何も知らない夜だから







 低いうめきが心の底に言いしれぬ満足感を与えた。
 不動は自分の中から退いた男に向かって手を伸ばす。腹が平らであることは彼の齢も考えれば褒めてやらねばならない。毛の生え際に触れると相手がこちらを見る視線を感じた。コンドームをしたままのそれを指でなぞる。今はもうおとなしい。不動はそれをぺちぺち叩き、へらりと笑った。
 昨日の寒さからまだ毛布を片付けられずにいたのに、今、こうして裸で横になっていても寒くない。それはまあセックスの後で、汗さえ乾ききっていない身体ではあるけれども。
 横になって目を瞑っていると、ゴミ箱にコンドームを捨てる音や、立ち上がる足音が聞こえた。ふ、と不動は笑った。久遠はマメな男だ。これだけの気遣いができるのに結婚できないのは社会的に惜しいだろう。自分としては好都合。
 湯で絞った温かいタオルが身体を拭ってくれる。足の間を触られても抗わず、不動は淡く笑みを浮かべて瞼を開いた。どんな顔をしているかと思えば、相変わらずの無表情だが。
 しかし久遠の手は優しく、その心地よさにこのまま寝入りそうになる。
「寝てもいいぞ」
 察したかのように声が降ったが、首を振る。
 手を伸ばしてタオルを奪い、久遠が立ち上がろうとしたところを抑える。ふらふらとバスルームまで歩いた。
 洗面台の鏡に、惚けた顔の自分が映っている。腕を伸ばし、身体を捻ると、久遠のつけた痕が点々と残っている。不動の表情はまた満足に満ちた。
 同じようにタオルを湯で絞り、布団まで戻ってくる。久遠は胡座をかいて待っている。
「寝ろよ」
 背中を軽く足の裏で押した。久遠は大人しくそれに従った。
「肩、こってんな」
 俯せた背中に馬乗りになり、手のひらで撫でる。抱きしめている時は気づかなかったが、随分こっている。
「ストレス?」
「監督をやる以上つきものだ」
「フユカイ校長、だっけ。昔、円堂から聞いたことあるぜ」
 暑いタオルでぐいぐいと背中を押すと、久遠が低く声を漏らした。
「仕事の話はベッドには持ち込まない」
「アメリカのドラマみてえ」
 不動は広い背中を拭き終えると、「尻」と笑って、わざと揉んだ。後ろ手に久遠が怒った。
「あんただって触ったろ、俺の」
 笑いながら拭いてやる。
 冷めたタオルは洗濯機に放りこみ、不動は久遠の背中の上にぐったりと腹ばいになった。
「きもちいー」
「…重いぞ」
「このまま寝るかも」
「おりないか」
 久遠が身体を傾がせ、不動は滑り落ちる。不動はけらけら笑いながら足を久遠に絡ませた。
 小さな明かりに久遠の顔を見た。疲れているように見えない。見せない。昔からだ。つらさも、苦しさも見せようとしない。
 不動は手を伸ばし、口髭に触れた。
「伸びた」
「そうか…?」
「また俺が整えてやるよ」
「このまま伸ばすのは嫌か」
「ざわざわ触る」
 言いながら不動は、相手の手に引き寄せられるままにキスをした。
「痛い?」
「痛かねーけど」
 肩が冷え始めていた。久遠が布団を引き上げた。
 痺れると言う久遠に無理を言って、少し腕枕をした。
 間近で見る顔。やつれている、というほどには見えないが、それでも出会った頃よりは老けた。勿論十年という時間の重みは自分の身体でも思い知っているが、久遠が老けたのは歳月ばかりが原因ではないだろう。
 まだ雷門にいるということ。あのサッカーに携わっているということ。
 休みを合わせるのも一苦労だ。会えば会ったで自分はセックスをしたくなるのだが、久遠はもっと違う時間を過ごしてもみたいらしい。どうせヤることは一緒なのに、と不動は笑う。
 会える時間が短いほどに、全ての行為が貴重だ。セックスだけではない。生活の一呼吸一呼吸に二人の時間を覚え込ませる。共に食事をすること、風呂に入ること。
 ヒゲ、と不動は口髭の生えた久遠の唇の上に触れた。
 これを整えるのも不動がやる。最初はおもしろ半分だったが、剃刀一つにも宿る久遠との思い出が愛しくて。
「ヒゲ、明日な」
「ああ…」
「逃げるなよ」
「ああ」
 次こそ失敗しねえから、と眠気混じりに呟く。久遠は返事をしなかった。
 おやすみは言わなかった。いつの間にか、二人とも眠りに落ちていた。毛布なしでも暖かな夜だった。
 春がやってくる。四月がやってくる。
 新たな季節がすぐそこまで来ている。



2011.5.6