ラストクリスマス
中華街には暖色の明かりがいっぱいに灯っていたが見た目のあたたかさを裏切るように空気は身を切るように冷たく、思わず吐いた息は真っ白に染まり電飾の看板きらめく空へ上る。ああ、と背後からも息を吐く声がした。 「降り出しましたね」 寒さのせいかその声は低く囁き、わずかに掠れて聞こえた。 「久遠さん、傘は?」 二階堂は振り返り尋ねたが、後ろに立つ男は黙って手をポケットに突っ込んだ。二階堂は笑顔を浮かべ、自分もジャンパーのポケットに手を突っ込んで歩き出した。 電飾の空にちらつく影はまだ雪になりきらないみぞれで、ジャンパーの肩を重たく叩く。隣を歩く久遠の上着は音を立てず静かにそれを受け止め、重く濡れた。 「まるで歌の通りになりそうだ」 二階堂が言ってもピンとこなかったらしく久遠は黙っている。 「クリスマスイブ」 「…昨日では?」 「山下達郎」 「ああ……」 ようやく得心した久遠が口の中で歌いだしを小さく呟く。 「そうですね。日付の変わる頃には雪になるでしょう」 まるで愛想のない気象予報士のような言い方。しかし二階堂は久遠の性格をしっていたしアルコールも入っていたから、そんな一言も面白くて、ポケットから手を出して久遠の背中をばんばん叩いた。 クリスマスは中華街の店先にも訪れていて赤を基調にした飾りつけの中に、造花のもみの緑が鮮やかだ。これも明日になれば取り払われて正月一色になるに違いない。 「世のカップルに幸いあれ。こんなみぞれ降る夜はとっととドアの鍵を締め切って、店の席は我々オッサンに譲るべきだ」 店はひどく混んでいた。席に着くのに三十分も待った。今日は二階堂の奢りと張り切って来たのに。 近隣の公立校に勤める久遠から連絡があったのは終業式の日だった。用件は電話口で淡々と話された。久遠はサッカー監督としての腕を買われ、関東でも有数の古豪である桜咲木中から招じられたと言う。来年度からそちらに移ることに正式に決まったので報告を、と彼はいつもの静かな低い語り口で話した。 同県内のサッカー監督として二階堂は、久遠の年若いながらも徹底した選手育成力を知っていたし頷ける話だった。そこで「お祝いをしましょう」と。久遠は一度遠慮したが、県内でも近い地域で情熱を燃やしたサッカー監督同士、交流がない訳ではない、と言うより若干の年の差はあれど半ば友人のような付き合いをしていたので、結局二階堂の申し出を受けたのだった。 そんな理由で、待たされたのには些か興を殺いだがクリスマスのことであるし、それに腹もくちくなれば人の心は寛大になるものだ。二階堂はすっかり上機嫌だった。久遠も満足そうな顔をしている。 「まだ入るかな? 久遠さん」 「どうでしょう」 行き着けのラーメン屋台に向かったが、生憎オッサンで席はいっぱいである。目上のオッサン方なので二階堂たちは敬意を表し、そこを後にする。 駅に向かう道に出る前に二階堂は先手を打つ。 「じゃあ、ウチで飲み直そうか」 「…いいんですか?」 「妻子がいる訳じゃなし、誰迷惑という心配はご無用」 ビールとつまみくらいはあります、と二階堂は笑い久遠の背に手を当てる。 「ではお言葉に甘えて」 「その調子その調子」 二階堂はまたばんばんと久遠の背中を叩いた。 繁華街を出ると街灯の明かりに、白い影はふわふわと舞う。まだ日付が変わるまで間があるがとうとう雪になったらしい。聖なる夜には相応しく、そして男二人で歩く道には不親切だ。所々で凍り始めた水溜りをうっかり踏んでは泥が跳ね上がる。 しかしアパートの灯はあたたかく二人を迎えた。どの部屋も電気が灯り、子どもの歌う声や、学生が友人を集めているのか時々大きな笑い声が起きる。いつもなら顰蹙ものだが、昨日今宵はどの部屋も似たようなものだ。文句を言う者はいなかった。勿論、二階堂も久遠も。 家族向けのクリスマス映画をテレビから垂れ流しながら、そちらにはちっとも目を向けず二人はビールを呷っては時々イカやピーナッツに手を伸ばし店の続きのままに久遠の異動の話、サッカーの話を続ける。 「でも正直な話、寂しくなるよ。好敵手がいなくなるってのは」 「それは…ありがとうございます」 久遠は頭を下げる。 「練習試合に地区予選、しょっちゅう顔を合わせてたから」 「今度からは全国に駒を進めないと対戦できません。木戸川は名門ですから」 「桜咲木も古豪と名高い」 二階堂は笑みをこぼし、久遠のグラスにビールを注いだ。 「そう、次に会う時は全国。いっそ好敵手との再会としては申し分ない」 改めて乾杯。グラスの中身を一気に飲み干すと、久遠も珍しく笑った。滅多にこんな顔はしない。強豪校である桜咲木中から招じられたという誇らしさ、未来への夢を心の内のみに押し留めることはできないようだった。 これまでの付き合いから久遠が意外とアルコールに強くないことは知っていたが、それでも久遠は自分からグラスをどんどん空けた。すっかり顔が赤い。 「大丈夫ですか」 見かねて尋ねたが、久遠は笑って頷くばかりだ。しかし目はもう瞑ってしまっている。二階堂は座布団を折ったものを枕に久遠を横にならせた。もうほとんど眠っていたのだろう。すぐに寝息が聞こえた。 一人ビールをすすり、二階堂はしばらく宙に視線を漂わせた。ふと気づいてテレビを消す。一瞬静かになり、じんわりと隣の部屋の喋り声が聞こえるようになった。視線を落とす。久遠の寝顔は穏やかで、よく見かける眉間の皺も消えている。二階堂はもう一口呷ろうとして手を止めた。彼は音を立てないようにグラスを戻した。 黙って、息さえ詰めて手を伸ばす。久遠の首からネクタイを抜くと、一拍置いて深い息が口の端から漏れた。同調するように二階堂も抑えた溜息をついた。 例えば、と手の中のネクタイを弄ぶ。 これで久遠の自由を奪ってやりたいことをやってしまった場合。本懐は遂げられるだろうが、今後の関係にヒビが入るのは火を見るより明らかだ。ライバルとして全国で会いましょうとか、実に祝いの席らしい綺麗なことを言っておきながら何というブチ壊し。 「縛ったら、駄目だな縛ったら」 二階堂は一人頷き、久遠のネクタイを自分の首にかけた。前で交差させ軽く絞める。そうそう欲望に首輪をつけてしっかり繋いでおかなければ。自分は子どもたちの模範たるべき教師であり、選手を導くべき監督であり、監督としてよき先輩また友人でもあるのだから。二階堂修吾とはそういう男なのだから。 ネクタイを離すと、それはするりと首から滑り落ちた。拾い上げてキスをする。中学生じゃあるまいし、と自分に呆れながらちゃぶ台の上にネクタイを置く。残ったビールを呷ろうと思いグラスを掴んだものの、また視線は宙を漂った。結局、二階堂はグラスをちゃぶ台の上で押し返すような仕草をした。 久遠の顔を覗き込むと自分の影が落ちる。 「中学生じゃあるまいし」 シャツのボタンを一つずつ外す。肌蹴た胸元が穏やかに上下するのをしばらくじっと見つめていたが、とうとう諦めてその上に身体を伏せた。久遠がうめく。 「…う……」 「起きた?」 「二階堂…さん…?」 顔をずらし久遠の顔を見上げると、酔いでとろんとしていた目がめいいっぱい見開かれている。 「いやね」 二階堂は少し苦く笑い手を伸ばして久遠の顔をなぞった。 「こうやってあなたと飲むのも最後かと思って」 「最後…じゃあないでしょう」 戸惑うような久遠の声を指で塞ぎ、しいっ、と囁く。そして自分は目を瞑って久遠の心臓の音を聞いた。わずかに早い。アルコールのせいともとれる。 二階堂は起き上がり自分のシャツを脱いだ。久遠はやはり、二階堂さん、と名前を呼ぶだけだった。 「本当は久遠さんが酔っているうちにやっちゃおうかとか、不埒なことを考えてたんだけど」 「酔ってますよ、今でも」 「そうなら好都合なんだが」 それを聞いた久遠がボタンの半分外されたシャツを一気に脱ぎ、ベルトに手をかける。そこで気づいたように二階堂の目を見た。 「あの…いいんですか?」 「俺は望むところ…」 言いかけたところで性急に押し倒される。乱暴なキスに応えながら、二階堂は計算違いに気づく。違う、違うこんなつもりではなかった。 「あの…っ」 久遠のキスは噛みつくようで、こんな一面を持っていたのかと感心しながら、結構喜ばしく感じながらも焦りはつのる。 ようやく引き剥がし、俺が下に?と尋ねると、いけませんか、と静かな低い声と真摯な目が見下ろすので可能性を検討し黙り込んでしまった。久遠のキスは次は優しく触れて離れた。 「……まあ、いいか」 「ありがとうございます」 「真面目な人だ」 電気を消そうか、それとも隣の部屋に行って布団を敷こうか。しかし久遠はもう首筋へのキスを再開していた。二階堂は、彼は男相手の経験があるのかなと自分もまあまあアルコールの回った頭で考えた。 実際には痛みから漏らしそうになる声を必死で抑え――隣の部屋からはまだ賑やかな声が聞こえていた――、初めてだったらしい久遠の身体をなだめながら何とか最後まで辿り着いた。蛍光灯が照らし出すのはどう見てもごつい身体つきの男二人で、汗と荒い息とぎゅっと閉じられた目はセックスの後の余韻というよりスポーツの後のそれに酷似していた。それでも初めて見る姿だった。二階堂は久遠の裸の背中をばしばし叩いた。 「…ああ」 久遠が気づいて退こうとするので、違うよ、違うんだ、と二階堂は笑いその背中を抱き締めた。 「また来るといい。いつでも」 「いつでも…」 鸚鵡返しをする久遠の言葉に重ねて、いつでも、と繰り返す。 「その時は逆で」 「逆、ですか」 その久遠の声が残念そうなので、二階堂は今度こそ声を殺さず笑った。
2010.12.26
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