コップ一杯の不幸とクッキー一枚分の慰め







 明るい夕陽がワルシャワの街を照らす。背の高いホテルの部屋から眼下に望む旧市街はオレンジ色の屋根、煉瓦の壁に夕陽が映え、輝くように見えた。
 十月も末となれば夕方は寒く、部屋は暖房でゆるく暖められている。上着を脱いだ神童はぶるっと震え、寒さが抜けて暖房のぬくもりが身体にじんわりと馴染むのをじっと待った。
 淡く明るい部屋。腕の時計は五時過ぎ。神童は文字盤の上を指先で撫で時差を加算する。向こうはもう深夜近い。しまった、と慌てて電話に飛びついた。その後、携帯電話の番号はともかく、彼の家の番号は知らなかったのだ、と荷物の中からメモを探す。探す時に限って見つからないのは探し物の常で、結局それは上着のポケットから見つかった。お守り代わりに入れていたのを失念していたのだ。ベッドの上に荷物を引っ繰り返し、十分は経っていた。
 再び電話の前に立った神童は深呼吸を一つ、受話器を取り上げる。国際電話の番号、国番号、と落ち着いて番号をプッシュする。最後の数字を押し終えて、もう後戻りはできないのだ、と耳を澄ませた。
 電話に出たのは勿論家族で、神童が丁寧に名乗るとサッカー部キャプテンでもある自分を分かってもらえ、電話よ!と呼ぶ声が切れて保留音に替わった。ショパンだ。ノクターン第二番。それはまた唐突に途切れる。
『よう』
 いつもと変わらぬ調子の倉間の声が受話器から響いた。神童は自然と頬が緩むのを感じながらいつものように応えた。
「…やあ」
『なんだよ、こんな夜中に』
「悪い。時間が遅いのは分かってたんだが…寝ていたか?」
『寝るとこだった』
 ごめん、と謝ると、いーよ別に、それより用件言えよ、とせっつかれる。
「用、と言うほどのものでもないんだ。報告と言うか…」
 神童は窓の外の夕景に目を遣る。
「今、こっちは日本の昨日の夕方なんだ」
『…日本語喋れ』
「ワルシャワ。ポーランドは時差が八時間くらいあって…」
『ワルシャワ? ポーランド? どっちだよ』
「ポーランドのワルシャワ」
『………知ってたし』
「うん」
『コンクールだろ。分かってる』
「うん」
 ショパンコンクールの最終日、だった。世界的に権威ある国際ピアノコンクールに、神童は単身渡欧して参加したのだ。ショパン生誕の地で行われる、ピアニストを目指す者にとって最高の登竜門。
 窓に正面を向ける。黄金色の秋の光が身体を包み込み、それを拍手のように感じた。神童は指先に余韻のような痺れが蘇るのを感じた。
「入賞、したよ」
 穏やかに告げる。
『優勝!?』
 距離の分だけわずかな間を置いて倉間の驚く声が響く。
「ああ、違うんだ。入賞」
『ゆ?』
「にゅ・う・しょ・う」
『あー、入賞』
 通じたらしい。
『スゲーじゃん』
 倉間の声はいつもの調子に戻り、軽く『おめでと』と言われた。
「…ありがとう」
『どうしたんだよ』
「え?」
『優勝できなかったからって泣いてんのか?』
「え……」
 まさか、という言葉を神童は飲み込んだ。おめでとうを言う倉間の声が届いた瞬間から、目頭が熱くなったからだ。
「泣いてない」
 と、囁くように言い返した。
『そうか? オレはてっきり…』
 倉間は悪いと思ったのか口ごもる。
 神童はたった今まで悔しさを感じていなかった。ここへ来たのは自分の中にあるものをはっきりさせるためだった。ピアニストとサッカー選手のどちらも欲張ることはできない。ならばここでピアニストとしての自分を見極めたかった。そして自分は実力を出し切ったし、それに見合った、いや想像以上の評価をもらったと思っていた。
 しかし倉間がそう言った瞬間から悔しさは神童の中に芽生えた。
「本当に…」
 言いかけながらも瞼の縁からは涙がこぼれ出る。
 悪い、と囁き神童は涙を拭った。
『いや…あのさ』
 受話器の向こうから倉間の声。
『なんて言うか、オレ、別にお前のことからかおうとかいうんじゃなかったんだからな。凄いと思ってるよ。それにお前…すぐ泣くけど我慢するから、こういう時泣いたって…ほら…罰は当たらないって言うか…』
 悪い、と再び呟き、神童は息を吐いた。
「大丈夫だ。泣くことはないと思っていたんだが、声を聞いたら、少し、気が緩んだ」
 神童が入賞は嬉しかったこと、こちらは夕方なのだということを改めて言うと、倉間はうん、うん、と多分うなずきながら聞いてくれた。
「順番が最後の方で、とても緊張した。自分のいない決勝戦のフィールドを病院のテレビで見た時よりも」
『試合に出ない方が緊張するのかよ』
「オレだってあの時、皆と一緒に走りたかったさ。緊張も、仲間と一緒に身体を動かしていればいいテンションに繋げられる。でも病院にいた時も、今回も、オレは一人だったから…」
『寂しかったのかぁ?』
 今度はからかうつもりなのだろう、倉間が語尾を上げる。
「ああ……」
 神童の口からは嘆息が漏れた。
 舞台袖から見た光景。スポットライトに照らされたステージ、艶やかに光るピアノと、客席の暗がりからじっと見つめる人、人、人の影。
「うん」
 倉間のからかいを素直に肯定すると、今度はからかった本人がちょっと意表を突かれたようだった。
 砂時計の砂の落ちる音を耳元で聞くような、さらさらと流れる沈黙。
「オレは…やったよ」
 神童は慎重に選んだ言葉を静かに紡いだ。
「曲は『革命』を選んだんだ。練習でも何度も弾いた。練習通りにやればいいと思った。でも舞台に立ってピアノの前に座った時、オレの目には楽譜じゃない、皆の顔が映ったんだ。一緒にやってきたお前たちの顔、先輩達の顔、天馬たち一年の顔、音無先生、円堂監督、鬼道コーチ、久遠監督……。皆の顔が浮かんできて、いつの間にかオレの手は動いていた。皆に聞かせる気持ちで弾いていた。特に倉間、お前はどう思うだろうって。最初は革命なんて反対した。あの時の正義感に従って勝手なことをする天馬に義憤をぶつけた。そのお前がいつしか革命の理解者になって、それを成し遂げるために身体を張って仲間を守ったんだ。そんなお前はどんなふうに聞いてくれるんだろうと…聞いてほしいと強く思って、オレは…弾ききったんだ。最後まで全身全霊を懸けて、弾いた」
 倉間はじっと自分の言葉を聞いている。砂のような沈黙の向こうに、かすかに息の音が聞こえる。そのかすかな息に向かって、神童は話しかける。
「凄い拍手をもらった。きっと今までで一番の。お前たちがピッチの真ん中で優勝の拍手を聞いた時みたいに、世界中が拍手でできているみたいだった。だけど…オレは急に気づいたんだ。客席のどこにも皆がいないって。弾いている間中、すぐそばにいたような皆の気配が消えて、オレは一人で拍手を受けていて…。本当は客席に皆にいてほしかった。皆に実際に聞いていてほしかった。舞台袖に戻ったら、オレは倒れそうになっていた。係の人が助けてくれて、オレを椅子に座らせてくれた。それからコップ一杯の水をくれた。ああ、オレは…」
 神童は思い出す。
「オレは泣いた。泣いたんだ、倉間」
『それ、寂しいんじゃなくてさ』
 倉間の声もゆっくりとテンポを落として神童に話しかける。
『感動して泣いたんだろ』
「そうかもしれない。今、急に寂しくなったのかもしれない」
『オレと電話してるのに寂しいのかよ』
「目の前にいないのは寂しい」
『声は聞こえるのに』
「それは…」
 神童は一つ呼吸を置き、相応しい言葉を選び出す。
「…嬉しい」
『緊張が解けて疲れたんじゃねえの? 甘い物食べて休めよ』
「甘い物?」
『お前がいつもオレに食わせるみたいな』
「お菓子…?」
『リラックスするって言うか…色々考えるのめんどくなるから。オレ、寂しいのは、どうもしてやれねえもん。今すぐポーランドとか行けないし』
「いや、ありがとう、倉間」
『何が』
 神童は夕陽の沈むワルシャワの街を目を細めて眺める。窓から射す光は暖房に暖められ、優しく身体を包んでいた。神童は指先で涙を拭い、微笑んだ。
「何かお菓子を食べるよ。本当はお前が食べてるのを見る方が好きだけど」
『オレはお前と違ってサッカー一筋だっつうの。太らせるな』
「はは、悪い」
 砂のような遠いノイズの中で、かつ、と硬質な音が落ちた。
『神童』
 倉間が呼ぶ。
『お前が食う最初の一口、今、オレが食ったから』
「あ…」
 倉間には見えないが神童は赤面し、赤面した自分に一人で照れた。うん、と小さな返事を返した。
「お土産買って帰る。楽しみにしててくれ」
『外国のお菓子ってあんまり美味くないだろ。チョコはなし、な』
 チョコレート以外のお土産を約束して電話を切る。とは言えなかなか名残惜しくて、起きてくれててありがとう、電話に出てくれてありがとう、話を聞いてくれてありがとう、と何度もありがとうを繰り返すと仕舞いにしつこいと笑いながら怒られた。
「じゃあ、もうすぐ帰る」
『ああ、待ってる』
 受話器を置くと、静けさは急に冷えたものになった。今まで耳元にさらさらと囁きかけるようだった沈黙が遠く日本へ遠ざかる。
「甘い物…」
 神童は呟くともう一度受話器を持ち上げ、ルームサービスでお菓子を頼む。
 空はゆるゆると紫色に染まり、街の金色の灯は人工の、道路に溢れ、建物の窓から漏れるものに変わる。神童は窓辺に腰掛け、紅茶と一緒に運ばれてきたクッキーを一つ摘み上げた。
 最初の一口は…。
 クッキーの手前で、こつ、と歯を鳴らした。
「倉間の分」
 それから口の中に入れる。
 甘さが溶けるように舌から全身に染み渡った。神童はゆっくりと椅子にもたれかかると、夕闇の降るワルシャワを、街灯に照らされた電線を見た。あれが繋がって繋がって日本に届いた。日本から倉間の声を届けてくれた。
 家に電話をしなければ、ということをやっと思い出したが、神童は微笑みを蘇らせ、後で、と彼にしてはルーズな態度を取った。今はこの甘いクッキーを。遠くの倉間が、かつ、と歯を鳴らして食べたこのクッキーを食べる。お土産はこれにしよう。そして日本に帰ったら倉間に食べさせるだけじゃなくて、自分も一緒に食べよう。
「ああ」
 神童は溜息をつく。気分が良い。



2012.4.7