No.9 can dream our love







 走り込みに出る、と声をかけると、私も行く、と久遠が返事をし、五分待たされた。
「珍しいじゃねーの」
「私もたまには走っている」
「現役プロについて来られますかぁ?」
 ニヤニヤ笑いながら尋ねると、真面目で挑戦的な視線が返される。不動もニヤリと笑った。オレはこの男のこんな所が好きだ、とその目に思う。
 キッチンからは冬花が声だけで、いってらっしゃい、と見送った。声が見送るというのも変な話だけれども。通りに出て四階の部屋を見上げると、キッチンの小さな窓から手を振るのが見える。不動はそれに手を振って返し、久遠も大きく手を挙げた。
 クリスマスのせいでどこもかしこも大層な賑わいだ。不動も久遠親子もクリスチャンではないから日本人的感覚のクリスマスしかないが、広場のツリー、ショーウィンドーに見かける赤と緑の飾り付けには少し心が躍る。
「あいつ、何作ってんの」
 不動は尋ねる。冬花は昨日からキッチンに入れてくれない。久遠がビール一本取るのも勝手にはできない。
「七面鳥…だろうな」
「本格的すぎね?」
 別段ペースを落としているわけでもないが、久遠は遅れずついてくる。勿論、不動は久遠の体つきをよく知っているから、そうそうバテはしないとは思っていたが。
 ハイド・パークを一周した。今夜はコンサートが行われるらしい。ロックバンドのファンが既に集まっているのを横目に二人は黙々とストイックに走り続ける。流石に帰り道は久遠のペースに合わせた。
「逆に疲れるだろう」
 久遠は言ったが、
「無理すんなよ」
 そこで笑ってやるのも、不動には楽しかった。
 フラットの玄関を開けると、キッチンの音楽がここまで聞こえてくる。ロックアレンジをされているようだが、聞き覚えのある旋律だ。
「何だ、これ」
 不動は記憶を刺激するその旋律を鼻歌でなぞる。
「第九……だな」
「何その間」
 キッチンを覗くと、冬花が歌いながらオーブンの様子を見ている。
「お・ま・え・と、オ・レ・とーはー、赤・の・他・人だー」
「何つう歌だよ」
「あっ、お帰りなさい、じゃなくてまだ入っちゃ駄目!」
「水」
「持っていくからシャワー浴びてて、お父さんも」
 背後ではコンポが歌っている。確かにベートーヴェンの第九の旋律だが、確かにこう歌っている。お前とオレとは赤の他人だ。
「ひでえ歌詞」
「これお父さんのCDよ」
「は? 道也?」
 シャワーで教えてもらって、と冬花は不動の背を押す。
「別々に入るっつうの」
「お楽しみは夜なのね」
「黙れよ、下世話なの似合わねえぞお前」
 が先にシャワーを浴びている久遠にカーテン越しに尋ねる。
「ひっでえ歌詞だけど、あんたのCDだって? こういうの聞くんだ」
「…若い頃な」
「とか言いながらロンドンまで持って来たんだろ」
 不動は耳慣れた旋律に覚えたばかりの歌詞を乗せる。

 ――お前とオレとは赤の他人だ、さあ、カリブの海でラムを一杯やろう

「俺たちみたいだな」
 返事を期待するわけでもなく、不動は呟いた。
 幼い冬花を、赤の他人の久遠が引き取った。選手と監督の関係だけだと思っていた不動を、久遠の腕は離さなかった。だから不動も恐れを捨ててその手を掴んだ。
 そして赤の他人の三人が、今は異国の空の下、同じ部屋に住んでいる。
 夕飯は料理もだが、演出も凝っていた。汗を流した二人がダイニングに向かうと、冬花はキャンドルに火を灯し、配膳をしていた。テーブルの真ん中には小さなツリー。ケーキは買ったものらしいが、それにしてもレストランのテーブルの上のようだ。
 また冬花が歌っている。

 ――一つ屋根の下にいると思うな、さあ、カリブの島で煙草いっぱい吸おう

 やっぱひでえ歌詞、と不動は席に着く。すると冬花が後ろからやってきてグラスにワインを注ぐ。
「私は好きだな」
「意外な趣味じゃん」
「だって赤の他人だって言ってるくせに、一緒に飲もうって誘うのよ」
 俺たちみたいだ。
「まるで私たちみたい」
 久遠が顔を上げる。冬花は久遠の背後にまわり、同じようにワインを注いだ。
「私、何度でもお父さんと明王くんを同じ屋根の下の食事に誘うわ。もし離れて暮らすことになっても、何度でも、よ。何度でも一つ屋根の下に集まるのが、私たちだと思うの」
 冬花のグラスには久遠がワインを注いだ。
 不動と久遠は、冬花が軽く掲げたグラスに両側から乾杯のグラスを近づける。
「めりくり」
「メリークリスマス、冬花」
 冬花の顔はキャンドルの明かりのせいか、赤く染まっている。
 メリークリスマス、とウィスパーボイスが囁いた。
 それから不動と久遠も乾杯。軽くグラスに口をつける。食卓が意外と静かなので、不動が立ってキッチンのコンポの再生ボタンを押した。またひどい歌詞の第九が流れる。
「これ一曲リピートかよ」
 呟いたが、ふっと笑ってそのままにしておいた。

 ――この空の下でなんとかなりゃいい、でも忘れられないことがいっぱいだ

 多分、今年のクリスマスも、この歌も忘れないだろう。
 こんなクリスマスは始めてだと思いながら、不動は家族の待つあたたかな食卓に戻った。



2011.12.26