボタンを押した。
 動き出したエレベーターの中で笑いが弾けた。
 その気、は笑いで吹き飛んでしまったので、結局夕食から。
 寒の戻りで寒い日はあたたかなコーンポタージュを。クリームに塩を効かせて、それから何でも好きなものを。



2011.3.28 シモネーさんのお誕生日