不動明王の帰国
東京の地下鉄の音は懐かしい音だと不動は思う。 座席に深く身体を沈め、地下数十メートルを走り抜ける鉄の塊が発する音に耳を傾ける。車輪と線路の噛み合っている、硬い音が好きだ。時々軋みを上げる、あの虚空に叫ぶような音が好きだ。どこからか呼ばれているような、そんな気もする。 夜の有楽町線は地獄の門の開く音、そんなフレーズをどこかで聞いたことがある。誰が言ったのかは思い出せないが、その言葉は覚えている。不動の中で地下鉄の軋みと一緒に記憶されている。そう、地下鉄に乗っていると、ただ東京の地下を走っているのではなく、どこか別の世界に行けるかのようだ。 それは何も希望に満ちた光ある場所でない。そうでなくてもいい。ここではないどこか、という意味で、それだけで不動は地下鉄に乗っている空気が好きだし、時間が好きだ。 乗り換えの駅も、改札の場所も、この身に染みついていると思っていたのに不動は乗り過ごす。改築された大きくて真新しい駅のホームでぼんやりと佇む。表示板の文字がよく見えない。この眼鏡のせいだろうか。度の入っていない伊達眼鏡だが。 不動は眼鏡を外す。しかし視界ははっきりしない。LEDの明るすぎる光が視力を奪う。どの駅で降りたかはアナウンスがしつこく教えてくれるから問題なかったが、さて。 ベンチに腰掛け、携帯電話を取り出した。アドレス帳で呼び出したいくつもの名前の内、今も番号を変えていないのは誰だろうか。その中から更に自分の電話に出てくれる人間は何人いるだろう。 長く伸びた髪が邪魔をしてくるので、顔を上げた。ホームには一人だった。今、なん時だろうか。時計の針も見えない。身体も昼か夜かという判断をできなくなっている。飛行機の中でも不動はほとんど眠らなかった。疲労は溜まっていたが、しかし眠くはなかった。時差ボケしているのかもしれない。視界がかすむのはそのせいか。 メールを開き、宛先のアドレスをぐるぐる巡る。しかし思い浮かべる顔はもう、一つしかなかった。 迎えに来てくれ、と入力する。 「金が、ないんだ」 入力しながら呟いた。ポケットの中にはユーロ札しか入っていなかった。 携帯を手に握ったまま、ベンチの上で脱力する。次の電車はなかなかやって来ない。そのかわりホームには人が増える。誰も自分を見ようとしないふりをして、その実ちらちらと見ている。多分俺は今、と不動は思う。職にあぶれた若者、くらいに見られているんじゃないか? それは的外れな答えではない。 不動明王、失踪? その文字は新聞の上で派手に躍った。その時だけは、日本のニュースも鬼道より不動を取り上げた。 走れなくなってピッチを離れる選手は多い。不動もその一人だった。ただし二十四という若さで。 それはまさに青天の霹靂で、不動はそれを隠そうとしたがすっぱ抜かれたし、同じイタリアで活躍する鬼道にも知られた。当然、その他各方面にも知られ、慰めの言葉にも励ましの言葉にも嫌気が差した不動はぷいと背を向けただけのことだったけれど、新聞は大きく騒ぎ立てた。 今更騒がれたって走れる訳じゃねえ。ましてピッチに戻れないのは、この足を持っている自分がよく……よく知っている。 田舎町にふらりと立ち寄りストリートでボールを蹴ったが、素人にさえカットされた。その上顔もばれそうになったので――向こうの人間は東洋人ということで一緒くたにしてしまうようだけれども――眼鏡をかけるようになった。これで少しは目をくらませることができた。ピッチでボールを蹴る不動明王は眼鏡をかけていないからだ。 ついでに髪を切らないでいるうちに、鬱陶しいほど伸びた。しかしそれも自分の人相を分かりづらくしてくれたので、今も放っておいている。 フロント、コーチ、それに監督。監督は本当にこの足を悔しがってくれた。不動にはそれが分かった。不動は監督を信じたからだ。人を信じてサッカーをする楽しみを、不動はまだ十分に味わい尽くしていない。けれど、もうあの監督の下で、あのチームで役に立つことはできない。この足はもう、身体を支えるだけで精一杯だ。 ベンチの上に片足を上げて座っていると、嫌そうな目で、先ほどよりも不躾な視線が送られる。反射的に睨み返せばそそくさと目を逸らすので、抗議するだけの勇気はないらしい。まるで日本だな、と思い、ああ日本に帰ってきたのだと思った。清潔な車内、駅の構内、ちらちらと投げられる視線、あるいは全くの無関心。日本だ。俺の育った国だ。 とうとうここまで来てしまったが、この先どうすべきなのか。べき、ことは定まっていない。日本にいてもイタリアにいても同じ。取り敢えず今日を生きて、それからどうやって時間を潰そうか。適当に女でも男でも引っかける、そんなことはもう疲れていた。どこかで、少し眠りたい。これが眠気なのかよく分からないが、身体は重い。金もない。地下数十メートル下なのに、ここは眩しすぎる。 不動はゆらりと顔を上げた。アナウンスが次の電車を知らせる。 地獄の門の開く音がする。 不動は反射的に右手を振り上げた。手の中には携帯電話があった。彼はそれをもうすぐ電車のやってくる暗闇の中に投げ込もうとした。 「明王君!」 ホームの空気をつんざく悲鳴が聞こえた。人々が一斉に振り向き、不動も右手を振り上げたまま悲鳴の主を探す。 地上から続く長いエスカレーターを駆け下りて、髪の長い女が立っている。息を弾ませ、清潔な床の上を両足で踏ん張って。スカートから覗く足がやけに白いのはストッキングのせいで、それは服装からすると不釣り合いだった。 電車がホームに滑り込む。女の髪がなびく。乱れたそれは結ったものがほどけたのだと分かる。髪ゴムが途中に引っかかっている。 「明王君…」 電車から降りる人間、乗り込む人間の波の向こうで、女の顔が歪んだ。今にも泣き出しそうに。 「冬花」 不動は立ち上がった。 電車が動き出す。再び暗闇の中に吸い込まれた後は地獄の門の閉まる音。降車した人波は地上を目指して去って行く。ホームには二人だけが残される。 久遠冬花はその場から動かなかった。俯き、掌で顔を拭っているようだった。 しかし不動も動かなかった。携帯を握った手は既に下ろしていたが、足は動かなかった。 痛いか? 分からない。 冬花との距離は、お互い佇んだまま縮まらない。不動はちらりと線路の暗闇を見る。死にたい訳ではないが、やってきた電車に頭をぶつけるくらいはした方がいいのかもしれなかった。俺は馬鹿だ。昔、ほんの少しの時間つきあった女を呼び出しておいて、彼女が来ても何もできない。涙さえ拭ってやれない。近づけない。歩けない。 さっきは振り上げた右手を、今度はただ振り子のように振り、不動は携帯電話から手を離した。それは暗闇に吸い込まれ、線路の上で硬い音を立てた。 その音にハッとして冬花が顔を上げた。彼女は不動が線路に向かって差し伸べた手を見た。 表情がキリリと音をたてるかのように歪み、彼女は走ってくる。そして不動の頬をぶつ。 平手の音がホームに響いた。 眼鏡が飛び、コンクリートの上で乾いた音を立てる。 「何だよ…」 不動は斜めに冬花を見下ろした。が、冬花はその冷たい視線をものともせず、不動の襟首を掴むとぐいと自分に向かって引き寄せた。また彼女も少し背伸びをした。 唇を重ねる、冬花は強く目をつむっている。不動は薄目を開き、冬花の唇を噛んだ。冬花の手が伸びて、長く伸びた不動の髪を掴む。痛いが、心地良いと思った。 ぽつぽつとホームに人が下りてきたのが分かった。しかし不動は無視をした。どうせ直視もできない日本人め。心地良さの続く限り、不動は冬花を離さなかった。今や、その手を掴み、その腰を抱き寄せているのは不動だった。 高校の頃、少しだけ付き合った女。在学中にイタリア行きの話が出て、それっきりの関係になってしまったが、それでも不動の最初の女。ただ一人の最初の女だ。 唇が離れると冬花は泣き出し、不動はその肩を抱いてベンチに腰掛けた。 何本も電車が停まっては通り過ぎて行く。人間を吐き出し、飲み込み、去って行く。いつの間にか冬花は泣き止んでいて、二人は寄り添ったままそれをぼんやり眺めていた。 最終電車が反対側のホームに滑り込む。二人はそれに乗り込む。席の隅に並んで座る。 冬花の頭が傾き、ことりと不動の肩に乗った。 「死んだって噂まで流れたの」 冬花が呟いた。 「なんとかあなたのことを知りたくて、守君にも頼んで、鬼道さんにまで連絡を取ってもらったわ」 「で?」 「あなたは」 疲れたような視線が不動を見上げた。 「もう、帰ってこないのかと思って、泣いた」 残念ながら、と呟くと、馬鹿ね、と冬花は顔を強張らせ瞼を伏せた。 抱き寄せると冬花からは消毒液の匂いがした。清潔な、病院の匂い。不動は鼻を鳴らしてその匂いをかぐ。かつてかぎ慣れた懐かしい匂い。 アナウンスが流れる。軋みを上げて電車が停まる。ドアの開く音がすると冬花の瞼が開いて、不動の手を取り降りた。 かつて何度も降りた駅のホームだった。古いタイルの壁面。くすんだホームのコンクリート。長い階段。人いきれ。冬花は不動の手を握ったまま階段を上ってゆく。不動は黙ってそれについてゆく。 改札の前で不動は自分の切符とユーロ札を取り出す。冬花は自分の財布を取り出し、ため息をつく。 「…きいてもいいか」 不動が言うと冬花は、何、とつめたく返事をした。 「どうして来たんだ」 「あなたが呼んだから」 そう答える冬花の唇は赤くなっている。不動が噛んだせいだ。指先で触れると、冬花が上目遣いに見上げた。 「もう会えないと思っていたから、あなたが幽霊だとしても会いに行こうと思ったの」 「足がある」 「幽霊にも足はあるのよ」 冬花は不動の乗り越し分も支払い、手を引いて改札を出る。 最後の電車の通り過ぎた駅は人の気配もなく、不動を日本の東京のどこかの名前を知らない場所に連れてきたようだった。 「これからどうするの?」 光の数の少なくなった夜景を背に冬花が振り向く。 「どうって?」 「私に訊かないで」 赤い唇をへの字に結び、冬花が睨みつける。 「ああ…」 不動はぼんやりと声を出した。 「眠りてえなあ」 消毒液の匂いに誘われるように冬花に向かって手を伸ばす。胸を押しつけさせるように抱きしめると、腕の中にすっぽり収まる身体の線が心地良い。 「柔らけえ…」 不動は彼女の髪に顔を埋める。 「こんな所で寝ないで」 抱きしめられた冬花のくぐもった声が胸に響いた。 手が押し返す。不動の身体は引き離される。突っ張った冬花の腕が胸を押している。 「あなたみたいな人を連れて帰ったりしないわ」 「どうして」 「ありがとうも言わない」 「ケチなこと言うなよ」 「ただいまも言わない」 「俺だってお前が俺を何年も待ってるなんて自惚れちゃいねえよ」 「待っていたのよ!」 冬花の手は拳を作り、不動の胸を叩いた。 叩かれるままに不動の身体はよろめいた。おいおい、足がぐらつく。もう限界かもしれない。 しかし冬花は何度も何度も不動の胸を叩いた。 「いいわ。ここで消えて。どこか知らない所に行って」 「何だそりゃ」 不動は苦笑する。高校の頃、何度も降りた駅。なのにこの先どこへ行けばどこに辿り着くのか分からない。多分、このまま冬花に背を向ければ知らない場所に行けるだろう。 「帰って来るつもりがないのなら、終わらせてよ…」 「冬花」 自然と笑みが浮かぶ。冬花は可愛い。今も泣きそうなのを必死に我慢している、その表情も、一生懸命自分の足で立とうとする姿勢も。スカートから覗く白いストッキングの足。ああ、そう言えば看護婦なんだっけか。 「俺を眠らせてくれよ、白衣の天使」 そう言って手を差し伸べたところまでしか覚えていない。 背後で駅の明かりが消えた。夜に相応しい暗さの中、冬花の白い足が駆け寄るのが見えたような気がした。パンストじゃねえんだ、と思いながら不動は笑った。ナースがガーターベルトとかエロすぎじゃね? 暑いくらいのぬくもりの中で不動は瞼を開く。ぼんやりと明るい。暖色の光が部屋に満ちている。 暑いのではない。自分の身体が熱いのだ。そう気づいたのは自分を抱きしめる腕があったからだ。不動はまばたきをして目を覚ます。すぐ隣に冬花の寝顔がある。服は着たままの目覚めだが、布団を被っていなかった。ベッドの上にそのまま倒れ込んだ格好だ。 俺は眠ったのか。 どれくらい眠ったのだろう。分からない。体内時計はいまだに針を痙攣させている。 冬花。 不動は視線を落とした。スカートがめくれ、膝の上まで露わになっていた。ストッキングを履いた白い足。不動はスカートの端をつまみ上げ、捲る。 ガーターベルトだ。不動は捲る時と同様にそろそろとスカートを戻し、脱力した。自然とため息が漏れた。 俺は冬花のところに帰ってきたかった。 今、心の中で不動は素直にそれを認めた。心から期待していた、あのメールで冬花が迎えに来てくれることを。それ以外の未来など見当もつかなかった。 不動は冬花の柔らかな胸の上に手を置く。掌に力を入れると、それはやはり奇跡のような心地良さで柔らかかった。 「…起きてるわ」 冬花が呟いて、瞼を開いた。 「なにしてるの」 不動はにやりと笑い、冬花の胸に顔を埋めた。 「結婚してくれ」 「最低」 最低で結構、と不動は冬花の胸に向かってもごもごと囁きかける。 「離れて」 「ただいま」 「遅いわ」 「昨日はありがと」 「……ねえ、順番が違う、明王君」 ようやく名前を呼ばれ不動は、冬花の顔を見上げる。 また、泣きそうな顔をしていた。目の縁には涙が溜まり、唇をきゅっと結んでいる。 「冬花」 手を柔らかな胸から彼女の首筋に滑らせる。滑らかなライン。髪をどかせば、日の光を浴びない白い耳が露わになる。 頬に触れると、泣くのを我慢する息が小さな唇からほっと漏れた。 「信じてくれ、もう俺はお前が欲しいだけだ」 「どうやって信じるのよ…」 不動はポケットに手を突っ込んだ。ユーロ札が触る。不動はくしゃくしゃの札で紙縒りを作ると、少々歪ながらも輪の形にした。 そして気づく。冬花は目が覚めたというのに。自分を抱いた腕を外そうとしない。 冬花、手、と不動は囁いた。 赤い紙の指輪を左手薬指に通す。 「…私、まだ返事をしてない」 「じゃあ、してくれよ」 冬花は指輪をした手で不動の頬をつねった。 「もう、黙っていなくならないで」 「ああ」 「絶対よ」 「お前が死ぬまで離れない」 また静かに泣き出した冬花を不動は抱きしめた。 それからまた少し眠った。次に目覚めた時、部屋は薄暗くなっていた。同じく目覚めた冬花に仕事は、と尋ねるが、大丈夫、という答え。そのままキスをしようとすると拒まれたので、なんで、と訊いたら、歯磨きをしたい、と真面目な顔で言われた。 「しゃーねーな」 起き上がって、不動は気づく。 「ここ、お前んち?」 「そうよ」 冬花も隣に起き上がり、伸びをする。 「お前の親父、いたの」 「…もしかしたら廊下で聞き耳立ててるかもね」 「なに、俺が来てること知ってるわけ?」 「靴を見れば分かるじゃない、娘が男を連れ込んでることくらい」 指輪をした左手を見せつけ、冬花は言う。 「ご挨拶、してくれる?」 「…させていただこうじゃねえか」 そう答えると、不意に冬花の細い腕が首に巻き付き、頬に柔らかな唇が触れた。 眉を寄せながらも、冬花は笑っていた。 笑った顔が見てえな。 不動は彼女の頬を親指で撫でながら思った。冬花は仕返しに頬をつねられると思ったのか、左手で撫でる手に掴まる。不動は笑って手を繋いだ。 たっぷり眠って頭は空っぽだった。 ベッドから立ち上がると足に痛み。思わずよろめき、冬花が身体を支える。 痛みも、冬花の存在も現実だ。繋いだ手の、紙の指輪の感触も。 「冬花」 掠れた声で不動は言った。 「お前のことが忘れられねえから、お前が好きだから、帰ってきた」 ハッと冬花が見上げる。 「ただいま」 不動の声は揺れた。冬花の瞳も一瞬にして潤み、そして優しい声が応えた。 「おかえりなさい」
2011.8.28
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