unvanishable bind
秋空に天の高さを知る。実に気持ちのよい午後であり、日暮れなど永遠に訪れないかのような青天は地上の塵埃に穢れることなく、遙か高みにて輝いていた。 かつて人間がバベルの塔を建設し神に近づこうとしたように、何事も高きに存在し、目指されるのは頂である。久遠は眼下のグラウンドを見下ろした。四階建ての校舎から見下ろせるその景色は、彼の記憶とある一点において全く異なっていた。 木戸川清修。 サッカーの名門校だった。 過去形である。 名門と呼ばれたここでさえ、今、ボールを蹴る少年の姿を見ることはできなかった。まして、他の公立校は勿論のこと。河川敷や空き地でさえも、その光景は消えている。 久遠は木戸川清修中学の校舎の屋上に佇み、サッカーの消えた光景を見つめていた。脳裏には、瞼の裏には、今でも浮かぶその姿や歓声。十年間、いつか取り戻せるだろうと信じ、ひそかに研鑽を積み重ねた果てに広がっていたのは、しかし芝の手入れさえ無残に、泥に汚れたピッチである。 手が懐を探った。しかし煙草は見つからなかった。久遠は手すりにもたれかかり、天を仰いだ。 一体、いつからこうなってしまったのか。 最初に気づいたほんの小さな引っかかりは、一人の中学生の行方不明事件である。東京、雷門中の男子が行方不明になったという事件は、事件と事故の両面から捜査を…、とお決まりの文句で締めた報道の後、展開や続報がある訳ではなく世間から忘れられようとしていたが、久遠は更に一歩踏み込んで調べ、行方不明の生徒がかの円堂大介の孫であることを突き止めた。サッカー界に身を置いていれば、聞かぬでは済ませられない名である。 その件を頭の隅から追い出せず迎えた今年のフットボールフロンティアは意外な出来事の連続だった。四十年間無敗を築く帝国学園の出場辞退、新興勢力の台頭。大番狂わせの予選の後、いよいよ全国大会を迎えるとなった直前、大会の中止が決定した。調べると地方では地区予選から行われなかった県もあるようだ。異常な事態が目の前に繰り広げられていた。 サッカーが消えようとしている。 久遠はそう感じる。まるで地の底、闇の中から手が伸ばされ、サッカーが一つ一つ握り潰されていくような。ひどく嫌悪を感じながらも恐れずにはいられない。 やがて異常はサッカーから滲み出し、世間の日常までじわじわと侵食している。近頃、盛んに唱えられる富国強兵論。まるで時代を一世紀も遡ったようだが、事実それは間近まで迫っていた。娘の冬花が通う学校からも、今年は入隊希望者が出たと言う。それどころか授業の内容そのものも変わりつつある。 二階堂からの電話は、ちょうど久遠が久しぶりに煙草を取りだし、苛立ち紛れに吸い殻を増やしていた夜のことだった。 煙草の匂いと共に彼を思い出した。笑顔や、背中を叩く手の強さ。 二階堂の声は久遠を落ち着かせた。久遠が知り得た情報を話そうとするのを、彼は押し止めた。 「らしくないじゃないか、道也」 自分でも意外なほどの軽率に気づき、久遠は口を噤んだ。 そう、既に周知の事実となってしまった、そして国民が慣らされてしまった事実があった。 全ての電話は盗聴されている。 二階堂は他愛のない話をし、夜中だというのに馬鹿笑いで受話器を震わせ、そして久遠をデートに誘った。 「旧交をあたためなおそう、思い出の場所で」 木戸川清修。四階建ての校舎からかつて見下ろした名門サッカー部の練習風景。まだ若い久遠の憧れた監督が率いるチームと、その指導。ほら、とグラウンドをさす二階堂の指には煙草があった。意外な気がしたものだった。それから久遠は煙草を始めた。 ふと鼻先を煙草の匂いがかすめた。青空に、紫煙。 「待たせたな」 二階堂が階段を上って姿を現した。くわえ煙草に、両手をジャージのポケットに突っ込んでいる。 「待った、と言うほどでは」 久遠はグラウンドを振り向く。 「見るべきものもなくなったのに?」 「見せたいもの、でしょう」 久遠が言うと、二階堂は目を丸くした。 「あなたの見せたいもの」 すると二階堂が珍しく目に険のある光を宿らせた。 「そうさ」 口元が少し歪み、揺れた煙草の灰が落ちる。 「…一本いただけませんか」 「ふうん…。禁煙したと思ってたけど」 「最近」 二階堂がポケットからくしゃくしゃの煙草を取り出す。 「ぶり返しまして」 久遠は一本受け取り、もう一歩、二階堂に近づいた。肩を掴み、顔を寄せる。よれた煙草の先が、短くなりかけた二階堂の煙草に触れ、火が移る。すぐそばで、火薬の燃えるぱちぱちという音がする。 火を吸い付けた後も久遠は掴んだ二階堂の肩を離さなかった。 二階堂は俯き加減に呟く。 「近寄りすぎても不自然だ」 「デートなのに」 「地上から見えなければいいという話でもないさ。昨今は天にも目がある」 「衛星が…?」 久遠は片目で天を睨みつけた。蒼天はどこまでも済み、その果てに浮かぶ人工物の姿は肉眼で捉えることはできない。 「東京だけにとどまらなくなった。この話は前の校長からでね。あの人も最後までサッカー部の存続には尽力してくれたんだが…」 「自ら辞任したのでは」 「まさか、お前までそんな脳天気なことは考えてないだろう、久遠道也ともあろう男が」 二階堂は久遠の手から離れると手すりに手をかけ、荒れたピッチを見下ろした。 「誰かがサッカーを潰そうとしている。日本からサッカーを絶滅させようとしている」 「おい…」 今、衛星のことを口にしたばかりの二階堂が言うには不用意な科白だった。しかし、二階堂は振り向き両手で手すりを握り締め、久遠に向かって叫んだ。 「サッカーが好きで何が悪い!」 目は芯から真面目なのに、それはやはり笑顔で、久遠はかつて彼に激励された日々を思い出し、またピッチから見る監督としての彼はこうだったのではないかと思った。 「道也」 二階堂が呼びかけた。 「つらい十年だったな」 「………」 「たまには口に出して言ってくれていいんじゃないか」 「…辛いかどうかなど、たかが主観にすぎない」 「強情っ張りめ」 二階堂は勢いよく手すりから離れると、抱き寄せるというより掴んで引き寄せるように久遠にキスをした。それは唐突で、久遠は吸いかけの煙草をいつはじき飛ばされたのかも解らないほどだった。 煙草くさいキスは懐かしく、十年前と同じ味がした。久遠は、衛星さえなければ、と頭の隅で思いながら片手で二階堂の尻を掴んだ。 「…おいおい」 「何か?」 「何か、じゃないだろ」 二階堂は笑い、久遠の頭を軽くこづいた。 「その気にさせるなよ、バカ」 「その気になってくれて構わない」 久遠はごく真剣に返した。 「階段に行きますか」 「だから…こらこら」 二階堂は久遠の頭を二、三度叩く。 「綺麗に別れさせてくれよ、道也」 「別れる?」 「逃げろ」 二階堂は低く囁いた。 「お前は逃げろ」 「…どこへ」 「日本の外、まだサッカーが生きている国へ」 「何だって?」 「一度も考えなかった訳じゃないだろう?」 二階堂は苦笑し、力の緩んだ久遠の腕から抜け出した。 「十年待ったんだ。サッカーをするために、サッカーを面白くするために、お前は十年待ち続け、力を蓄えた。それを発揮しなくてどうする」 「お前をっ…」 口からは思わず十年前のままの言葉がついて出た。 「お前を、置いて…」 「そうじゃない。娘を連れて、だ。大切なのは振り返ることじゃないと、十年前お前は決意したじゃないか」 「しかし」 「お前の選手になるだろう可能性の萌芽は、もう海の向こうにしかない。俺は現役でこの場にいるから、余計に分かるよ。俺にとっても今の選手達が、最後の選手だ。でもお前は違う。海の向こうで可能性が待っている。そして守るべき人間がいる。娘を、このままこの国に置いて無事で済むと思うか?」 「お前は…残って何をするんだ」 「俺の大切な人を守るのさ。俺の選手達はまだサッカーを諦めていない。それに」 二階堂は背を向けたまま、わずかに背を丸めた。紫煙が再び吐き出された。 「俺は有望なサッカー指導者をなくしたくないと思っているんだ。その為に全てをやる。悔いはない」 沈黙の間、紫煙は静かに青空へ向かって立ち上った。 二階堂はちらりと振り向くと、相好を崩し、おいおい、と言った。 「なんて顔をしてるんだ」 まるで子どものように頭を撫でられた。久遠は少し俯き、私は、と呟いた。 「時々、自分が嫌になる。今は強烈に嫌だ。お前の話を聞き、私は既に決断してしまっている。お前を……」 先の言葉を言い淀むと、また二階堂から唇が触れた。煙草を持った手が首を抱き寄せる。 「それでこそ久遠道也という男さ」 唇を離した二階堂は囁いた。久遠は苦しげに呻き、呟いた。 「一緒に、逃げて、くれないか」 「バカ」 笑った二階堂はもう一度唇を触れさせた。 「一人で行くんだ、道也。冬花ちゃんはもう空港で待っている。早く迎えに行って、抱きしめてやるんだ」 「修吾」 「下、囲まれたらしい」 同時に階段を振り向いた。そこはまだ静かだった。だが、静かすぎるというものだった。物音一つしない。 「いいか道也、必ず空港に辿り着くんだ」 「…ああ、必ず」 その返事を聞いた二階堂は、よし、と教師の顔で笑い、銃を取り出した。 「…本物か?」 「訓練を受けて携行を義務づけられたこれが役立つのが、この場でよかった」 二階堂は久遠の前に立つ。 「ついてきてくれ。そして合図をしたら振り向かず外へ向かって走るんだ」 「…分かった」 屋上から二人の人影が消えた。そこに残されたのは果てなき蒼天と、まだ火の残る煙草だけで、紫煙は秋の風に吹かれてゆらりと立ち上り、やがてかき消えた。
2011.5.6
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