逢い鍵の日







 塩ビの床の上に濡れた足で立つ。靴があるから彼女がいるのは分かっていた。先月、合い鍵を作ったばかりだ。
 冬花と奥に向かって呼びかけると少し間があって、明かりの消えた台所から、はあい、と聞こえた。
「タオル」
「今行きます」
 ガタガタと椅子を引く音がした。また、少し間があって、それから足音が近づいてきた。暗い廊下に冬花の姿は白い影のように揺れた。
「どこか悪いのか」
「いいえ」
 冬花はタオルを手渡す前にそれをふわりと広げると不動の頭を拭いてやる。
「冷たい…。すぐお風呂入る?」
「シャワーでいい」
「風邪を引きそうよ」
 時刻は薄暮ほどのものだが、梅雨は全ての光景に薄暗い色を刷いた。
「こんな雨は気をつけないと」
「風呂が沸くのを待つ間に風邪引きそうだ」
 不動は受け取ったタオルで足の裏を拭くとバスルームに向かった。後ろから冬花がついてくる。
「ついでに沸かしといてやるよ」
「えっ…」
 その声に振り向くと、冬花は口元を手で覆っている。
「今日はお夕飯を一緒に食べたら、帰るわ」
「……つれねーの」
 不動は一瞬諦めかけたが、不意に翻意して振り返ると冬花を抱きしめた。耳元に小さな悲鳴。冬花の肌も少しひんやりしている。
「冷たいな」
「…そんなことないわ」
「待ちくたびれて寝てたのか?」
 どうして分かったの、と小さな声が尋ねる。不動は目の前の長い髪の匂いを、わざと鼻を鳴らしてかぐ。
 「そんな匂いがする」
 不動の全身を濡らした雨は、冬花の服にも染み込んだ。じわりとした冷たさが伝播する。抱きしめた腕の中、冬花が鳥肌を立てる。
 ようやく不動は腕をほどいた。
「そんな格好じゃ、風邪引くぜ?」
 不動は笑う。濡れた服に手のひらをあて、困り顔の冬花が溜息をつく。
 淡い光がバスルームに満ちた。暖色の電気はもうもうと立つ湯気に拡散し、六月の雨の気配から二人を隔てる。
 不動は冬花を座らせ髪を洗ったり背中を流したりした。冬花が交代すると言うと存外に強く、ダメ、という返事。
「どうして?」
「だってフーゾクみたいだろ」
「…それは不動君のせいだわ」
 それでも冬花は不動の背中を流した。次の誕生日で二十歳だ。周囲の選手に比べれば細身だが、しかし冬花にしてみればその背中も広い。
 不動はさっきまでまだ平気だったのに、背後に冬花の裸身があると思うと意識がそちらに集中しそうで、ぼんやりと宙を眺める。しかし努力むなしく、肩を跳ねさせることとなった。湯で洗い流された背中一面に、柔らかなものがぴっとりとくっついた。
「……おい」
 首に絡みつく白い腕。
「その気になっちまうぞ?」
「ダメ」
 今度は冬花が強い口調で言った。
「…でも、もう少しこのままでいさせて」
 言葉と共に、うなじに顔が埋められた。
 とうとう不動は観念せざるを得ない。しかし残った理性を総動員し、冬花の望みを叶うべく、自分の欲望を抑えつけた。
「冬花」
「なぁに」
 廊下で聞いたようなぼんやりした返事が、自分のうなじに向かって呟かれる。
「先に、上がれよ?」
「…不動君はどうするの?」
「決まってんだろーが」
 くすくすと冬花は笑った。

 遅れて、不動はバスルームから出た。脱衣場の狭い窓から覗くと、外はもう真っ暗だ。雨の音がする。
 今は狭いダイニングキッチンにも明かりが溢れている。テーブルの上の夕飯は湯気を立てている。冬花は不動の服を借りていた。
「これ、借りて帰っていい?」
「…結局帰るのかよ」
 鬼だな、と呟くと、つつ、と冬花が近寄りキスをした。それはしばらく続き、不動はやけくそのように冬花を強く抱きしめた。痛いであろう力を加えられても、冬花は笑っていた。
「今度はお泊まりする口実を作って来るわ」
「…おう、めちゃ期待するからな?」



2011.6.2