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遠距離恋愛編5
冬花が隣にいる生活を想像したことがない。 そんな夢のようなものを思い描けば、瞼を開いて現実を目の当たりにした時、いっそう物寂しさが迫るに決まっているからだ。 不動は静かに瞼を開く。 夜明け前のほの暗い部屋の輪郭が浮かび上がる。 枕。肩からずり落ちたシーツ。 薄墨で描いたかのような輪郭にそっと手を触れる。 丸い肩。細い首。長い髪が流れる。 冬花。 不動は、起こさないようにそっと指の背で眠る冬花の頬を撫でた。 自分も年を取った。冬花も年を取った。目尻の皺。髪に混じる白髪。 美人だ、と思う。 不動は微笑み、静かにベッドから下りた。キッチンで湯を沸かしながら、自分は歯ブラシをくわえてうろうろと歩き回る。結局、寝室に戻ってきて、冬花の寝顔を見下ろした。 冬花はベッドの、自分が寝ていたくぼみに手を置いていた。そっと手を滑り込ませると、きゅっと軽く握られる。 「おはよう」 歯ブラシをくわえたまま、不明瞭な発音で言った。 冬花は薄く目を開け、不動を見上げて笑った。 「おはよう」 掠れた囁き声。 二人は顔を見合わせて笑った。 カーテンの向こうで夜が明けようとしていた。冬花は不動に手を取られて起き上がった。 不動はうがいをしに洗面台に向かう。冬花はキッチンでコーヒーを淹れる準備をする。テーブルの上におそろいのカップを二つ。しゅんしゅん言い始める音を背に、冬花は窓から街を見下ろす。白い壁の家々。石畳の道。花売りの屋台が歩いて行く。オレンジ色の花が山と積まれている。 冬花は窓辺を離れると火を止め、コーヒーを淹れる。不動がやってきて、キッチンテーブルに腰掛ける。冬花は向かい合わせに座り、自分のカップを手にする。湯気を越して、相手の顔が見える。 「ふふ」 冬花が声に出して微笑んだ。 「何だ」 「とうとうあなたと夫婦になってしまった」 「なってしまった、ってなんだよ」 不動は年甲斐もなく唇をとがらせる。 スペインのこのアパートに住むようになってもう一年だ。壁には円堂家と撮った写真、まだ若い久遠とウェディングドレス姿の二十二歳の冬花の写真、そして久遠道也と三人で撮った最後の写真が並んでいる。 「ううん」 俯いて呟く小声には涙が滲んでいた。 「今でも、夢みたいで」 不動は手を伸ばし、冬花の目に滲んだ涙をぬぐった。 「俺もだよ」 冬花は不動の手をとり、そっと頬ずりした。 不動冬花と名乗って四年。 うち三年を監督業を続ける不動についてスペインに渡り、もう一度優勝を経験した。冬花にとっては初めての経験だった。冬花は玄関先で不動を抱きしめ、何度もおめでとうを言った。すごいすごい、よかった、と繰り返した。 二人は生活の中で歓びを惜しまなかった。その様子を見て、旧友の鬼道は目を丸くしたものだ。 「変わるものだな」 誰も信じないかのようと評された男と評した女が、まさか本当に結婚するとは、かつての天才司令塔も予想がつかなかったらしい。円堂ジュニアだけは訳知り顔の笑みを浮かべていた。 五年目に入ろうとする夏、冬花は急激に体力が落ちた。初めは暑さのせいだろうと冬花自身、特に気にする様子ではなかったが、それはそう見せなかったというだけだ。不動が病院に連れて行った。 医師の説明は二人で聞いた。 アパートに帰った二人はどうするかを話し合った。不動のサッカーの邪魔はしたくないという冬花の思いは強かったが、ケンカになる前に違いの気持ちを確認し合った。二人の共通の願いはできるだけ長く、一緒にいることだった。 監督を辞めて日本に帰国したのは、まだ暑さの残る九月のことだ。 愛媛で暮らしたいと、冬花が希望した。不動は遺された実家と土地を売り、瀬戸内海の見下ろせる郊外の高台に家を買った。本当はもっといい家も買える。しかし冬花は小さな家がいいと言った。 「だって広すぎると迷子になるもの」 「そこまで豪邸は作れねえよ」 庭は少し広くとった。冬花はそこに花壇を作るつもりだったが、断念して玄関に鉢を並べる程度で満足した。 何故かと言うと、不動が地元の小学生チームを指導するようになってから、そこは未来のプロリーガー達のたまり場になってしまったからだ。しょっちゅうボールが飛んでくる庭では鉢も割れてしまう。 「うるさくて悪いな」 不動が言うと 「ちょうどいいじゃない」 と冬花は笑った。 結婚した時点で、もう子どもをどうこうという齢ではなくなっていた。それでも、もし若いうちだったら、と思う。口には出さないが、お互い、そう思っているに違いなかった。 不動は自分が子どもを欲しいという欲求を持ち得たことに驚いた。そして改めて、心の中で母に詫びた。 冬花の身体は癒えた訳ではなかったが、しかし穏やかな日々が続いた。 不動はようやく冬花に向けて思い出話をするようになった。スペインでの日々も、十代の頃のことも、そして出会う前のひたすらに隠してきた過去の話も。そんな時、冬花は決まって不動の手を握り、ただ黙って話に耳を傾けた。手を繋いで眠ることもあれば、冬花が自分の胸に不動を抱き寄せて眠ることもあった。 他愛のない話。目玉焼きにかけるもののこと。スペインで二人一緒に旅行したバルセロナ、アンダルシアの向日葵畑、トマティーナ。 トマティーナでのことは、写真が残っている。それを取り出すと、二人はいつでも声を上げて笑うことができる。 季節ごとに色を変える瀬戸内海。寒くなる前に夜合の木を植えた。来年の夏を楽しみに冬を越した。ずっとスペインで暮らしてきたので、初めて炬燵に蜜柑で過ごす冬だった。 「炬燵にアイスも美味しいのよ」 冬花はスプーンを口に入れ、子どものような顔で笑った。 そして春になり、暖かくなったが冬花はベッドから起き上がることができなくなった。 不動がコーヒーを淹れる間に、冬花は縁側に座っていた。 「いいのか?」 「うん。今日は身体が軽いみたい」 あんまり寝てても背中に根っこが生えちゃうし、と冬花は肩を揉む。不動は冬花の後ろに座ると、淹れたばかりのコーヒーを冬花に渡し、手のひらで柔く冬花の背中を揉んだ。 すっかり痩せている。骨が当たるのが分かる。 不動はブラシを持ってくると冬花の髪を梳き、結い上げた。 「飾り、何色がいい」 「シュシュ?」 冬花はちょっと考えて、ピンク色、と答えた。 「桜ももう終わっちゃったから、今度は藤ね。躑躅も。それから紫陽花。その後でやっと夜合」 待ち遠しいわ、と呟く冬花の髪をピンク色の髪飾りで飾り、不動は隣に座った。 「冬花」 不動が呼ぶと、冬花は柔らかな声で、なぁに、と微笑んだ。その笑みを見つめ、不動は声を詰まらせた。ふいっと瀬戸内海に目を転じると、明るい水面を船が滑ってゆくのが見えた。 「どこにも行かないでくれ」 「…どこにも行かないわ」 「俺を置いていくな」 二人は手を繋いだ。不動はすっかり細い冬花の手を強く握り締めた。 「寂しがりや、だったのね」 「ああそうさ」 「明王君の弱点、見つけちゃった」 冬花はころころと笑った。 「誰にも教えちゃイヤよ」 「当たり前だ。お前だけだ。馬鹿」 「不動監督、照れてますね。今のお気持ちは?」 「馬鹿」 不動はたまらず冬花の身体を抱きしめ、額にキスをした。冬花が瞼を閉じる。その上にも、そして唇の上にもキスを落とした。 コーヒーの香りが二人を包んだ。 「あきおくん」 冬花は眩しそうに目を細め、不動の心臓の上に手のひらをあてた。 「私、これから、ここに住む」 そう言って、細い身体が優しくもたれかかってきた。不動はその身体を抱き留め、優しく背中を撫でた。 心地の良い風が吹いた。船は沖へ向かって遠ざかる。 夕方、早くに冬花は休んだ。不動はその手を取って、彼女が眠りにつくまでじっと付き添っていた。暗くなっても、不動はその手を離さなかった。 縁側には飲みかけのコーヒーがすっかり冷めて、置き去りにされていた。
2011.5.4
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