冷たい雨をとかす呪文があれば







 ベッドの上の不動の裸の背中が、ぐっと丸まっている。彼はベッドの端に腰掛けてうなだれている。冬花は服を半ば脱いだ格好のまま振り返り、ふと息を詰まらせた。アパートの居心地の良い部屋は、その瞬間本来の狭苦しく暗い部屋に逆戻りしていた。冬花がやってくる前の、不動の孤独と憎しみの檻だ。
 こんな時、不動は触れられるのを嫌がる。はっきりと拒まれたこともある。冬花はそれ以来、そんな時の不動は放っておくのだけれど、しかしその時、自分は半ば以上服を脱いでしまっていたし、不動の裸の背中は痩せた寂しい男の背中に見えたし、何より部屋は寒かった。梅雨の雨がぬくもりを奪ってしまっていた。
 冬花は最後のボタンを外しブラウスを脱ぐと、そっとベッドに近寄った。不動の背中は動かなかったが、近づく気配には気付いているはずだった。拒むような雰囲気が既に感じられた。
 しかし冬花はベッドの上にのぼり、明王君、と彼の名前を呼んだ。
 返事はない。
 背中だ。ずっと目で追い続けた背中だ。十代も若い頃から孤独と親しい少年であることは、冬花も知っていた。あるいはそれは周囲の知る以上に感じていたかもしれない。
 彼の孤独は手を伸ばさない。彼がそれをするのはサッカーでだけだ。自分以外の十人の仲間が、そして十一人の敵が存在する、あのピッチの上でだけ。それ以外の場所で、不動は自分が孤独であろうと構わないというスタンスをとっている。確かに鬼道との和解や、帝国学園への編入は随分彼の印象を変えることにはなったけれど。
 冬花が感じるのは、自分の胸の奥にブラックボックスが存在していたように、不動の腹の底にも溶けない氷の塊があるのではないかということだった。
 冬花は背中に向けて手を伸ばす。そっと両腕を差し出し、抱きしめる。不動は動かないし、応えようともしない。
 自分の手のぬくもりが、その氷を溶かすことができるのではないか、というのはちょっと理想的すぎて、ドラマ的な考えだった。しかし冬花はどうしても不動の背中を抱きしめられずにはいられなかった。その背中も、腹の底に抱えた冷たい孤独も好きだと思っていたから。冬花は、不動が好きなのだ。
 不動は時々疑っている。と言うか、信じるのを恐れる素振りを見せる。が、冬花はそれを言葉で解消しようとはしない。好き、という言葉は、お互い滅多に口に出さなかった。
 背中に、冬花は自分の身体を密着させる。不動の背中は冷たく、ひえている。雨の冷たさだ。二人で傘をさして帰ってきたのに、まるでずぶ濡れになったかのような冷たさ。さっき、シャワーを浴びたばかりなのに。冬花は頬を押し当て、目を閉じる。
「冷てえ」
 しばらくして、ぼそっと不動が言った。冬花は、何、と尋ねるかわりに目を開いた。まばたきをすると、睫毛が不動の背中に触れた。
 不動が腕を伸ばす。身体をずらすので、冬花の腕はほどける。もたれかかるままに倒れようとする冬花の身体を、不動の腕が支えた。ひえた、腕。
 ブラジャーを外す手を、冬花は黙って受け入れた。積極的に脱ごうとはしなかったから、肩紐が垂れて、胸が半分以上あらわになったところで中途半端に止まる。
 不動が溜息をついた。手が離れようとした。冬花は身体ごと不動にぶつかると、ぐいぐいと彼の身体を押した。不動はおとなしくベッドに倒され、その上に冬花がのしかかる。
「うう…」
 不動の胸の上に突っ伏したまま、冬花はうめいた。その下で肋骨が震えた。途切れ途切れに不動が乾いた笑いをこぼしていた。手が、背中に触れる。それなりの情欲もあるように感じられる。そんな触り方になっていた。
「明王君のせいよ」
 冬花は呟いた。
「明王君が寂しいとか思うから、私にまで伝染しちゃった…」
「寂しいなんて思ってない」
 そう言いながら不動は冬花の首筋を撫でる。
「思ってないけど、寂しかったんでしょう?」
「お前がいるのに?」
 また不動が笑う。震える肋骨の上で、冬花はまたうなる。
「冬花」
 笑いを止めて不動が呼んだ。促されるままに冬花は少し身体を起こした。不動が下から胸に触る。軽く吸い付かれる。
「ねえ…」
 冬花は震えを押し止め、囁く。
「これじゃだめ」
 今度は冬花が促し、不動の身体を起こさせた。ベッドの上に座らせると、開いた膝の間ににじり寄る。
 不動が少し笑った。いやらしいというより、いつもの皮肉な笑みだった。手が、完全にブラジャーを脱がせた。冬花は正面から不動に抱きつき、両手両足で抱きしめた。
「こうするつもりだったの…」
 溜息とともに囁くと、不動も吐く息と共に短く笑った。
「積極的じゃん」
「情熱的、なのよ」
 しかし、喉から出る言葉は情熱と裏腹に掠れた。
「好きよ」
 掠れた囁きが不動の鼓膜をくすぐった。

 シャワーは浴びず、そのままベッドに横たわっていた。雨の音が続いている。二人はシーツの上で軽く手を繋いで、短い言葉を交互に投げ合う。
 冬花が甘い顔で言う。
「はちみつ」
「つみれ」
「れいとうこ」
「コーラ」
「ラフランス」
「すいか」
「カレーライス」
「…腹減ってきたんだけど」
「もう夜中よ、サッカー選手がそんな食事管理でどうするの?」
「お前のせいだろ」
「明王君だって、食べ物ばっかり」
「…水蜜桃」
 不動が言うと、冬花は一瞬きょとんとして、ふわりと花咲くように表情をほころばせた。
「好きよ、明王君」
「このタイミングでか」
「大好きなの」
 冬花は目を伏せ、不動の身体を抱きしめた。
「おやすみなさい」
 頭を軽く、ぽんぽんと叩く感触。それから、おやすみ、という声が聞こえてあたりが急に静かになった。雨音さえも聞こえない。冬花は自分が眠りに落ちたのだと知った。



2011.6.2