ウィンター・アゲイン







 それは何度か見た夢だった。いくつもの、わずかずつズレた相として二階堂は時折、そして繰り返しその夢を見た。夜の夢ではない。覚めて見る白昼夢だ。捕らぬ狸の何とやらとも言う、夢想だ。
 勝利。
 己が、そしてピッチの外に佇む監督という人間たちの恐らく全てが渇望してやまない勝利の、更にその先。極まりきった一つの頂点。優勝という言葉は彼ら万人に対し甘美で、よぎる幻が乾きをいや増す。
 今、二階堂の目の前、真夜中のテレビに映っているのはまさしく自分の、そして彼の求めた瞬間だった。色とりどりの紙吹雪。止まぬ歓声。選手の涙とそれ以上の笑顔。優勝とはただの言葉ではなくその光景の中に偏在している。彼の、ベンチの前に佇む彼の表情にもだ。
 懐かしいあのコート。肩につもる紙吹雪。その表情の中に二階堂は確かに彼の笑みを見いだすことができる。
 優勝の歓喜はテレビの中だけのことではなかった。壁の薄いアパートの隣の部屋からも声が聞こえてくる。皆が眠らず、イナズマジャパンの優勝を目撃していたのだ。
 二階堂は嘆息し、握りしめたままでぬるくなった缶ビールを一口呷った。
 優勝したのだ。久遠道也の率いるチームが世界一となったのだ。
 なんと喜ばしく、なんと悔しい。
 十年だ。十年という時間をかけてようやく果たされた夢だった。十年前ならばきっとすぐにでも駆けつけて、あの肩を叩いてやれた。おめでとうとあの目を見て直接伝えることができた。
 時が隔て、距離が隔てる。今では彼の電話番号さえ知らない。携帯電話に残っているのは既に意味をなさない九つの数字の羅列。かつて彼と自分を繋いだ番号。大写しになった彼の顔は、こんなにもすぐ側にあるのに、彼の言葉はマイクを通してここまで届くのに、自分の声は彼には届かない。
 二階堂はぬるいビールの缶をブラウン管にこつりとぶつけ、呟いた。
「おめでとう、道也」
 他の部屋では騒ぎも収まりつつあり、今から夜明けまで短い眠りにつく。二階堂もそうしなければならなかった。その為にもう一口アルコールを身体に入れた。
 眠ればきっと彼の夢を見るだろう。夜の夢にも優勝を見る。
 見なければ、それはそれで平和なのだと二階堂は苦笑し、テレビを消す決断をした。

 優勝後はこれでもかと言うほど特番をやっていたテレビも落ち着き、季節に応じた種の賑やかさが街角にも戻ってくる。しかしサッカー熱は衰えていないようで、今年のクリスマスプレゼントとして台頭しているのは家庭用ゲーム機に並んでサッカーボールだそうだ。何もこれは親の懐事情だけではないだろう。事実、二階堂も行き帰りの道でサッカーをする子どもたちを見かける。
 木戸川清修サッカー部も冬休みを直前に少し浮ついた調子で、武方努が檄を飛ばしている。イナズマジャパンの優勝は彼にも大きく影響を与えた。ネオジャパンの一員としてあのチームに戦いを挑んだ努だ、当然だろう。
 当時ネオジャパン入りを黙認した二階堂なので、今回もその様子は黙って見守った。行き過ぎになろうとすれば勝と友が止める。それに他チームメイトもどんどんものを言うようになっていた。最近では試合でも練習でも、そして部活の外でもうまいコミュニケーションが取れている。これはきっと、今後のチームの強みとなるはずだ。
 そうだ、自分も優勝を狙っていいのだと二階堂は不敵に笑う。
 自分の率いるチームが優勝するという一瞬の夢想は二階堂をハイにした。声をかけると、選手たちは笑顔でこちらを振り向く。
 久しぶりに自分もまざってミニゲームをやった。後日に響くのではないかと、遠慮のない武方三兄弟からずばり言われたが、大人をなめるなと言ってやる。
「筋肉痛で明日の練習は休み、みたいな」
「一日おいて明後日の練習が休み、みたいな」
「心配しなくてもイブとクリスマスは休みにしてやる!」
 選手たちは笑いながらゲームに戻る。
 二階堂は俺は体育教師だサッカー部監督だと自分に言い聞かせゲームに挑む。
 筋肉痛が起きるなら、起きた時に心配すればいいだけのことだ。

 終業式の24日、部活は休みだというのに武方を中心に若干名が残ってサッカーをやっていた。自主練というより寧ろサッカーをしたくてしているようだ。必殺技を使わず、ただ楽しむためだけにボールを蹴っている。
 生徒たちを全員帰してから二階堂もグラウンドを後にしたので、時間はすっかり夕方になっていた。時計では夕方。が、空はもう暗い。雲も出ている。鼻先や耳の痺れるような冷たさ。雪でも降るのかもしれない。
 校門を出たところで「二階堂さん」と呼び止められた。
 振り返るその瞬間がどれだけゆっくりに感じられただろう。まさか、と思い、嘘だ、と思い、しかしこの声に聞き間違いはない、と期待する心を抑えられなかった。
 テレビでは何度も見た、その顔。しかし直接目の前にするのは懐かしいコート姿。
 十年ぶり、なのだ。
「久遠、さん」
「ご無沙汰しています」
 表情を和らげ、久遠は言った。
 二階堂は胸の中で声を吐く。ああ、こんな表情をするようになったのか。
「どうしてここに。…お仕事で?」
 尋ねる声が震えてしまわないことが不思議だ。
 久遠は、いえ、と首を振る。
「あなたにお会いしたくて。お邪魔でしたか」
「まさか!」
 二階堂は腕を伸ばすと、久遠の肩をばんばんと叩いた。
「いやあ、久しぶりすぎてびっくりしましたよ。随分待ったんじゃないですか、鼻が真っ赤だ」
「見学させていただきました」
「練習は休みなんですが、あいつらサッカーが好きらしくて」
「二階堂さんもでしょう」
 おっと、と二階堂は感激のあまり緩みかけた涙腺を引き締める。
「それはあなたもだ、久遠監督」
 相手の表情も引き締まる。ただ、彼の場合それが近寄りがたい無表情のようにもなってしまう訳だけれども。そのあたりはちっとも変わっていない。
「遅くなりましたが、優勝祝いに一杯奢らせてくれませんか」
「…ありがとうございます」
 その時の久遠の表情から笑みの気配を酌み取り得るのは、今でも自分の他いないだろう。二階堂は肩を並べ、久遠の背を促した。

 ラーメン屋とおでん屋台をハシゴし、何も言わないうちに二人の足は二階堂の古アパートに向かっている。かつてはコンビニでビールなどを買って飲み直した。しかし今、二人は黙ってただ歩き続ける。交わす言葉さえない。
 不自然な沈黙の中で、もう目の前には錆のきた階段が伸びている。
 二階堂は階段を見上げ、独り言のように言った。
「相変わらずむさ苦しい城だが」
「構いません」
 久遠の答えは簡潔だった。
 明かりの灯った他の部屋からは賑やかな声が聞こえてくる。クリスマス・イブだ。子どもがいる家庭も、隣の学生も、ケーキとシャンメリーとクラッカーの賑やかさ。
 鍵を開け、二階堂は自分から部屋に入る。
 久遠は黙って後に続き自分の背でドアを閉めると、不意にため息をついてもたれかかった。
「二階堂さん」
 暗闇の中で久遠の声が言った。
「十年です」
 手を伸ばすと冷たい頬が触れた。きっと今も真っ赤な鼻。
「おめでとう」
 暗闇の中、久遠を真っ直ぐに見つめ、二階堂は言った。
「優勝、おめでとう」
 キスをした後は崩れ落ちるようなものだった。靴を脱ぐのさえ難儀した。脱ぎ去るのももどかしく畳の上にもつれ、倒れ込む。
 ネクタイをほどき、シャツの隙間から肌に直接キスをする。懐かしさはなかった。哀愁でも懐古でもなく、十年前という時間が直接今に繋がっているのだと二階堂は感じた。
 ベルトを外そうとしたところで、久遠の手の動きが緩くなる。軽い躊躇い。二階堂は笑って久遠の背を抱いた。
「抱いてくれ」
 腕の下で身体が震える。少し闇に慣れ始めた目に久遠の表情が映る。久遠は驚いていた。一番表情の少ないその目が何より驚きを伝えていた。二階堂はその目に笑いかけ、もう一度言った。
「今のお前に抱かれたい」
 隣からは学生連中の騒ぐ声、階下からは子どもの歌うクリスマスソング。
 二階堂は声を殺そうとするが、しかしどうしても漏れ出てしまう。それは笑いだった。
 自分が久遠に抱かれたのは最初の数回だけだったから、久遠は男を相手に慣れていなかったし、二階堂も受け身に慣れていなかった。笑うのはいつも行為の終わった後だった。しかし今は自分の中に久遠の存在を感じながら、こぼれる笑いを止められないのだった。
「痛い…ですか?」
 久遠の声は掠れている。二階堂は首を振り、何だろうな、と久遠の首に腕を回した。
「気持ちいいんだよ、すごく」
 二階堂の手の下で久遠の身体が熱くなる。二階堂さん、と久遠は囁いた。
「なに?」
「ありがとうございます」
「ああ」
 笑って頭を撫でてやると、紳士的なキスがおりてきた。
 わっ、と別の部屋から歓声が響いた。二人もつられるように顔を上げる。
「あ…」
 思わず声が出た。
「雪だ」
 窓の外、街灯に照らされ銀色に光る雪が降っている。
「…歌みたいですね」
 久遠が呟いた。
「え?」
「クリスマス・イブ」
 その瞬間たまらなくなり、二階堂は久遠の身体を強く抱きしめた。ああ、そうだ俺はこんなお前に抱かれたかったんだよ、道也。
 道也、と囁くとキスが降り、それから久遠の低い声が丁寧に自分の名を呼んだ。
「修吾」



2011.3.2