カウントダウン・オン・フライデー







 金曜の夜だが、と連絡を取ると案外簡単に承諾された。
 では駅で、その後はいつものラーメン屋で、と電話を切る。にんまりと満面に広がる笑顔を堪えずに軋む椅子の背もたれにもたれかかって背伸びすると、二階堂先生は本当にお元気ですよね、と隣のクラスの担任が帰り支度をしながら話しかける。彼女はふっくらした体格の上から更にふかふかのダウンジャケットを羽織り、手編みというカラフルなマフラーを巻いている。対して二階堂は――職員室内は暖房が利いているとは言え――半袖のTシャツにジャージのズボン、と夏と変わらない格好だ。
「寒くないんですか?」
「いや、あったかいくらいですよ」
 実際に受話器をあてていた耳から指先から熱のない場所はない。着膨れした彼女は大きな目を更に大きく見開きながら、信じられない真夏の格好で!と言う。
「私はほら、体育教師ですから」
「生徒に示しがつかないとおっしゃるんですか? 私が授業でメタボの話をしても説得力ないですしねえ」
「いや、先生なら逆に説得力があると言うか」
「もう!」
 彼女は手にしたバッグで軽く二階堂の頭を叩いた。
「二階堂先生はもうちょっとデリカシーを持つべきですよ!」
「いや、先生と私の仲だから言えるのであって…」
「また誤解を招くようなことを…!」
 またバシバシと叩かれたが、今度は彼女は笑顔だった。
「ともあれ、風邪にはご注意なさいませ。明日は雪ですって。折角の休みだって言うのに…」
「へえ…」
 二階堂は窓を振り向く。
「雪ですか」
 外は薄く雲が広がっており、夕日をその向こうに閉ざしている。先日、立春を過ぎたが春の気配はまだ遠い。しかし春になれば久遠は県外の、桜咲木中に行ってしまうのだ。こうやって電話一本ですぐに会えるのも、もう一ヶ月ほどのこと。
 二階堂もそそくさと机の上を片付け、ジャージの上とブルゾンを羽織る。別の席から、流石に半袖じゃ帰りませんよねえ、と笑いながら声をかけられた。

 久遠は既に駅の広告塔の下に佇んでいる。スーツの上から薄っぺらいコート。公立校の教師は薄給だ。今日も特別な関係になった二人での食事というのに向かう先はラーメン屋でしかない。しかし久遠はその手腕を見込まれ、古豪と呼ばれる中学に行くことになったのだから…。
 しかし手当てが変わろうが久遠のスタイルは変わらないのだろう。と言うより頓着しないに違いない。彼の頭も、自分と同じくサッカーのことしかない。
 いや、と二階堂は考える。多分、俺の方が彼を好きだ。
 取り敢えずまだ遠い駅の人影というより点のようにしか見えないそれが久遠の姿なのだと分かり、そこに至るまでダッシュをするくらいには自分の思いが勝っている。別に勝ち負けの話ではないが、と息を切らしながら二階堂は考えた。
 久遠は走る二階堂の姿に気づくと、軽く右手を上げた。自分から駆け寄ることはしない。たださっきまでのスタイルを変えず、佇み待っている。
 二階堂はすっかり息切れして、広告塔に手を突きぜいぜいと荒い息をついた。
「大丈夫ですか?」
 低く穏やかな声がかけられる。
 おや、と気づく。電話の時とは声が違うぞ。まるで優しい。
「ははっ、これくらいの距離楽勝だと思ったんですけどね」
「随分遠くから走っていましたよ」
「あなたの姿が、見えたもんだから」
 二階堂が笑うと、久遠もそれを見て少し笑みを浮かべる。
 ラーメン屋は狭い上に客が犇めいていて、二人はそれなりにでかい図体をようやくカウンターの端に押し込めた。
 二人でこのラーメンを食べるのも後何回。久遠は向こうでラーメンの味を懐かしく思い出すのだろうかと思うと何ともセンチメンタルな気分で、久遠が手帳を取り出し月末の練習試合ですけど、と話し出したところで、そうだ!と声を上げてみる。
「え…?」
 久遠は、何です、と二階堂の顔を見つめる。二階堂は笑顔をちょっと久遠に近づける。
「チョコレートください。チョコレート」
 手帳の二月十四日を指差す。久遠の手帳は全く実務的なものでその日はただの日曜でありバレンタインデーの印はなかった。
 二階堂は相手がどんな反応を示すか楽しみにしながら待った。チョコがもらえなければ、これを契機に今夜の上下をとうとう逆転させてもいい訳だ。
 しかし久遠は二階堂の突然の大声には驚いたものの、続く言葉にはまごつく様子もなく、足元から鞄を持ち上げて中を探った。
「これ」
 カウンターの上に置かれたのは黒い包装紙にブルーのリボンでラッピングされたそれだ。
「コンビニで買ったものですが」
「ああ…」
 うろたえたのは二階堂の方だった。
「ええ…、ありがとうございます」
「言ってくださってよかった。どう渡したものかと思っていたもので」
「ええと、久遠さん、俺の方は用意してなかったんだが…」
「え?」
 久遠の声は意外そうに響いた。それから彼は顎を撫で、少し顔をしかめる。
「気を悪くしたなら…」
「いえ、違います」
 そこはきっぱりと返事したものの、久遠はその先を言いあぐねているらしく、その…、と声をひそめた。
「チョコレートは、女性側から渡すものでしょう……」
 二階堂が返事をしなかったため、二人して黙り込むことになった。
 結局二階堂はどんぶりに残ったラーメンのつゆを一気に飲み干した。久遠は手帳を内ポケットに仕舞い会計の準備をした。
 二人はそそくさと店を出た。

 明日は雪という予報を裏付けるように吹きつける風は冷たい。時々強く吹きつけ、古いアパートの二階では窓ガラスが音を立てて揺れた。
「今…」
 久遠が天井を見上げて言った。
「電気も揺れましたね」
「…そう?」
「吹雪でも来るかのようだ」
「ならうちに泊っていけばいい」
 それを聞くと久遠はくすりと笑って自分に覆い被さる二階堂の頬に手を当てた。
「最初からそのつもりだったのですが」
「…不安なんだよ、俺は」
 二階堂は自分の影になった久遠の顔を見つめ、溜息をついた。
「今更、お前と離れるのが耐えられない」
 布団も敷かず、玄関から縺れ合って倒れこみ畳の上で服もろくに脱がないままの一戦の後にしては気弱すぎる言葉だった。
 二階堂は久遠の中から退くと、畳の上に胡坐をかき溜息をついた。久遠は初めてのことに身体がだるいのか横たわったままだ。二階堂は蹴飛ばしたエアコンのリモコンに手を伸ばし、暖房を入れた。室外機が五月蠅い音を立てて回り始めた。
 脱いだ服を探ったが見つからず、煙草は結局灰皿の上の吸いさしを手に取ることになる。短いそれに火を点け深く吸うと、やけに鼻の奥に染みた。
 久遠はのろのろと起き出し、二階堂の口からそれを取り上げた。一口吸うが顔をしかめる。これで彼は今宵人生の初体験を二度味わったらしい。二階堂は少し笑った。
 しかし久遠は笑わなかった。煙草をくわえたまま両手を伸ばし、二階堂からTシャツと、太腿までずり落ちたジャージを脱がせる。
「ああ…」
 久遠は右目を細めた。
「失敗しました」
「…何が」
「全裸で布団を敷くのは間抜けでしょうね」
 二階堂はその時、本当に自分の表情がほどけるのを感じた。彼は久遠の口から煙草を取り上げると灰皿の上で揉み潰し、ちょっと乱暴なキスをした。
 それから襖で仕切られた寝間に布団を敷いた。久遠はそれを見ていた。
「間抜けでした?」
「いいえ」
 明かりを落とす。
 冷たい部屋の中では働きが追いつかぬとばかりにエアコンがごうごうと音を立てる。外は寒風が雪を呼ぶ嵐。
 すぐにぬくもった布団の中で、その日初めて久遠が声を上げて笑った。



2011.2.3