遠距離恋愛編4
全ての部屋のカーテンを開け、窓を開けた。先日までこもっていた人の匂いや線香の匂いが夏風に流される。 二階にある父の部屋は北向きだが、今は隣家の庭木の明るい木立を見下ろすことができる。不動は窓辺に立ち、だだっ広い部屋を見回した。 二年前に父が死んでから、何一つ手をつけられていないように見える。そもそも何か趣味の物や生前の人柄を思わせる物の少ない部屋ではあったけれど。ベッドと、机、それだけだ。自分の幼い頃はここに大きな本棚もあったと思うが、定かではない。 机の上には電気スタンドと銀行の粗品らしいペン立てと、後はあの事件から死ぬまで勤めていた工場の資料だろう、何か機械に関する専門書が数冊立てられているだけだ。 不動は抽斗を開けた。どれも空っぽだったが、腹に当たる部分の抽斗に煙草とライターが残っていた。くしゃくしゃの煙草の箱にはセブンスターが一本だけ残っていた。不動はそれを口にくわえ、火を点けた。 口先でぷかぷかふかしながら歩き出す。 隣は母の部屋だった。ここも半分は物置のようになっていた。父が死んで以後、母は専ら一階で暮らすようになったらしい。布団の剥ぎ取られたベッドと、本棚。ウォーキンクローゼットを開けると、自分の子どもの頃の物が残っていた。ここは、本当は不動の部屋だった。隣の部屋こそ、夫婦の寝室だったのだ。 ランドセル。ダンボールに入った教科書やプリント。不動はクローゼットの扉を閉め、部屋を出る。 階段には天窓から明るい光が射していた。不動は煙草を指で挟み、口の中の煙を吐き出した。舌が痺れていた。 キッチンで煙草を揉み消し、ゴミ箱に捨てる。ゴミ箱にはここ数日自分の食べた総菜のカラが捨てられている。もはや、この家に帰ってきても、不動に手料理を食べさせてくれる人はいない。 リビングには大型テレビ。キャビネットにはDVDがぎっしり詰まっている。母のコレクションだ。自分の出場した試合、指揮を執った試合、全てが録画されている。一日のほとんどの時間を、母はここで過ごした。どうしても身体がだるく、布団に入らなければならない時以外は。 隣の二間の和室が、ここ二年の母の寝室であり、息を引き取った部屋だった。 不動は縁側に腰掛け、広くはない自宅の庭を眺めた。 母は自分がもう長くないと分かると、それ以上の手術を拒み、自宅で療養する生活を送った。週に一度、医者が往診に来て痛み止めを処方した。 不動が帰国したのは一週間前だ。母は「どうしても帰ってきて」と言った。 「最後の我が儘をきいて、明王」 帰国しながらも不動は、これが本当に最後の別れになるとは思っていなかった。今、振り返って母の布団がないこと、母の声がしないことで、不意にその不在に気づくのだった。 母はまるで病気のようには見えなかった。起きている間中、不動に向かって喋り続けた。試合のこと、思い出話、父のことさえ話した。 「あんなことさえなければ、お前にも苦労かけずに済んだのにねえ」 しかし父の遺影の前には毎日線香を上げている。 そのことを不動が言うと、母は複雑な顔をして笑った。 「だって、もう死んだ人だし、それに結局最後まで夫婦だったし…」 腐れ縁って言うか、と母は横目に遺影を見た。 「世界で二番目の不動明王ファンを無碍にもできないし」 「二番…」 「一番は勿論お母さんよ」 父の財布には不動の選手カードが入っていたのだそうだ。それは父が荼毘にふされる際、一緒に灰になった。 「駄目な人だったけど、熱心なファンだったのは認めてもいい」 父の話をする母の目は、涙ぐみも、懐かしそうにもしていなかったが、不動にはそれがいっそ父のことを受け容れた表情にも見えた。彼女はかつて、泣きながら父を否定することしかしなかったのだ。 あの時のことは今でも忘れることができないが、不動もまた今は平らかな気持ちでそれを思い出せる。自分に偉くなりなさいと呪文を吹き込んだ母は、もういない。 縁側の外にはサンダルが揃えられていた。不動はそれを履いて庭に出た。 芝が伸び放題で、かつて花壇を作っていたところには植木鉢が並んでいる。今は何の花も咲いていなかった。 不動は、ふと思い出して縁側を振り返った。その下にサッカーボールが転がっていた。ぼろぼろに汚れたサッカーボールだ。しかし、まだ空気はしっかり入っている。 母が、入れたのだろうか。 不動は軽くリフティングをした。こうやって母が褒めてくれるのを待った。父が帰宅するのを待った。働き盛りの父、美人な母、無邪気にサッカーボールで遊ぶ息子。幸せな家族の像。遠い遠い昔のことだ。 昼食をほとんど残し床に入った母は、自分を見上げ、言った。 「結局、お嫁さんも孫の顔も見れなかったわねえ」 「悪かったな、親不孝でよ」 「ううん」 母は首を振った。 「わたしのせいよねえ…」 そんなことねえよ、と不動は母の額を撫でた。今はもう皺だらけで、髪染めもやめていたからほとんど白髪だった。 「ごめんね、明王」 「何言ってんだよ」 「お前を生んでよかった」 母は目を閉じ、胸の底から息を吐いた。 「本当、よかった」 それが最後の会話だった。 不動は両手にサッカーボールを掴み、ぼんやりと無人の和室を眺めた。 「お母さん」 乾いた声が呼んだ。 「お父さん」 十四歳、ここを飛び出すきっかけを得てからはほとんど帰ることがなかった。 自分の生まれた家。いつからか笑いの消えた家。借金取りが押しかけ、父が情けないほどに頭を下げた玄関先。母がうずくまってないていた台所。あれほどまでに捨てたかった家。 しかし今も門柱には不動の表札が掲げられている。父はこの家で葬式を行い、母はその部屋で死んだ。 「ただいま」 遅すぎる言葉は涙と共にこぼれた。 明かりの消えたリビングのソファに、不動は横になっていた。 夜になり、少しは過ごしやすくなっていた。蚊が入るので網戸を閉め、扇風機を回した。月の光が射し、首を振る扇風機の影がゆるゆる動いた。 十時を過ぎている。早い時間とは言えない。しかし、寝るにはまだ間があるか。 不動は起き上がると、ソファから足を下ろし、ちゃんと座った。 携帯電話を取り上げる。 少し待たされた。 『もしもし』 聞きたかった声が耳をくすぐる。 「冬花」 不動は呼んだ。 「話したいことがある」 電話の向こうで彼女が姿勢を正すのが分かった。息を整える音。 不動も自分の呼吸を落ち着け、静かに話を切り出した。 花ではなく菓子折がいいだろうと冬花は言った。 駅に着くと、少し緊張した面持ちの彼女に出迎えられた。 「お菓子?」 冬花は不動が提げた紙袋を見る。 「空港で買った。いいと思うか?」 「うん。大丈夫」 それから言葉数少なく円堂宅へ向かった。 円堂の両親もまた緊張した面持ちで不動を迎えた。 卓の上には菓子折。それを挟んで広志、温子夫婦が座り、反対側に不動が、そして少し離れて冬花が座った。 「お願いがあって来ました」 不動が単刀直入に言うと、卓の向こうの二人が表情を硬くした。不動は少し後ずさると、畳の上に両手をつき、頭を下げた。 「冬花さんを、私にください」 しん、と沈黙が下りた。 不動は顔を上げなかった。いつまででも頭を下げることはできた。 「まあ…、顔を上げて」 広志が言う。 顔を上げると、広志の顔は穏やかだが、温子がまだ表情を強張らせたままこちらを見ている。 「不動さん」 温子は言葉は穏やかに切り出した。 「冬花ちゃんには守との間に息子がいます。その息子も、今度子どもが生まれたんですよ。孫も生まれた齢になって、それでも結婚が必要だって言うんですか?」 「私の人生にはこの人が必要です」 温子の目は厳しく不動を見た。不動はそれを見つめ返した。 「今、自分の両親が亡くなり、心細さから言っている訳ではありません。私の人生にはずっと彼女が必要でした」 「ならどうしてもっと早くに来なかったの」 「もう待てないと、今、気づいたからです。もうこれ以上、彼女に悲しい顔はさせられません。私は残りの人生の全てを賭けて彼女を笑顔にします」 「できるって言うの、あなたに」 「できる」 不動は即答した。 勢いに押され、温子が黙った。 「お約束します。もう決して彼女を泣かせはしません」 不動はもう一度頭を下げた。 「お願いします」 泣きそうな声が聞こえ、冬花も頭を下げる衣擦れの音が聞こえた。 「…お母さん、ほら」 広志の声が聞こえる。不動はゆっくりと顔を上げた。 温子はティッシュペーパーを何枚も取り出し、鼻をかんでいた。 「お話しで聞いていたのと、印象が違うわ。不動さん」 鼻声で温子は言った。 「冬花ちゃんのことは、本当に娘だと思って過ごしてきたんです。私たちは、ずっと」 広志が言った。 涙を拭い、温子が続けた。 「私たちはね、まだ守が死んだとは思ってません。必ず帰ってくると信じています。だから冬花ちゃんも同じ気持ちだろうと思ってたし…、この子は本当によく頑張ってくれました。大事な時期に夫もいないで、心細かったろうに…」 冬花が小さな声で、お義母さん、と呼ぶ。 「でも、ね。私たちも、話があるって聞いた時から、そんな、塩撒いて追い返そうだなんて思ってなかったけど、こんなに優しくていい娘を手放すなんて、今更考えられなくて…」 「ごめんなさい、お義母さん」 「冬花ちゃん」 広志が呼ぶ。 「よく我慢してくれたね」 「我慢だなんて…」 「守が帰ってきたら、私たちがきっちり叱ります」 広志は両手を膝につき、頭を下げた。 「冬花を、よろしくお願いします」 それにならい、温子も頭を下げる。 「…ありがとうございます」 不動も頭を下げ、短く、低く言った。 また泣く声が聞こえた。温子と冬花だった。顔を上げた広志が笑って二人をなだめた。しかし老いた彼の顔の皺の中にも寂しさがひそみ、目元には涙が滲んでいた。 「必ず、幸せにします」 不動はもう一度、深く頭を下げた。 大きなバラの花束を買うと、冬花が笑った。まだ目元が少し赤い。 「花、なの?」 「いいだろ」 二人でマンションの七階に上がる。 不動がインターホンを押した。 ドアが開く。玄関には久遠道也が仁王立ちになっている。 「お父さん」 冬花はそっと不動の腕を掴んだ。 「私の花婿さんよ」 「よろしくな、親父」 不動は花束を抱えたまま、にやにやと笑った。 久遠は怒ったような無表情を続けていたが、不動の隣に寄り添う冬花がいつまで経っても笑みを崩さないので根負けしたように自分も微笑んだ。 「おかえり」 低く、優しい声が二人を招き入れた。
2011.5.4
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