エピローグ







 長く降り続いた雨を押し流すかのように、強い風が吹いていた。
 円堂の息子は門前で立ち止まり、細い木を見上げた。
「夜合ですね」
 手を繋いだ五歳になる娘がピンク色の花を指さす。円堂は抱き上げてその花に触れさせてやりながら言った。
「久遠のマンションのそばでも咲いていましたよ」
「入れよ」
 不動は一足先に家に上がり、キッチンに向かった。ポットの中には朝沸かした湯が入っていたが、新たにコンロで沸かし直す。
 二人も上がってきた気配がしたので声をかけた。
「縁側、開けておいてくれ」
「湿気が入りますよ」
「もう晴れるだろ」
 部屋に光が射す。久しぶりの梅雨の晴れ間だった。
 四十九日の法要が終わり、納骨も済ませた。涙雨が、参列者の帰る頃に上がったのは冬花らしい気遣いだろう。
 コーヒーを出し、少女の前には砂糖とミルクを置いてやる。
「おじいちゃんにありがとうは?」
 円堂が頭に手を添えると、少女はにっこり笑ってありがとうを言った。
「おじいちゃんじゃねえし」
 不動は向かいに腰掛けながら言う。
「やだなあ、お父さん」
「お前、義理の義って字つけずに言ったろ」
「当然ですよ、名実共に親子になったんだから」
 母さんの夫なら、お父さんでしょう、当然、と円堂はコーヒーを飲む。
「これが二十年早かったら、リーガ・エスパニョーラの不動明王がお父さんだって自慢できたのになあ」
「そのくせ上手くないって弄られたんじゃねえのか」
「それはそれ。また人生も違ったかもしれないじゃないですか」
 コーヒーが熱いらしく、隣で少女が四苦八苦している。円堂はそこにミルクをもう少し足して息を吹きかけてから娘に渡した。
「…安心しましたよ、存外元気そうで」
「もっとしおらしくしてりゃよかったか?」
「そんな不動明王は見たくありませんね」
 円堂はちらりと横を見た。キャビネットには円堂家の家族写真、久遠道也の写真、そして冬花の若い頃の写真が飾られている。
「トマティーナですっけ」
 一つの写真を取り上げ、たった二、三年前の話なのに、と円堂は目を細めた。
「昔はトマト嫌いだったんですって? お父さん」
「誰から聞いた」
「母さんと言いたいところですが、あなたのことを知っている人全員から聞きましたよ。全員、あなたのこととなると嬉々としてこの話題を持ち出すんです」
「…鬼道クンの顔がまざまざと浮かぶぜ」
「ええ、実にいい笑顔で話してくだいました」
 そう言う円堂もまた、にやりと笑った。
「僕が学生の頃、母さんはほとんどあなたの話はしなかった。でも、テレビでトマティーナの映像が流れた時だけは吹き出して、笑ったんですよ」
 コーヒーを飲み終えたらしい少女がもじもじとしている。
 不動が外へ促すと、喜んで駆けていった。
「おとうさん、おふね!」
 庭から元気な声が聞こえる。
 不動は縁側から足を下ろして腰掛け、円堂はその隣に胡座をかいた。
 スーツの内ポケットから煙草を取り出すと、円堂が驚いた。
「お父さん、吸いましたっけ」
「滅多にな」
 先まで人が集まっていたため、部屋の隅には灰皿が残っていた。円堂は手を伸ばしてそれを引き寄せた。不動は軽く礼を言ってそこに灰を落とした。
「…似てるな」
 不動が呟くと、円堂は深くうなずいた。
「ええ。親よりも母さん似です、あの子は」
「サッカー、興味あるのか?」
 転がっていたサッカーボールを蹴る姿を見て、不動は言う。
「稲妻KFCに如月さんっていう熱心な女性指導者がいて。女の子にもサッカーはできるって言われて、その気になったみたいです」
「時の首相もしてたくらいだからなあ」
「その塔子さんが、先日、連絡をくれました。円堂守の件で」
 円堂は実の父の名を呼び、僕にも一本、と手を出した。
「吸うのか」
「お父さんが吸ってるのを見たら吸ってみたくなりました」
「大して美味くもねえぞ」
 不動は短くなった自分の吸いさしを灰皿に置き、一本取り出して円堂に渡した。円堂はぎこちない手つきでそれをくわえる。
 火を点けると円堂は軽く咳き込んだ。それを見て、不動は少し笑った。
「円堂守は」
 円堂は煙草を口から離し、海の彼方に目をやった。
「サッカーをしていたようです。世界中で」
「あいつらしいな」
「今日は母さんにその報告もしに来たんですが」
 大きく息を吐き、円堂は軽く仰け反った。
「…知っていたでしょうね」
「多分な。冬花はずっと知ってた」
 吸われることなくフィルターまで燃え尽きた煙草が灰皿の底に転がった。
 爽やかな風が煙草の匂いを吹き消した。空は大きく晴れ、見下ろす瀬戸内海はきらきらと光った。
「これからどうするつもりですか」
「…どうもしねえよ。毎日起きて飯食って生きるのに精一杯だ」
「復帰しませんか」
 円堂は身体を起こし、縁側の外にあったサンダルを履いて庭に出た。
 そして正面から不動を見つめた。
「帰ってきませんか、サッカーに」
「…俺は次で還暦だぜ?」
「齢がなんだって言うんです」
 円堂は腕を組む。
「それにあなたはサッカー以外にやることなんかあるんですか?」
「言うなあ、お前…」
 不動は溜息を吐く。
 目の前の男が円堂そっくりと言うより、円堂そのものに見えてきた。
「大体、雇われなきゃ監督もできねえよ」
「ところが、僕は今、サッカー協会に勤めているんですよ」
 丸い瞳が真剣に不動を見た。
「代表監督になりませんか」
 不動は一瞬止めていた息を吐いた。
「鬼道顧問も推薦しています」
「おいおい……」
「伝説の円堂守と同じチームで活躍し、久遠道也のサッカーを受け継いて、今尚第一線に立てる人間がどれだけいると思います?」
「待て…」
「待ちません。そもそもあなたは嫌なら嫌と一言目に言う人間です。もう心の中では決めているのでは?」
「…若造が知ったような口を」
 ふふん、と円堂は笑い、自分の娘を振り返った。
「次の世代に見せてください。あなたが母さんに見せてくれたものを、もう一度」
 円堂が名前を呼ぶと、娘は小さな足でボールを蹴った。少女の蹴ったボールは不動の足下まで転がってきた。

 返事は後日すると言って、不動は円堂父娘を見送った。
 夜合の木はそろそろ葉を閉じようとしていた。
 不動はそのまま広い庭に周り、瀬戸内の夕景を眺めた。
「冬花」
 胸の上に手を当てる。
「お前はどうだ?」
 もう一度、サッカーを。
 もう一度、世界へ。
 優しい風が吹き抜ける。不動は足下のサッカーボールを拾い上げた。スーツが汚れるのも構わず蹴り上げる。革靴だが、想像したよりリフティングを続けることができた。
 もっと一緒に見たい景色があった。
 同じ物を見て、思ったことを口に出す。楽しい。嬉しい。隣で彼女が笑う。細い手で自分に掴まっている。そんな日々が。
 不動は軽く伏せていた瞼を開く。
 もうどこへでも連れてゆける。どこへでも連れて行こう。二人とも知らなかった未来へ。
 日が落ち、不動は家に入った。
 灰皿に残った吸い殻を捨て、コーヒーカップを洗う。水に濡れた手を拭いていると、ふと優しい気配がして後ろを振り返った。
 淡い残照の景色が縁側の向こうに見えた。空一面が、景色が夜合の花のような色に染まっていた。
「冬花」
 不動は声に出して呼び、優しく微笑みかけた。



2011.5.5