グレイゾーン







 強い風がごうごうと音を立てて流れる。久遠は乱された前髪の隙間から見える景色が彩色をなくしてモノクロームに沈んでいるのを自分に相応しく感じる。そもそも十一月は好きだった。表立って言うほどの程度でもなかったが。
 体育祭、味覚や彩りのイメージに満ちた十月が過ぎ、クリスマスに浮かれる十二月には早い。何もない空白の月。煩わされることなくサッカーに没入することができる。初冬の寒さは容赦なく吹きつけるが、目の前にある充実した喜びを前にはものでもない。
 本来十一月とはそうしたものだった。久遠にとって。
 何煩わされることのない灰色の空。強い風がクロスボールの軌道を変えてしまうだろう。彼らは今日もたゆまずサッカーをしているだろうか。彼の教え子であった子ども達。彼のもとで勝ち上がり、最後の一段を踏むことが出来なかった彼の選手達は。
 桜咲木中を去ってから、その後の動向を積極的に聞こうとしたことはない。久遠にはあの場所を去ることでしか彼らを守ることができなかった。無力感は今でも久遠の肩を重くする。とうとう足が止まった。
 マンションへ帰るのと逆方向のバスに乗った。見慣れた町を抜け、乗客が入れ替わり、見たことのあるジャージ姿の学生達に、あの学校が近いのだと思った。
 無意識だったのだろうか。あの人のいる町。
 予選が始まる頃から会わなくなっていた。しかしアパートの場所は今でも覚えている。久遠はバスを降り、覚えのある道を辿る。
 スーパーの入り口に焼き鳥の屋台が来ていた。久遠はふらりとスーパーに入るとビールを半ダース下げ、その上に焼き鳥を買った。
 都市化の進んだ町なのに昭和の空気を頑なに残すようなアパートだった。錆びた外付けの階段を上ると、冷えた夕方の空気にカン、カンと硬い足音が響く。
 一番奥の部屋の扉には二階堂と書いたネーム用シールが貼られていて、学校で使ったものの余りだろうか、と久遠はそれをまじまじ見つめる。扉の横、流しの上の窓だろう、洗剤やコップの並ぶシルエットの浮かぶそこは暗く沈んでいて主の不在を知らせた。久遠はドアにもたれかかり、彼の帰宅を待つ。
 見上げた先は東の空で、いち早く夜の訪れを染み込ませた色をしている。星もない。夜空の澄んだ色も。ただ灰色の空はどす黒く沈んでゆく。風の音ばかりが勢いもよく鳴り響き、電線が高い笛のような音を立て、眼下に植わった木から一斉に枯葉が落ちる。先に訪れた時は青々と葉を茂らせていた。橡の木だと久遠は思い出す。
 二階堂が帰ってきたのはお互いの顔が離れたままでは判然としない夜の入り口で、階段を上りきったところで彼は一度立ち止まったが、しかしすぐに表情を緩め「久遠さん?」と声をかけたのだ。
 久遠は頭を下げる。目の前で、どうしたんです、という言葉が飲み込まれたのを感じた。二階堂はそうと悟られたのを知ってか知らずか笑みを浮かべ、寒かったでしょう、相変わらずむさくるしい城ではありますがどうぞ、と久遠の背中を押した。
 部屋は散らかっている、というほどでもない。しかし雑然とはしていて、読みかけのサッカー雑誌も朝食で使ったのであろう醤油差しも様々なものがちゃぶ台の上に乗ったままで、奥の部屋の布団は畳まれてはいたものの押入れには仕舞われていない。
「ビールと、焼き鳥」
 短く言い、久遠は差し出した。二階堂はちょうど奥の部屋の襖を閉めて、二人が座るスペースを確保しようとしていたから、驚いて顔を上げ、すみませんと手に取る。
「焼き鳥、まだ少しあたたかい」
 座布団はなかったが、座ることができればそれでよかった。いらないものを部屋の一箇所に寄せてしまったので、二人は並ぶようにしてちゃぶ台の前に座り缶ビールで礼儀程度の乾杯をした。
「美味しそうですね」
 そう二階堂は言う。
 若鶏、ねぎま、レバーと砂ずりを少しずつ。確かにまだ少しあたたかいが、久遠はそれを見ても大して美味しそうだと感じていなかった。二階堂も客人である自分が買ってきた手前そう言っただけかもしれないが、彼の場合その笑顔が言葉に誠実さや人間味を与えるのだった。
「そうだ久遠さん、ポッキー食べます?」
「…何故」
「何故って……食べるかなあと思って」
 二階堂はわずかに戸惑い、鞄からポッキーの箱を取り出す。
「十一月十一日はポッキーの日ってね、ほら」
 探す手を止めて、両手の人差し指を立てる。
「メーカーの戦略にまんまとのせられてる感じだけど、まあたまには甘いものも悪くないかと、ちょうど買ったんですよ」
「…生徒からもらったのではなく?」
「バレンタインじゃないんだから」
 そうでなくても学校は私物の持込禁止、お菓子含む、と二階堂は教師の口調で言った。
「職員室でそういう話も聞きましたけどね。ポッキーゲームの真っ最中に見つけたらしいですよ。子どもも一丁前に思春期ではあるし、可愛らしいものだけど、見つけたのが教頭だったものだから」
 ポッキーゲームとは何だったろうかと考え、続いた言葉に、あああれか、と思い出す。ディズニーの映画にもあった、ダルメシアンの夫婦のスパゲティのような。
 パッケージを開けた二階堂は一本を口に咥え、なかなか近いですよねこの距離、とやはり笑っている。久遠は左手でそれを奪うと、半ば強引に唇を重ねた。
 二階堂はほとんど驚かず、キスの間、じっと久遠を見つめさえした。
「もう私には何もない」
 久遠は小さく呟いた。
「誰もいない」
 二階堂の手が前髪を退かし、隠れた左目をあらわにさせる。久遠は目を細め、囁いた。
「お前だけだ、修吾」
 直後、二人はその場に倒れこんだが、ちゃぶ台の上には中身の残ったビール缶ものっていたし、些かに狭かった。腕を伸ばして襖を開け布団を敷くべきかと視線をやった二階堂の首を掴んで引き寄せる。
 二人は身体半分だけを奥の部屋の影の中に横たえた。足は乱暴に脱いだ服を蹴りやった。
 ちゃぶ台の下にはポッキーがばらばらと落ちていて、二階堂の手の下で潰されたものが砕け、粉々になっていた。


 夜の中で二階堂は煙草に火をつける。手が伸ばされ、自分の目の前でも火が点る。久遠は火を吸いつけ、溜息と共にありがとうと小さく言葉を吐いた。
 二階堂はしばらく黙っていたが、ぽつりと、いつまでもいてくれていい、と言った。
「そう言ってくれるのはお前だけだ」
 ありがとうという言葉よりもはっきりと、久遠は言った。
 二階堂は闇の中で、煙草の小さな火に照らされる久遠の顔を見た。道也、と呼び結局キスだけをした。
 本当に?と尋ねることが二階堂にはできなかった。



2010.11.12