about No.10







 放課後、常ならば練習のかけ声、キャプテンである神童の指示や三国の檄が飛ぶサッカー棟だが、今日は人っ子ひとりおらず、静かだった。自主練する姿さえない。この大所帯のサッカー部で、休日でさえ見かけることのない景色だ。
 南沢はスパイクではなく通学用の靴で、すっかり見に馴染んだ人工芝のピッチを踏みしめた。
 雷門中学サッカー部。
 自分がいる場所のことを南沢はよく分かっている。ただのサッカー部ではない。かつて伝説のイナズマイレブンを生み出した名門中学サッカー部だ。
 だからこそ、ここにいる。だからこそ、ここでサッカーを続けている。雷門サッカー部の10番だからこそ、南沢はサッカーをしている。
 サッカーが特に好きではないという言葉も、内申書のことも本当だ。そのうまみを考えなければ続けてはいない。他校以上にレギュラー争いは過酷だ。ファーストの10番を着ている、それだけでは身の安定を得たとは言わない。立場は常に脅かされる。試合にフルタイム出場し続けることだって易くはない。スタメン出場することが常だから、フルタイム出場できなければそれは途中交代させられたということになる。監督がそう判断し、その場にもっと有用な選手を投入する。適材適所。監督は何を考えているか分からないと言う部員は多いが、南沢にすればごくシンプルなものだと思う。勝利のために最も有効な手段を講じ、最も適した選手を配置する。だからこそ。
 10番、南沢篤志。
 そう呼ばれた日のことを忘れない。監督の声。周囲のざわめき。全て覚えている。この瞬間のことは、何度思い出しても気持ちがよかった。
 雷門サッカー部の10番。 その価値を南沢は分かっている。有象無象と数えられるほどの雷門中サッカー部部員の中からたった一人選ばれる存在。監督は俺を見ていた。俺を認めた。俺を指名した。その誇らしさと興奮を隠して、正面から監督と目を合わせた。相手は何度もやってきたことなのだろう。雷門中サッカー部の監督に就任してもう十年近く経つという話だ。何十、何百人という選手を見、十を優に余る人間を10番に指名してきた。しかし今、ここにいる雷門サッカー部の10番は俺だ。監督が呼んだこの名前、南沢篤志だ。
 あの時は久しぶりに気分がよかった。
 南沢は久しぶりに思い出すあの日に、腰掛けたベンチの上でほんの数秒遠い目をした。
 今日、目の前で繰り広げられている試合に自分はいなかった。ピッチの上にこの姿は残らなかった。
 交代。
 あんな、部員でさえない一年。ド素人と交代。
 監督は俺を選んだんだ。
 南沢はちらりと横目に監督の立っていた場所を見た。相変わらず表情から考えを読むことはできなかった。顧問との話を盗み聞けば、あのド素人に何か可能性を見出したらしいが。
 同じFWでも二年の倉間ではなかった。交代させられたのは自分だ。自分という歯車を外して、適材適所の明確な判断基準を無視して曖昧なものに勝利を賭けた。フィフスセクター相手に。
 俺の中学サッカー生活、これで終わったかな。内申書。進学就職に有利なサッカー。雷門中サッカー部、10番。
 この二年間の成績だって悪くはない、か。あの後もあそこに立っていれば、ボロボロにされていたはずだ。負けると分かっている試合で、あそこまで傷つく必要はない。交代はラッキーだった。
 …本当か?
 ダサイな、三国。ぽんぽんゴール決められてるなよ。
 神童、名前負けかよ。キャプテンが膝をついて何やってるんだ?
 が、応援の言葉も出はしなかった。それら全てむなしい。
 10番は、ベンチに座っていたのだ。
 サッカー。
 サッカーサッカーって。
 自分が何故ここにいるのか、南沢は一瞬、見失い、瞼を閉じた。
 再び開くと目の前には緑色のピッチがあった。監督の背中があった。
 南沢はまばたきをして、顔を上げた。それは幻でもなく、監督の久遠の姿だった。
「今日の交代、不服だったようだな。南沢」
 背を向けたまま言う。監督は、その声からも表情を窺わせない。
 監督が見ていないのは分かっていたが、南沢は物わかりのよさそうな微笑を浮かべた。
「…交代が平気な選手なんかいませんよ、監督」
 自分がシュートを決めることの出来なかった試合の結末はサッカー部存続というものだった。救ったのは神童。そして。
 南沢はベンチから立ち上がり、背を向けた。部に残ったからと言って、自分を褒めてくれるような監督ではない。もうこれ以上の言葉は望めないだろう。今の自分、雷門中サッカー部、10番…。
「南沢」
 監督の声がした。南沢は足を止めて振り向いた。
「もう遅い。気をつけて帰れ」
 時計を見れば日も暮れる時間だ。ただそれだけのことだろう。
「はい。失礼します、久遠監督」
 背中に視線を感じた。監督は自分を見ている。
 しかし南沢は振り返らなかった。
 サッカー棟から外に出ると早い夕空に冷たい風が吹き渡った。しかしそれに乗せてグラウンドを使う野球部や陸上部の声が聞こえてきた。南沢は自分の足下を見た。そこにサッカーボールはなかった。



2011.5.21