大切なことを適切に為すに相応しい八月、雨天
八月の雨は透明で分厚いカーテンのようだ。窓の向こうにある景色が見えなくなる。雨音の他、何も聞こえなくなる。もしこのまま眠らされたら、目覚めた後のことを想像できず夢の中を彷徨ってしまうだろう。重たい灰色の街。湿った空気。ぬるい水。 ソファの背にしがみつく冬花の身体は白く、そして細い。何度でも繰り返してきたキスの仕方を忘れて明王は、冬花の長い髪を片側に流し露わになった肩に顔を埋める。動物のようにうなると冬花が応えるように細い声を上げた。 テーブルの上にはコンビニ弁当のカラ。 ペットボトルと、コップが二つ。 乱暴に脱ぎ捨てた服。 だらしのない週末。 冬花の白い背中を世界でただひとり独占しながら不動は、名前を呼べ、と湿った声で耳元に要求する。冬花の顔がわずかに振り向いて、涙にうるんだ瞳が見える。 「明王くん?」 一度その声が口からこぼれれば、まるで自分の人生でそれ以外の言葉を持たないかのように冬花は繰り返す。不動はそれに夢中になる。昇りつめる冬花の背が反る。その美しい弧に全てが吸い込まれる。 真っ白な果てを見ると、そこには狭い部屋と雨音と、プラスチック、空のコップ、ひどく現実的なものしか残っていない。不動はラッコのように冬花の身体を抱えソファに横になった。 「落ちちゃう」 少し嗄れた声で冬花が囁く。しかしもう不動の片足はソファから落ちて、二人も重なったソファには厳しい許容条件を支えている。冬花は自分の両足を、ソファの上に残った不動の足に絡ませた。 「今、なん時?」 冬花の問いに、不動は視線を巡らせる。テレビの上に時計を見つけた。 「四時」 「夕方の?」 「朝な訳あるか」 「どうかしら」 冬花は息を吐き、腕を伸ばして不動の頭を抱いた。 「このまま眠って、起きた時、世界中は洪水で沈んだんだよ、もう一週間経ったんだよ、って言われたら洗脳されちゃうかも」 「なんだよ、それ」 「ひどい雨……」 不動のことが見えていない冬花の指は、額から不動の顔を撫でて唇で止まった。 「これ以外、したくないわ」 今までベッド以外でしたことのなかった冬花の口からそんな言葉を聞くとは思っておらず、不動の身体は素直に反応する。しかし冬花は嫌がりも、笑いもしなかった。顔を撫でていた手は、自分の身体を支える不動の身体を、脇腹を撫でる。 それまで優しく撫でていた手が急に脇腹をつねったので、不動は声を上げた。ようやく冬花が笑った。不動はラッコのように冬花を抱いていた腕を下に伸ばす。 すると冬花が身じろぎをした。 「あ……」 ごろりと転がるようにして冬花の身体は床に落ちる。 長い髪が冬花の表情を隠した。不動はしまったという気分半分、もう半分の思考は冬花と触れていた部分の熱で曖昧になっている。 髪をかき上げ、冬花は床の上から不動を見上げた。二人の視線は、感情というよりも身体の熱と満足感にも似た疲労を溶かし、だらしなく交わった。 冬花は床に這いつくばったまま不動がどこかに飛ばした髪ゴムを探し出すと、立ち上がって髪を結った。レースカーテンの淡い白さに、冬花の裸身がシルエットで浮かび上がる。 「お風呂…」 ぽつりと冬花が呟く。 「それから、どうしよう…」 「したいんだろ」 「お風呂でセックスしたら、今度はなん時になってるかしら」 「時間が勿体ない?」 「ううん」 冬花は振り返り、ソファに仰向けになっている不動の裸の腹の上に上半身を伏せた。 「今日が終わってほしくないの。日が暮れるのが、イヤ」 不動は手を伸ばして冬花の頭を撫でた。冬花は彼女本来の柔らかな淡い笑みを浮かべると、瞼を伏せしばらく撫でられる手に甘やかされていた。 さてと、と起き上がった冬花は風呂を沸かし、二人は言葉で交わしたとおりのことをする。冬花は鼻にかかる甘い声を上げ、不動はもう名前を呼べとは要求しなかった。 風呂から上がった冬花は裸のままリビングに戻り、テレビの上の時計を取り上げていた。もうすぐ五時。不動は服を着ろと自分のTシャツを投げて寄越す。冬花は思いの外素早く振り向き、それをキャッチした。 「私の、パンツ」 「洗濯してる」 「あれ手洗いなのに…」 ちょっと恐い顔で睨まれ、不動は言葉に詰まる。ごめん、と小さな声で言うと、明王君専用だから、また買って、と恐い顔のまま冬花は言った。 不動は黙ってテーブルの上を片付け、髪の毛その他のものが散らばった床を拭いた。その間冬花はTシャツで裸身を隠し、窓から外を眺めていた。レースのカーテンを開けると、雨の降るその景色は思いの外明るく、現実的な風景が広がっているのが見えた。 「なんだか嘘みたい」 「なにが」 「今日が金曜日とか、まだ八月だとか、夕方五時くらいだとか、そういうこと」 その言葉を聞くと、今日はもう一回くらいやるかもな、と不動は思う。 中途半端な時間に弁当を食べたからまだ空腹ではないし、だからと言って今からベッドに行くのも妙な気がする。別に場所はここだろうが、ベッドだろうが構わないと思うのだが。そんなことを考える内に、不動の中にも今の光景と八月金曜日夕方五時の違和感が生まれる。目の前の冬花は相変わらず綺麗で、ガラスにはかすかな鏡像が映っていた。 「冬花」 不動が呼ぶと彼女は振り返り、無表情で、なに、と問い返す。 「俺、チーム辞めた」 「嘘」 冬花は自分の発した一言を疑わぬ素振りで、動かない。 「意味のない嘘」 冬花は繰り返し、手招きする。不動は招かれるままに彼女に近づいた。冬花はするりと腕を伸ばし不動の腰を抱いた。 「今日みたいなことをしたら、赤ちゃんができちゃうわ」 頭一つ下から冬花の顔が見上げ、囁きかける。 「嫌か?」 「そんな嘘ついてたら…、明王君、まさか逃げるつもり?」 「…あのな」 不動は冬花の身体を静かに抱きしめる。 「チーム辞めたのは嘘じゃない」 「………」 じっと黙って冬花は聞いている。 「捨て鉢になった訳じゃねえよ。お前との結婚も考えてない訳じゃない。ただ、今のままだったらお前の親父が俺を殺すだろうけどな」 「お父さんはとっくに知ってる」 「俺が辞めたことは知らねえだろ」 冬花がまた脇腹をつねってきた。不動は黙ってそれに耐えた。 「俺はお前の子どもが欲しい」 耳元に囁きかけると、冬花の身体が小さく震えた。 「つうかお前を俺だけのものにしたいんだよ、結婚して、子ども作って、お前の親父にも邪魔できない、お前も逃げられないくらいお前を俺のものにしたい」 「でも…」 震える声で冬花が言った。 「私のことも幸せにしてくれなきゃ…」 「お前が幸せにしろって言うなら、する」 「当たり前じゃない。物扱いしないで」 今度は強く尻をつねられた。しかも両手でつねられた。不動はやり返そうとして、しかし強く冬花を抱きしめるだけで終わった。物扱いなんかするかよ、と低く呟くと、尻をつねる手が放れた。 雨が小止みになり、街を覆う雲の形が露わになる。風が吹いている、と冬花が呟き、手をほどいた。二人は窓を開け、狭いベランダに並んだ。 「不思議」 冬花は両手を挙げ、伸びをする。 「お昼でも、夕方でもないみたい」 「夕方になる、もうすぐ」 不動は雲の端が淡くくすんだ紫色に染まっているのを指さす。 「ねえ、明王君」 冬花が伸びをした腕を小雨の中に差し出し、言った。 「どこかに連れて行って」 「どこに」 「素敵な場所。それからもう一回プロポーズして。ちゃんと約束して」 腕を引っ込め、冬花は不動に向き直る。 「私、逃げられない。あなたに、はい、って言いたい」 「……その服じゃどこにも」 「タンス、探しましょ」 冬花は小雨に湿った身体で部屋に戻った。不動が適当に服を詰め込むタンスには冬花の普段着も、下着も入っていた。 「貯金、少しはあるの?」 「ま、使わなかった分は」 「クリスマスとか豪遊するタイプに見えるのに」 「バブルじゃねえんだから」 普段着では雰囲気が出ないと冬花は眉をひそめたが、不動はそれをそのまま着させた。服は、出た先で買うつもりだった。レストランは、あのホテルなら予約はなくてもまだ顔が利くだろう。以前鬼道やフィフスセクターの人間と行った場所だ。そいつらに反抗してチームを辞めたのだが、最後の最後くらい恩恵を利用させてもらうことにする。 後ろでは冬花が化粧をしている。不動は指輪の相場を考え、今後の身の振り方と、久遠道也が拳を振り上げて向かってきた時はどうするかをシミュレーションした。 まあ、何とかなるだろう。冬花を手放すこと以上の恐怖など、この世界にはありようがない。 だから、抱きしめて、プロポーズを。 八月金曜日の夜。雨が降っていようが曇っていようが、東京は地上に数多の星がある。何も問題はない。あとはその夜景の中に飛び込めばいい、二人で。 「お待たせ」 冬花がバッグを手に立ち上がった。不動は軽く手を差し出し、冬花を部屋から雨の止みかけた夕景の外へ連れ出した。
2011.8.16
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