ノンアルコール、ジャスト・コーヒー
「最近、美味いコーヒーに凝ってるんだよ」 流しに向かった二階堂が言った。久遠が脱いだばかりのコートを腕の中で畳むと、そこ鴨居のハンガー使っていいから、と振り向かないままに二階堂は言う。久遠はコートをかけると炬燵の電源を入れ、腰を下ろした。 「コーヒーですか」 「いきなり目覚めたよ、ギャルソンだっけ」 「バリスタ」 それそれ、と二階堂は笑う。 コーヒーメーカーは古い型のもので、どこのリサイクルショップで買ったのかと言えば最初から持っていたのだという。独り暮らしを始めた時に実家から持って来たらしいが、結局十年以上インスタントコーヒーで落ち着いていた。 「朝起きてすぐ飲める苦くて目が覚める飲み物ならなんでも、というノンポリに堕したんだが、いやあ美味いコーヒーの記憶と舌は誤魔化せないもんだ」 「ミルも元から?」 久遠は狭い食器棚の中に収まった手回しのミルを指さす。 「あ、それはリサイクルショップで」 香ばしいコーヒーの香りが鼻をくすぐる。二階堂は茶菓子茶菓子と独り言を言いながら棚を漁るが結局、酒のつまみだろう、チーズおかきしか出てこなかった。 「…コーヒーがメインだから」 二階堂は笑う。構いませんよ、と久遠が眉を垂れてみせると、大丈夫大丈夫これは後のお楽しみ、と不穏に笑いながらまた棚にしまう。結局今夜もアルコールまで共にすることになるのだろう。 いつものコーヒーカップに、しかし二階堂が自慢げにそそぐコーヒー。久遠にとって二階堂のアパートとはビールと焼き鳥の匂い、少し湿った洗濯物の匂い、それから煎餅布団に頬を押しつけた時の匂いが主であり、こんなに心落ち着く香りと美味いコーヒーには違和感を覚えた……ということもなく、意外と馴染む。目の前の二階堂は炬燵布団を捲って、まだ冷たいなと言うと積み重ねた雑誌の上に腰掛けコーヒーを飲んでいた。そう、目の前のこの男が美味いコーヒーを淹れたという新しい記憶は、あっという間に久遠道也の鼻から舌から肌から脳の奥にまでコーヒーの味と共に染み渡ったのだ。 「美味しいですよ」 短く感想を述べると、だろう?と嬉しそうな笑顔が返される。 とは言えコーヒーは一杯で終了。後はお定まりのコースでビールと、さっきスーパーの前に出ていた屋台で買った焼き鳥と、二階堂が後のお楽しみと言ったチーズおかきになったのだが、コースも終盤、久遠は二階堂が少し酔いの回った表情で顔を近づけてくるのを、待ってください、と押し返す。 「何を待つ必要が…」 「コーヒーをもう一杯」 それから帰ります、と言うと、嘘だろ!と二階堂は悲鳴を上げた。 「今度はコーヒーだけ、アルコールなしで美味いコーヒーだけを」 情けない顔をした男に、飲みたいんですコーヒーが、と繰り返す。そう、酒の勢いは無し。ご自慢の美味いコーヒー、それからコーヒーを淹れた男とキスをしたいのだ。
2011.12.16
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