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スローデイズ







 数日前から風が急に冬の匂いを帯びて冷たく吹きつけてくる。二階堂は既に生徒達の帰ってしまったサッカーグラウンドを横切り、風の匂いを胸の奥まで吸い込んだ。
 あたたかいものが食べたい。テレビのCMでは盛んにシチューを推すが、二階堂の舌にはだしの味が広がって、ああおでんが食べたいなという思いが広がった。今は便利なもので、コンビニで熱々のものが買える。
 あの人はまだいるだろうか。
 校門を出てコンビニの明かりに足を向けながら、既に暗くなり始めた空を見上げる。雲がわずかに夕焼けの名残を残しているが、その背後には群青の空が広がり星明りがぽつぽつと落としたように見える。
 部屋はエアコンが夏の終わりに壊れたまま放置されていて、まだコタツも出していないからきっと寒いだろう。
 二階堂は少し多めにおでんを買い、帰路についた。道路を吹き抜ける風に枯葉が舞い、手に握ったコンビニの袋がガサガサと鳴った。
 アパートの錆びた階段を上り、一番奥の部屋のドアノブを握る。冷たい手に、それよりも冷たいノブの感触がひやりとするが、それが鍵に遮られることもなくスムーズに開いたので、むしろ二階堂の胸にはわずかな熱が込み上げた。
「ただいま」
 玄関にはすっかり馴染んでしまった自分以外のもう一足の靴。背後でドアが閉まるとそれも見えなくなる。部屋は暗く、奥に煙草の火がぽつんと点っていた。
「…おかえり」
 ヤニに掠れた声が二階堂を迎えた。
 二階堂は笑いながら、ほら、とコンビニの袋を掲げて見せ靴を脱ぎ、畳の上に上がった。
 紐を引いて電気を点け、ちゃぶ台の上におでんの入った袋を置く。奥の部屋では布団から裸の肩を半分出した久遠道也が眩しそうに目を細めていた。手には煙草。枕元には吸殻が一杯の灰皿と、山の崩れたサッカー雑誌のバックナンバーが散らかっていた。
「すっかり冬になったな」
 二階堂はきわめて明るい声で話しかけた。
「懐かしくなってさ。今日の夕飯はおでん」
 ジャンパーを脱ぐ背中で、久遠が煙草をもみ消したらしい小さな音。布団から出たのか大きく空気が動き、それから衣擦れの音。
 今、彼が服を着てしまう前にしてしまってもいい。そんな考えが頭をかすめた。おでんが冷めてしまおうが、後であたためればいい。電子レンジは壊れずに残っている。
 何より、寒いから。
「…修吾?」
 呼ぶ声に逆らわず、二階堂は奥の部屋に踏み込むと乱暴に襖を閉めた。ぶつかった反動で開いたわずかな隙間から眩しく感じるほどの電気の光が射し自分の肩と、腕の下にいる久遠の表情の端を照らし出した。
 笑わない男に、二階堂は言い訳をしなかった。そして何も言わなくていいようにキスで唇を塞ぎ、性急に自分のベルトを緩めた。

 すっかり冷めたおでんを鍋であたためなおし、ちょっとは雰囲気が出るかと鍋ごと台の中央に置いた。向かいに座る久遠はTシャツの上から直接どてらを羽織り、湯気の立ち上る鍋のおもてを見ている。
 食事中、二人の会話は多くない。久遠は黙々と食べるし、二階堂は中学校の教師でありサッカー監督であるという仕事があるから、寸暇を惜しんでテレビでは対戦の録画映像を流していた。
 桜咲木中がフットボールフロンティア決勝を棄権し久遠がサッカー界を追われたのは勿論知らぬどころの話ではない、つい数ヶ月前のことだったが、二階堂は自分の生活ペースを崩そうとしなかった。そういった気遣いを厭う男だと、二階堂は久遠のことを知っていたからだ。
 しかし久遠はこの先十年はこの世界に復帰することができない。その頃には彼の名前は悪名として残れど、功績は忘れられてしまうだろう。それまで気持ちを折られることなく持ち続けることができるだろうか。情熱を火を保ち続けることが。
 意志の強い男だとも知っている。その久遠なので、映像を見つめる二階堂に話しかけることはなかった。上の空なのは二階堂の方だった。
 ビデオを止め、テレビに切り替える。バラエティの笑い声が画面からわっと溢れ出す。二階堂はチャンネルを変え、天気予報で止めた。寒気は関東上空をすっぽり覆っている。明日も寒いらしい。
 洗物をするのは久遠。二階堂はその間に持ち帰った生徒達の採点をし、すませる頃には風呂が沸いている。
「先にどうぞ」
 しかし久遠は決して二階堂よりも先に風呂に入らなかった。ちゃぶ台の向かい側に胡坐をかき、膝の上でサッカー雑誌を開く。
 お互いにお互いのことをよく知っている。それでも歪には違いなかった。
 久遠が風呂から上がると、髪も乾かさないままセックスをする。一組しかない狭い布団の中で、毛布を余計にかけ風邪を引かないようにして眠る。十一月の夜が更ける。

 雪が降り出し、その日の練習は早く切り上げさせた。いつもは霙程度のもので大して積もりもしないこの地方の雪だが、それが十二月を目の前にしているとは言えグランドを真っ白に染めるのは二階堂自身の人生の中でも珍しいことで、生徒達は練習こそ終わったもののまだグラウンドで騒いでいる。全員帰るのを見届けた後では、結局いつもの練習よりも遅い時間になっていた。
 予報にもなかったことなので、勿論傘もない。雪はジャンパーの肩を重く濡らした。二階堂は溜息をつき、それが白い息になって空に上るのを見た。
 おでん。こんな寒い日は。
 コンビニの袋に二人分のおでんを下げ、足元の悪い中帰路を急ごうとすると車道を挟んで、まさしく思い描いていた顔がある。
「久遠さん」
 他所向きの声で呼べば久遠はこちらに気づき、手に持った傘を軽く上げてみせる。二階堂も手に持ったコンビニの袋を掲げ、車の切れ間をぬって反対側の歩道へ走った。
 久遠は黙って自分のさしているのと別の傘を開き、二階堂に持たせる。助かったよ、と二階堂はいつもの声で言った。
「こんなに降るなんて、珍しいな」
「ああ」
「早く帰って食べよう。寒い」
「…二階堂さん」
 そう呼ばれた瞬間、とうとうその時が来たのだと二階堂には分かった。
 久遠のことは知っているのだ。どんな性格の男なのか。どんな声で感情を表すのか。
 そもそもマンションを持っているこの男が、自分のところのような安普請のアパートにいること自体おかしかったし、二人でいながらサッカーの話を一つもせず、なのにそれぞれサッカーのことを見つめているのもおかしかった。慌しいセックスや、布団の中で吸う煙草も。
 久遠の息からはまだヤニの匂いが抜けていなかったが、しかし襟を立てたコートからは煙の匂いはしなかった。
「じゃあ、これだけ食べていこう。一人じゃ多いんだ」
 人のいない公園に入り、雪を払って冷たいベンチに腰かけた。割り箸を入れてもらって正解だった、と二階堂は笑った。
 食べ終えた空のカップをくずかごに捨て歩き出した頃、腹の中はすっかりぬくもっていたがやはり寒さを隠せなかった。
 駅の前で二人は別れた。
 じゃあ、また、という言葉もなく、久遠はお世話になりました、と他人行儀な言葉で頭を下げ、二階堂はどうってことないさ、と笑って久遠の後姿を見送った。
 アパートに戻る。錆びた階段を上り、一番奥の部屋のドアノブを掴むとガキンと音がしてそれは動かなかった。二階堂は鞄の底からようやく鍵を探し出し部屋に入った。
 真っ暗な部屋。まだ少し煙草の匂いがする。
 紐を引いて電気を点けると、部屋は綺麗に整頓されていた。サッカー雑誌は一ところにナンバー順に積まれている。狭苦しい二間ががらんと広く感じた。
 風呂がためられ、沸かしてあった。
 こんな気遣いはいらなかったよ道也、と二階堂は呟いた。
 ずっとこの部屋にいても何も解決しなかったし進展はしなかった。自分は久遠のことを分かっていたはずだが何かが足りなくて、久遠も冷たい身体に寄り添う熱をどうすることも出来なかった。
 あたたかい日々だった。嘘ではない。歪んだ日々だったけれども。
 今日で十一月も終わる。二階堂はカレンダーを捲り、現れたクリスマスイルミネーションの写真に溜息をついた。それは一人の部屋に静かに落ちた。
 今年の冬は寒いらしい。窓の外の雪も、降り止む気配はない。



2010.11.4