可能世界に叶う未来







 ナースキャップを脱ぐ時、ヘアピンがひっかかってしまい結局結っていた髪をほどいた。長い髪が背中になだれ落ちる。服を着替え、買ったばかりのスプリングコートに手を伸ばして、ふとため息が漏れた。
 髪を結い直そうかとも思った。しかし準夜勤の夜は、帰ってももう寝るだけだ。時計は深夜0時を大きく回っている。携帯電話を見ると、隅に小さく今日の天気が出ている。曇り。ここに表示されている今日は、さっき始まったばかりの今日のことだろうか。それとも時計の針が0を追い越すと共に終わった昨日のことだろうか。
 結局、冬花は軽く髪を結い上げた。最近は風が強い。ほどいたままでは、外に出た時に面倒だろう。ロッカールームを出ると、暗い廊下の窓が風に震えた。病院の敷地内の桜が常夜灯に白くぼんやりと輝いている。風の音がすると、花びらが散る。夜の病院はいつまで経っても怖いが、今夜はそれよりも寂しく感じた。
 表に出ると、背後で通用口のオートロックがかかる重い音。
 深夜0時30分過ぎ。
 終電に乗れるかどうかはいつもギリギリだ。走れば間に合う時もあるが、ヒールを履くようになってから走ることはほとんどなくなった。しかし何よりも、通用口から表通りに出るまでの数メートルが怖い。さっきまでは寂しさを感じていた冬花も、急に心細くなった。
 表玄関の横を通り過ぎようとすると、パッシングの光がストロボのように冬花を照らし出した。冬花は悲鳴を飲み込んで、光源を見た。車寄せに一台のアウディが停まっている。
「あ…」
 開いた窓から顔を覗かせたのは不動だった。
「お疲れ」
「明王くん…」
 冬花は数歩駆け寄る。花冷えの夜空にヒールの音が響く。
「どうしたの?」
「待ってたに決まってんだろ。乗れよ」
「えー、お迎え?」
 冬花は助手席に乗り込み、車内が意外に寒いことに気づく。隣で不動がエンジンをかけ、窓を閉める。
「ずっと待っててくれたの」
「ずっとじゃねえよ」
 前を向いたまま答える不動の頬に手を伸ばす。
 指先が触れると、不動はちょっと驚いて横目に冬花を見た。
「…冷たい」
 不動は黙って車を発進させる。
 流石にこの時間、通りに車は多くない。あっという間に久遠のマンションに着きそうになったが冬花は、少しドライブしない、と誘った。
「明日は?」
「夜勤。だからお昼は寝てすごすの」
「12時から仕事とか、きつくねえの?」
 カーブでマンションとは反対方向にハンドルを切りながら不動が尋ねる。
「みんな一緒よ」
「ちゃんと食ってるか?」
 不動は前を向いたまま冬花の頬を指先でつつく。
「知ってるくせに聞くの?」
 不動はよくマンションに来る。父と三人で食事をとることもしょっちゅうだ。彼が日本のプロチームを辞めてからは、特に。
 アウディは夜の街を流れるように海を目指す。ライトアップされた橋や、海面に点滅する何かの明かりを冬花はぼんやり眺める。
「風、強いね」
「ああ」
「桜、全部散っちゃうかも」
「そうか?」
「お花見行ってない」
「病院に咲いてるじゃねえか」
「そうじゃなくて、お弁当持って、三人で行くの」
「監督つきかよ」
「お父さんとのお花見に、明王くんも入れてあげるの」
「俺がオマケか」
 不動が黙るので、冬花は身体ごと運転席に向き直った。
「…怒った?」
「どーして」
「嘘。明王くんと行きたかった」
「リップサービスいらねえし」
「本当よ」
 冬花は手を伸ばし、ステアリングを握る不動の手にそっと添えた。
「こんなことにならなかったら…」
 不動はステアリングから手を離し、冬花の手を取った。
「責めてんの?」
「そんな…」
「いいんだよ」
 そこでふと表情を緩め、不動の視線がちらりと見た。
「言えよ」
 サッカー、と言おうとして言葉が詰まった。その時冬花は、不動が移籍でもなくチームを辞めると聞いた時に感じた冷たいものが、また胸の奥からこみ上げてくるのを感じた。それは心臓に流れ込んで全身をひえさせる、多分、恐怖に似たものだった。
「責めないわ。だって…」
 急に喉の奥が掠れて、涙声になりそうなのを食い止める。
「勝手に、だけど、ちゃんと、考えて、決めたんでしょ」
 ため息をつくと、不動の手が少し力を込めて引き寄せる。冬花は窓の外を見つめたまま、手だけされるがままになる。
「明王くんも、お父さんも、ずるい」
「…監督、何かしたのか」
 雑誌のデートコース特集に載るような、ライトアップされた橋の見える絶好のポイントに不動は車を止めた。しかし車内には沈黙が降りたまま、二人の視線はばらばらのまま。手だけが、しっかりと繋がっている。
「外」
 軽く不動の手が引いた。
「出ようぜ」
 嫌ではなかった。ただ、ほんの少しの間、また手が離れてしまうのが惜しかった。冬花は一度きゅっと不動の手を握った。
「…どうしたんだよ」
 不動が顔を覗き込む。
「お父さん」
 思い出すとまた涙がこみ上げてくるので、冬花は顔を背けた。
「監督、辞めちゃった」
 不動は何も言わなかった。
 何も言わなかったので、その静けさに甘えるように涙が出てきた。唇を噛みしめていると、手が引かれた。冬花は少し強情を張ったが、その手は何度も冬花を引き寄せた。
 とうとう冬花は不動の胸に倒れ込んだ。ボーダーのシャツに顔を押しつける。涙が次から次にあふれ、染みこむ。
「お父さん、平気な顔、してるの」
 不動の掌が背中を軽く叩く。
「あ、あきお、くんも、平気な顔、してた」
 また新たな涙があふれ出す。
 冬花が泣き止むまで、不動は力の抜けていく身体をしっかりと支えてくれた。冬花はいつのまにか安心しきって、不動の胸にもたれていた。
 お前のこと泣かすつもりはなかったんだけど、と不動は言った。
「多分、監督もな」
 フィフスセクターは知ってるな、と耳元で囁かれた。冬花が顔を上げると、不動の真剣な目が見下ろしていた。
「俺は、あいつらの息のかかってないところに行く」
 肩を掴まれる。より身体が密着する。息のかかる距離で、冬花は不動を見つめる。
「一緒に来いよ」
 ちょっと沈黙を挟んで、なんなら監督も一緒に、と付け加えた。
「つーかさ、もう、結婚しようぜ」
 冬花は息を止めて不動の顔を見つめた。不動も息を止めているらしかった。触れ合った胸がどくどくと音を立てる。
 苦しそうな掠れ声で、冬花、と呼ばれた。次の瞬間、冬花は腕を伸ばして不動の首にかじりついていた。
「そんなぁ…」
 思わず声を漏らすと、はあ?、と不動の慌てた声。
「そんなーって何だよ、そんなーって」
「だって、私、もう決めてたのに。お父さんと明王くんを養っていかなきゃって」
「おーい、冬花ー」
「息が、かかってない場所って、ど、どこに行くつもり?」
「イングランド」
「無職なのにー」
「無職って言うな!」
「だってぇ…」
 また涙が出てきて、今度はしゃっくりが止まらない。不動はメロディをつけて、冬花冬花と呼びながら優しく背中を叩いた。
 車をUターンさせマンションへ向かう。途中、コンビニに寄って甘い物をたくさん買った。シュークリーム、エクレア、ロールケーキ、などなど。
 マンションに着いても冬花は手を離さなかった。不動は、このままじゃ降りられねえし、と苦笑しながらも、冬花に手を引かれるまま運転席から助手席に移動する。
「最後のドライブだったんだぜ」
「え?」
「こいつも売る」
「あ……」
 冬花は繋いだ不動の手と指を絡めると、助手席に座った状態の不動の膝の上に乗った。
 もう片手で不動の頬を撫でる。
「ドライブ」
「ん?」
「ありがと」
 小声で囁き、キスをした。不動が手を伸ばしたので、結った髪がほどけた。それでも息のつづく限り、もう少しの間キスをしていた。
 マンションでは足音を忍ばせたつもりだったが、久遠が起きだして――もしかしたら寝ていなかったのかもしれない――不動の姿に、泊まっていくのか、と言う。
「ソファ借りるわ。明日話したいことあるし」
「今、言え」
 威圧感を持って久遠は立ち塞がった。
 結局テーブルの上に買ってきたシュークリームなどなどを広げに広げ、不動は型どおり、正面に向かった久遠道也に向かって頭を下げた。久遠はイングランドの厳しさを滔々と説き、だから私がサポートしてやらなければという義務感に駆られている、と締めた。
「いいから黙って俺と来いよ」
「義父に向かってなんて口の利き方だ」
 冬花は泣きながら父に抱きついた。

 翌朝、三人ともリビングで目覚めた。
 一番の早起きは冬花だった。テーブルの上にはコンビニスイーツの包みと、急遽開けたワインのボトル、ワイングラス二つに、普通のコップが一つ。それらを寝起きのぼんやりした視線で眺める。
「冬花」
 小声で名前が呼ばれ、手が引かれた。床の上から、不動が見上げている。
「おはよう、明王くん」
「おはよ」
 不動は手に取った左手を引き寄せ、指にキスをする。冬花は一瞬だけハラハラしたが、たまらなく膨れた心には勝てなくて、不動の上にかがみ込み額にキスをした。
 久遠道也は気づいていたらしかった。起き抜けからずっと不機嫌だった。不動が、しょーがねーなー、と言って歯磨きをする久遠を無理矢理振り向かせ、歯ブラシを奪い取ってキスをしていた。父が驚きの悲鳴を上げるのを、冬花は生まれて初めて見た。笑いながら、冬花は二人を抱きしめた。
 朝が来る。風は止んでいる。桜はまだ残っているだろうか。
 お弁当、お花見。地球の歩き方、イギリス編を本屋で買おう。アウディを売って。部屋を片付けて。飛行機のチケット。アパート探し。
 何でもできる。
 何でもしたい。
 父が泣きそうな顔をしていた。それは驚いたのでも、ショックでもなく、本当に心から溢れ出すものが父の涙を押しだそうとしているのだった。
「お父さん」
 冬花が呼ぶと、父がしゃがんだ。冬花と不動は両側から彼の頬にキスをした。



2011.7.8