イエローシグナル







(1-a) 携帯電話に手を伸ばし、何度目かの溜息をついてとうとう二階堂はそれを枕の下に敷き、上からどすんと自分の頭を乗せた。
 FFI全国大会も、明日はとうとう桜咲木中との対戦だった。春からこちら、彼の顔は一度も見ていない。今まではラーメンに酒にと誘う二階堂の電話が二人を繋いだが、彼の作り出す用がなければ二人の間には電話もほとんどなかったのだ。
 勿論、サッカーだ。真剣勝負。お互いベストメンバーを用い、知力、選手力、全てにおいて全力を尽くし戦うよりない。それは二階堂がこれ以上なく望んだものだった。
 久遠道也が率いる、彼の最強と考えるメンバーとの対戦。
 キャリアはこちらが上。しかし彼には才能がある。冷徹と透徹をもって現実を射抜く眼。彼の戦略は試合のその中でこそ歯車を噛み合わせ、相手チームに牙を剥く。
 負けるものか。こちらも木戸川清修の名を背負って立ちはだかってやろう。彼以上の歳月をかけ積み重ね育て上げたチームだ。おいそれと華を持たせてやる訳にはいかない。これが真剣勝負だ。
 夏が近づく、外の風は強い。明日の天気はどの気象予報士も保証してくれなかった。空は彼の心と同じく、荒れ模様だ。
 彼はもう一度、枕の下から携帯電話を取り出した。しばらく手の中に握り締め液晶画面を睨みつけたが、結局アラームだけをセットして枕元に投げた。

(1-b) 風呂から上がり、すっかり夜もあたたかくなったのだと知る。タオルを首に引っ掛けたまま机の上を見れば書き損じたフォーメーションと、データとグラフと、夕食の代わりにしたパンの袋が雑然と載っている。久遠は顔をしかめ、空き袋をゴミ箱に捨てた。途端に机の上は久遠の知る、彼の頭の中を体現したような様子となったが、しかし彼はそれでも釈然としないものを感じた。
 去年までなら、こんな時の久遠にはタイミングよく電話がかかってきてラーメン屋台などに呼び出されたものだ。
 ラーメンもしばらく食べていないと思った。
 彼は首のタオルを外し、Tシャツを羽織った。台所の棚には、滅多には食べないが即席麺の買い置きがあった。片手鍋でそれを作り、出来上がったものに青海苔と紅生姜をのせる。
 小さなテーブルの上で熱々のそれを黙って食べながら、テーブルの端に載った携帯電話をちらと見た。それが鳴ることを期待してではなかった。ただ珍しく、彼から電話をしてもいいと思えたのだ。理由もないのに。
 しかし試合は明日だ。対戦相手同士の監督が前夜に電話をするのはどう考えても好ましくない。
 明日、ピッチで。
 久遠は即席麺をつゆまで飲み干した。喉が渇いて寝る前までに二度水を飲んだ。

(2-a) 雲行きは怪しい。ホイッスルが鳴るまでもつかどうか。後半ももう半分以上過ぎたというのにスコアレスのまま動かない。二階堂は選手たちに向けて懸命に声をかける。
 ちらりと横目に見る久遠はベンチの前に直立不動で、腕を組んだままじっとピッチ上を見ている。睨みつけていると言ったほうがいいかもしれない。全く対照的な態度だったが、二階堂には彼の気迫がひしひしと感じられた。
 この試合を、全ての歯車の噛み合った彼のチームの意のままにさせないのは自分の作戦と自分の選手たちだ。二階堂は一層の笑顔を浮かべ、選手に声をかける。喉の痛みさえ心地よい。
 そしてとうとう頬に雨の最初の一滴が触れた。

(2-b) 延長戦のピッチは雨ですっかり荒れていた。久遠は目に入る雨の滴も拭わずじっと試合展開を見つめていた。
 お互い交代のカードは使い切った。延長ももう終わろうかという時間、合計九十分を戦った選手たちに全てを託すしかない。
 しかし彼の目には見えていた。長時間の、そして悪天候との戦いに名門木戸川清修が見せたわずかな隙を。そして彼の選手たちにもそれが見えていることを信じて、久遠はぐっと顎を引き、沈黙を貫きとおした。今、ピッチの上でずぶ濡れになっている十一人の彼の選手が、一体どのようにして彼の指導に追いつき、彼の期待に応え、そして彼の予想していた以上の力を発揮してきたかを、久遠にはその一人一人に見ることができたのだ。
 今、全ては形になろうとしていた。崩れた芝の上で木戸川のDFの足が滑る。
 次の瞬間、久遠は選手の名を叫んでいた。

(2-c) 久しぶりに、いや初めて聞くような声だった。二階堂はその瞬間、思わずゴールではなく声の主に目を遣っていた。久遠が選手の名前を叫んでいた。
 慌てて視線を戻した時、ゴールキーパーは濡れた芝の上に倒れ、ボールはネットを揺らしていた。
 残り時間はわずか。
 選手たちは。
 下を向く選手をすぐ側の選手が駆けつけ、肩を叩いて顔を上げさせていた。そうだ、まだ終わった訳ではない。
 二階堂は桜咲木側の歓声に負けぬよう声を出す。
「まず追いつくぞ、それから逆転だ!」
 横顔に視線を感じた。久遠が見ているのだと思った。
 真剣勝負だよ、道也。FFI全国トーナメント、俺とお前が心から望んだ再会の場だ。
 それから試合終了のホイッスルが鳴るまで、久遠の視線はこちらを向かなかった。彼は最後までたゆまず慢心せず試合を睨みつけ続けた。

(3) 1対0、桜咲木中決勝進出。

(4) 試合後の握手で、二人はようやくお互いを目の前にした。二階堂の目尻には疲れたような皺、久遠の目の下には隈が浮いていた。
 固い握手を、二人は交わした。二階堂は「おめでとう」という一言と共に笑みをその顔に浮かべた。その素直な祝いの言葉に久遠がハッとし、そして表情がわずかに緩んだ。
「二階堂さん」
 そう名を呼ばれた瞬間、二階堂は久遠の身体を抱き、ばしばしと痛いほどの力で相手の背中を叩いた。
「今日と言う日を」
 二階堂は自分から意志をもって身体を離し、正面から久遠の目を見つめた。
「この試合を心から待ち望んでいた」
「…私もです」
 久遠はもう一度、二階堂の手を強く握った。
 彼らの背には、それぞれの選手が待っていた。しかし二人は今しばらく手を握ったまま話さなかった。話すべき言葉はなかった。それら全てはピッチの上で交わされたものだった。
「優勝してくれ」
 低く低く満身の思いを込めて二階堂は言った。久遠はしっかりと頷いた。
 手を離す時だった。二人の手は離れ、それぞれの選手たちへ向き直った。
 この時、二人には警告のシグナルが見えていなかった。決勝の相手はどこか。その監督は誰なのかということを、彼らは考えもしなかったのだ。何故なら今そこにあったのは試合を戦い抜いた心地よさと勝利の余韻と、敗北の悔しさ、それに雨の止んだ後に吹く風の爽やかさしかなかったからだ。
 つまり幸福と名のつくものしか、二人の間にはなかったのだ、この時まで。

(5) 桜咲木中のFFI決勝棄権のニュース、監督である久遠道也のサッカー界追放の報せを二階堂はテレビで知った。彼はすぐさま携帯電話を取り出し、久遠にコールした。
 しかし決して久遠に繋がることはなかった。呼び出し音だけが耳の奥に響いた。折りしも豪雨の夜のことだった。二階堂は冷たい雨の叩きつける窓に手をあて、一度だけそれを殴りつけた。
 呼び出し音が鳴り続けるだけの携帯電話を、二階堂は切ることができなかった。



2011.2.9