Eternal girl
冷蔵庫のドアを開けると下着姿の冬花がつまっていて、膝の間に顔を埋め静かに瞼を閉じている。不動はそれを見たことがあるような気がして、しばらく黙って眺めていた。その内開けっ放しのドアにセンサーが反応し、注意を喚起する電子音がピーピーと鳴り出す。不動は重心を右から左に移し替え溜息をつき、それからようやく腰をかがめた。 冬花は冷蔵庫にぴったりとおさまっていた。生きていた。耳を近づければ呼吸の音がした。肌は冷え切っているが、首筋の静脈が微かに動くのが見える。不動は膝を抱えた彼女の腕を掴み、外へ引きずり出す。冷たく細い腕。血の気をなくした白い顔。冬の花という彼女の名前にぴったりで、そして不動は素直に美しいと思った。 塩ビの床の上に倒れ、冬花は息をしている。不動はようやく冷蔵庫のドアを閉める。電子音が鳴り止み、あたりは急に静かになる。白い身体を見下ろしながら不動は、長く伸びた髪をかき上げた。事態をはっきり見るのに長い髪はひどく邪魔だった。冬花が髪をハーフアップにしているゴムをするりと取る。それで自分の後ろ髪を結い、もう一度見下ろすと冬花は瞼を開いていた。深い色をした瞳がこちらを見上げる。 「ふどう…」 小さな唇がほころび、名前を呼ぶ。 「…あきおくん」 どうしてこんな場所に入っていたんだ、とは問わない。いたずらにしろ本気にしろ、入ろうと思って入れる場所ではなかなかない。それに二十四歳の冬花の身体なら尚更のこと。これは十四歳の少女の身体だから可能だったことだ。 「久遠冬花か」 そう問うと、少女は喜びを滲ませて微笑んだ。 「くどう、ふゆか、です」 取り敢えずベッドに運ぶ。台所は寒い。ベッドの上に座らせようとするが、冬花はふらふらとすぐに倒れようとする。 「少し酔いました」 「酔った?」 「タイムトラベル酔いです」 わざわざそんなことを言われると、さっきまで根拠もなく信じていた目の前の冬花が十四歳であるという事実が疑わしく悪戯か何かのように思えてくるが、静かに響くウィスパーボイスも、何を見ているのかよく分からない深い色の瞳も、少女である冬花の特徴で、不動が忘れ得なかったかけらの一部だ。 「わざわざ、んな面倒くさいことして来たのかよ」 「あなたに会わなければと思って…不動明王さん」 冬花は身体を支えようとする不動に向かって倒れ込む。その冷たい身体を抱きながら不動は考える。 十四歳のこの女は一体何をどこまで知っているのだろう。自分がどういう女なのか、十年後何を選び、どんな道を歩むのか。 自分たちが付き合ったのはほんの短い季節、十八の夏休みの間だけだった。この少女にとっては未来の話だ。盆休み、父親不在の彼女のマンションで過ごした夜。冬花は処女ではなかった。自分は童貞だったのに。そのことを忘れられないほど覚えている。 不動は冬花の身体を引き離しにかかる。どう考えても危険な行為だ。しかし冬花は爪を立てて不動の肩にしがみついた。 「気づかないふり、上手ですね」 震える声が言った。 「嫌味か」 あなたに会いに来たんです。切羽詰まった声が言う。 「私はきっと、あなたに何もあげることができないから。あなたのことは本当に好きなのに、好きになるのに、私は本気であなたを愛するのに……でも、私、分かっているんです」 「とっとけ、こんな大事なもの」 下着を脱ごうとする冬花の手を押さえつけようとするが、彼女が暴れるので仕方なくベッドに押し倒す。 どうして、と細い足が蹴る。痛いと思った。 「俺もお前が好きなことに嘘がねえからだよ」 「誤魔化さないでください、正義も常識もほしくありません…!」 誤魔化しちゃいねえさ、と言いながら何故か泣きたくなった。冬花の身体は綺麗だった。それが恐いと思った。 「お前のことは忘れたことねえよ…」 白い、まだふくらみの薄い胸の上に顔を埋め、囁きかける。 冬花の手が伸びて不動の頭を掴む。ぎこちないキスが額に降る。それが触れた途端、本当に涙が出た。 「ごめん…」 震える声で不動は囁いた。 「ごめんな」 「いつか私が言わない言葉を言います。忘れないで」 それを恐れた不動がキスをすると、冬花もいつの間にか泣いていた。 「私はあなたを愛します」 耳元で囁く冬花を抱きしめ、不動は泣いた。 「愛しています」 冬花の肩が揺れている。テレビから流れる音楽を聴いている。しかしテレビは見ていない。アパートの狭い台所に向かい、何かをしている。 「見ちゃ駄目ですよ」 十四歳の久遠冬花は人差し指で不動の鼻の頭をつついた。十も齢の離れた少女には思えない。確かにその姿は未成熟な少女の身体なのだが彼女の中の魂はそれ以上のものを孕んでいる。不動はテレビを眺めるふりをしながら、ちらりと冬花の後ろ姿を見る。 彼女は何もかも知っている。十年後のこの世界に流行している歌は知らないけれども、一体何が起きているのか、これから何が起きるのか、数十年先までの運命を知っている。 女神、みたいなもんだな。そう思うのは決して大袈裟でも不動が夢見がちでもないのだ。十年前の世界から時間を旅して不動の目の前に現れた少女は、その運命のたった一点だけを変えようとしている。そのために自分の人生を、運命の全てを得ている。自分が捧げるものが何であるのか、望もうとも決して手に入らないものは何かを知っている。 しかし今、鼻歌にも歌えない初めて聞く歌を聴きながら肩を揺らして料理する様には重たい使命も感じられない。昨日は一日泣いていたのに。 どうしても不動のものになりたいのだという彼女をなだめ、強く抱きしめて眠った。知識があるかどうかは分からなかったが、手を離せば逆に襲われかねない気さえしたからだ。多分、それは昨日の冬花の思い詰め具合にあてられた自分の妄想だったのだろうけれども。今日は昼に少しだけ部屋を空け服を買いに行った。勿論、冬花は留守番をさせた。 「サイズ教えろ」 そう言うと 「知らないんですか?」 と言って真っ赤になった。 不動が冬花と付き合ったのは高校の頃だし、その頃だって彼女の服のサイズはそんなに把握していなかっただろう。胸だけは別として。 今冬花が着ているトレーナーもパンツも、高校の頃の彼女の服の趣味ではない。しかし目の前の冬花は喜んでそれを着た。 「初めてのプレゼントです」 こんなものはプレゼントにならない。それを着て夜は飯にでも行こうと言った。高級な場所には連れて行けなくても、それなりに冬花を喜ばせてやりたいと思った。しかし冬花は「私が作ります」と言ってきかない。冷蔵庫に全く食料がないのは昨日冬花がそこに詰まっていたせいだが、それ以前も魚肉ソーセージくらいしか入っていなかったはずだ。あとビール。 夕方、二人で買い物に行った。近所のスーパーなどほとんど使ったことがなかったのだが、しかし顔見知りでなくとも不動と少女の冬花の組み合わせは人目を少し引いたようだ。 何を買っただろう。冬花はかごに入れるたびに 「これも買っていいですか?」 と訊いたのに、まったく覚えていない。不動は全てにイエスとしか答えなかった。冬花ばかり見ていた。 少女だ。 幼すぎる、と思う。 オーブンが唸っている。しかし冬花はまだ何かを作っている。何品作るつもりなのだろう。 「冬花」 呼ぶと、少し頬を赤らめて振り向く。彼女は不動に名前を呼び捨てにされることに慣れていない。 「次、何観たい?」 音楽番組が終わって退屈なCMばかり流れる。 「何でも…明王さんの好きな番組がいいです」 不動さん、と呼ばれるのは他人行儀というか、まあ昔からからかいの対象になった不動産との絡みがあり、不動が却下した。高校生の冬花は不動を明王くんと呼んだが、それさえも彼女は照れるようだった。明王さん、に落ち着いた。 「この時間のバラエティつまんねーんだよ。ニュースしか観ないぞ?」 しかし冬花は「はい」と微笑む。何かなかったかとDVDを突っ込んだ箱を漁るがサッカー関連のものしか出てこない。結局テレビはニュースになり、冬花は肩を揺らすのをやめて静かに料理をする。 オーブンが出来上がりの電子音を鳴らし、冬花はちらっとそっちに視線をやると手元のものをぱっぱと盛りつけ始めた。サラダらしい。 夕飯に出されたのはキッシュで、鮭とトマトが入っていた。 「あの…」 冬花は手をもじもじさせて俯く。 「明王さんは、もうトマトを食べられるようになってると思ったんですけど…もし違ったら…」 「違わねーよ」 本当は克服などしていない。しかし不動はそれを食べた。食べられる。味もそんなに嫌ではない。だから全部食べた。冬花の食べる分がなくなってしまった。冬花は泣きそうな顔で笑っていて、私、一生懸命練習したんです、ここへ来る前に、明王さんに食べてほしくて、と勢いこんで言った。彼女の手は自然と明王の両手をとっていて、掌の熱が不動にもじんわりと伝わった。 運命は結局一度たりとも自分を裏切らなかったのだ。 不動は少女の手を取り、午後の光の明るく満ちた砂浜を歩く。観光のシーズンを過ぎても人がいるのは、ここがあたたかく穏やかで日向ぼっこにはちょうどいい場所だからなのだろう。ライトブルーのスモックが蝶の戯れるようにはしゃいでいる。聞こえてくるのは弾けるような高い笑い声だけだ。波の砕ける音は既に血潮の巡る音と同化してしまっている。あるいは心臓の鼓動と。 不動は少女を振り返る。 久遠冬花は片手に真新しい靴を持ち、不動の右足の足跡に自分の左足を乗せて歩く。少し大股に歩いている。 八日目の出来事だった。 不動は久遠冬花を連れて部屋を出た。冷蔵庫のない場所に出かけるために。 車のガソリンが空になるほど走り、冬花が空腹を訴えたので車を停めた。コンビニは一面が冷蔵庫だらけで、不動は冬花を車に残したまま買い物をした。サンドイッチとお茶とお菓子。助手席の冬花にそれを持たせ、食べていいと言ったが彼女は首を横に振った。 カーナビの地図を先へ先へ進めると海水浴場がある。 「明王さん」 冬花は言った。不動はうなずいて、この浜に向かったのだった。 「ピクニックなんて初めてです」 「そうか?」 サンドイッチを食べながら冬花は話した。 「デートくらい何度もしてんだろ?」 「デートはしたかもしれませんけど、ピクニックは…」 初めてです、という囁きは波音と海からの風にかき消される。 十四歳の久遠冬花。 十年前からタイムスリップをして二十四歳の不動の目の前に現れた少女。 望みはただ一つ、不動の手で女になること、だった。 七日前の夕方、突然冷蔵庫の中に現れ冷たい肢体をすり寄せて迫ってきた時は不動も仰天した。驚かない方がおかしい。たとえ自分が男で、目の前の彼女が据え膳だったとしてもだ。 不動が男としての欲望を押しとどめることができたのは、彼の意志の力にもよるし、また久遠冬花という存在そのものにもよった。 冬花が不動に執着したように、不動にとっても冬花は忘れがたい存在だったのだ。 ゴミをコンビニのビニール袋に突っ込んで片手に持つ。黙って自分を見上げる冬花に向かって手を差し伸べると、彼女は照れたように手を繋いだ。 「本当に今日なのか」 「はい」 十四歳の冬花がこの時間にとどまることができるのは八日間だけだという。この日が暮れるころ、ちょうど八日目が終わる。 「なあ」 不動は振り返らず尋ねる。 「なんで八日とか中途半端なんだ」 「中途半端でしょうか」 「一週間とか、十日とか、キリのいい数字がありそうじゃねえか」 冬花は沈黙している。ちょっと振り向くと俯いて顔を赤くしていた。 「その…私が八日を希望したんです」 八は…明王さんの背番号の数字ですから。 その囁きと共に手が強く握りしめられる。不動は自分の掌が汗ばむのを感じた。しかし手を離すことはできなかったので、あちこちに視線を逸らすことでこの照れの感情を放散しようとした。 「…もしお前が目的達成してたら?」 「その時はすぐに…」 不動は息を吐く。それではやり逃げというか、やられ逃げというか、だ。 結果、制限時間いっぱいまで二人一緒にいることができたのだが、しかし困ったことに不動にも未練が嵩じてきたのだ。だから冷蔵庫から逃げてこんなところまで来てしまった。 足を止めると立ち止まるのの遅れた冬花との距離が一歩縮まった。 「そろそろ教えろよ」 不動は振り返り、正面から冬花の瞳を見つめた。 「どうして俺なんだ」 「…あなたを愛しているから」 「でも俺たちは別れた。お前が今どこで何してるか、俺だって知らないわけじゃないんだぜ?」 冬花はしばらく俯き黙っていた。別れの時が近づいてきているのにこんな話はしたくないと思っているのかもしれない。しかし言いたい、言ってしまいたいものが胸の中で渦巻いているのも事実だった。 「明王さん」 冬花は靴を手放し、両手で不動の手を掴んだ。 「未来の可能性を信じますか?」 「なんの話だ」 「あったかもしれない未来、もしかしたら違っていたかもしれない現在を思うことはありませんか?」 それは全部存在しているんです。時々重なり合って一本の流れになりながら、でも違う未来は存在しているんです。 冬花の言葉はSFじみていたが、タイムスリップを許容した不動にはそれを信じないわけにはいかない。 「FFIで出会ってから、私は何度も明王さんと再会します。様々な未来の中で、十八歳の夏休み」 久遠冬花が父親と暮らしていたマンション。溶けそうなほどに暑い日だった。久遠道也は出張をして家にはいなかった。不動は童貞で、冬花は処女ではなかった。 「でもどの私もあなたのことが大好きでした。今でも大好きで大好きでたまりません」 「それなら…」 「でも私は」 冬花の目には涙が滲んでいた。彼女は微笑もうとしていたが、それはみるみる泣き顔に崩れてしまう。 「私はあなたのそばにはいられないんです」 知っている。 解っている、不動には。 「私は自分が守くんと結婚する未来も知っています。私は望んで結婚するんです。彼のことを好きになって、彼の一生を支えたいと思うんです。そうするんです。そして死の瞬間まで守くんのそばを離れません」 「知ってる」 「それだけじゃありません」 冬花はもう告白に痛みさえ伴っていた。しかし言えと要求したのは不動だ。冬花は告白を続けた。 「たとえ守くんと結婚しない未来でも同じことです。私は、この時間軸に存在するあなたを癒やしたいからとか、そんな気持ちで来たんじゃないんです。ごめんなさい…、ごめんなさい、明王さん。私は父の、久遠道也の危機を知れば迷わず父のもとへ駆けつけます。父に寄り添い、父のために生きる。守くんがたとえ他の女性と結婚していても、私は彼の人生を助けるために尽くすんです。父も守くんも私の命の恩人だから。私の命と同じくらい大切な人だから。いいえ、私はそういう女なんです」 息をついた冬花の身体がふらつく。そのまま手を離してしまおうとする冬花を不動は手を伸ばして支えた。コンビニの袋が風に鳴りながら飛ばされる。 「すげー女じゃん」 不動は笑いかけたが、冬花は俯いて首を振った。 「私は…」 あなたの傍にはいないんです。 冬花は震える声で言った。 「明王さんが死ぬ時、私は明王さんの傍にはいません。そして私が死ぬ時も、明王さんはそれを知ることはできないんです」 死という単語は不思議な風のように不動の胸を吹き抜ける。 「どんな未来でも?」 空疎に響く声で不動は尋ねた。 「どんな未来でも」 冬花の声は重さに耐えきれない涙が落ちるようにこぼれた。 嘘だと思うかもしれませんけど、と冬花は言った。 「恋をしたのは、明王さんだけなんです」 自分がどうすればいいのか分からなくなるのも、一緒にいるのがつらいのも、明王さんだけ。 飛ばされたビニール袋は園児たちのおもちゃになったらしく、歓声が一際大きくなり、それからまた波の音。 不動は冬花をそっと抱き寄せ、額に口づけを落とした。 堰を切ったように冬花が泣き出した。彼女の泣き声は海風に千切れ千切れに飛ばされた。不動はその肩を抱き寄せ、自分が少しは大人になったことを感謝した。十年前なら彼女に胸を貸すことさえ思いつかなかった。 そして胸の中の彼女は自分が恋した少女ではない、と知った。今胸の中に生まれた思いは十八の自分の感情の続きではなかった。二十四歳の不動明王は、今胸の上で泣いている十四歳の久遠冬花に恋をしたのだ。 もう数時間で目の前から消えてしまう少女に。 不動は冬花を強く抱きしめ、七日前の自分に惜しみない賞賛の言葉を送った。よくやった、よく我慢した俺。意気地がなかっただけかもしれないが、よく思いとどまって冬花を大事にしてくれた。だから俺は今、愛した女に一生の中でないほど優しくしてやれる。 冬花は泣き止んだ後も不動の胸にもたれかかっていた。二人がぺたんと座り込んだ周りをライトブルーのスモックの蝶たちが通りすぎてゆく。 陽はもう水平線の上にあった。 「靴」 冬花が足跡だらけの砂浜に視線をやる。 「なくしちゃいました」 「また買ってやる」 「私、あの靴好きでした」 微笑みを取り戻し、冬花が言う。 「今日のピクニックのために、明王さんが買ってくれた靴」 軽く目を伏せ、微笑みと一緒に頬を不動の胸に押しつける。 どこかでビニール袋の風に飛ばされる音がした。鳥の羽ばたく音にも似ていた。冬花は瞼を開き、ちょっとだけいいですか、と言った。 「なに?」 「せっかく海に来たので…」 冬花は立ち上がり、スカートの裾をちょっと持ち上げて波打ち際に歩いてゆく。不動は目を細めてそれを見送る。 「冷たい!」 波に裸足を濡らしながら冬花が声を上げた。 「明王さん」 不動も靴を脱ぎ、冬花に近づく。 大きな波が打ち寄せ、冬花の足下が揺れた。 「冬花!」 不動は手を伸ばす。 冬花も手を伸ばす。 唇が、明王さん、と呼ぶ。 大きく打ち寄せた波は不動の足を濡らした。不動は呆然と手を伸ばした先を見つめた。 久遠冬花の姿はなかった。 水平線にその身を浸しかけた太陽がオレンジ色の道を海上に敷いている。その上には人の影はない。 「冬花」 不動はもう一度呼んだ。 しかし応える声はない。聞こえるのは波の音。自分の血潮のように耳に慣れてしまった波の音。そして胸の内側から強く打つ心臓の音。 「冬花…」 不動は自分の声が震えるのを聞いた。差し伸べた手はなに掴むものもない。しかしその手を下ろすことができない。 久遠冬花は消えてしまった。 八日目が終わったのだ。 約束どおりだった。彼女は決して嘘をつくような人間ではないのだ。不動は知っている。 涙を押しとどめ、不動は夕景を睨みつけた。太陽はじわじわと沈む。それを止めることはできない。時間は動き続ける。全ては当然のことで、全てはなるべくようにしてなったのだ。ただ一つ、彼女の望みを叶えないままに。 俺の我が儘で、冬花の我が儘一つ叶えなかった。 「冬花…」 「明王さん」 優しい声がした。 時が止まったかのように感じた。それは確かに不動の背後から聞こえた。 不動はゆっくりと首を巡らせる。 夕焼けに染まる砂浜。誰もいなくなった砂浜に、自分の影を踏むように、人影。 「お久しぶりです、明王さん」 円堂冬花がそこには立っていた。 長い髪を結い上げ、細い首が露わになっている。そのどこにも、たった今まで恋していた少女の面影を見ることができた。 「ふ……」 「どうしたんですか怖がって。私、幽霊じゃありませんよ」 ほら、と二十四歳の冬花はスカートの裾をちょっと持ち上げて見せる。 「どうして…」 「あなたとここへ来たことを、思い出したから」 歩きづらそうなヒールを脱ぎ、冬花は不動の隣に並ぶ。 「昔から覚えていたのか、それとも今日あなたがこういう決断をしてくれたから私の記憶になったのか、それは分からないけれど…」 「全部、知ってる、のか」 「いいえ」 冬花は軽く首を振った。 「もう未来のことは分からない。自分がどんな一生を過ごすのかも。さっきまであなたの傍にいた私とは違うんです」 「なら、どうしてここに」 「私にも選択することはできるんだって」 微笑み、冬花は言った。 「あなたとこの浜辺に来たことを思い出したら、私、急にそんなことも悟ったんです。私は今でも会いに行けるんだってこと」 「でも、お前…」 「ええ、もちろん。私は円堂守の妻よ」 そう言いながら冬花は手を伸ばし、不動の頭を抱くと額にそっとキスをした。 不動は口もきけずにそれを受け、じっと冬花を見た。自分の顔が赤くなっているのを感じた。 「顔、真っ赤」 冬花は笑うが、その彼女の首筋も赤い。 「私、本当に嬉しかった」 ウィスパーボイスがわずかに涙をにじませて囁いた。 「私、本当にあなたが好きだった」 忘れないで、私はあなたを愛します。 ちょうど八日前、下着姿の凍える身体で冬花は言った。 「俺もだ」 そう答えると、目の前の円堂冬花は指先で涙を拭った。 冬花は自分をここまで運んできたタクシーを帰し、不動の車の助手席に乗り込んだ。 「変な所に連れていっちゃダメですよ」 「誰がンなことするか」 だって、と冬花はくすくす笑う。 途中でガソリンを入れて、またそれが空になるほど走った。稲妻町が見えたのはもう夜も遅い時間だ。大丈夫なのかよ、と尋ねると、今更?、と冬花は眉を寄せて笑う。 「そうですね、守くんは私が浮気したって疑うでしょうか」 円堂に限ってそれはない、と言おうとし、不動はそれが、冬花に限って、でも言い換えが効くことに気づく。 ちらりと見ると、冬花はもう笑ってはいなくて、窓ガラスにもたれかかり遠くを見ていた。海風に乱れた髪が首筋に垂れている。 不動はすぐに視線を戻した。 家のすぐ側で車を停めると、冬花は改めて砂のついた足を払い、ヒールを履いた。 「それじゃあ…」 冬花は言いかけ、そこで初めて悲しげに表情を曇らせた。 じゃあまた、とは言えなかった。 「さよなら」 不動が言った。 「さようなら」 冬花が言い、ドアを閉めた。 ドアを閉めた後の冬花は車から手を離さなかった。ドアにもたれるように手をつき、しばらくじっとしていた。 その手が離れて、ようやく不動は車を発進させた。 アパートの駐車場に車を停め、下りると足がふらついていた。不動は手をつきながら車の反対側にまわった。助手席側にまわると、ドアの上部に、わずかに埃の取れた場所があった。不動は自分の額を撫でた。冬花の口づけのぬくもりが、まだそこにあるようだった。 一日ぶりに帰った自分の部屋はまるで他人の顔をしている。綺麗に整頓された部屋や、台所の洗い物にまだ彼女の残り香が漂っているようだった。 喉が渇いた。 不動は冷蔵庫の扉に手をかけ、一瞬の躊躇いの後、それを開けた。冷蔵庫の中には白々しい光と、缶ビールが何本か並んでいた。不動はしゃがみこみ、冷蔵庫の中に向かって声をかけた。 「ただいま」
2011.10.26
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