遠距離恋愛編3







 長いこと一緒にやってきた通訳が故郷に帰るというので、内輪だけでささやかな送別会をしようとしたら、いつの間にかバーにはチームのほぼ全員が集まってしまっている。
 通訳は自分より少し若いくらいの齢で、このチームの監督に就任してからずっと一緒だった。不動も十代の終わりからほとんどスペインで暮らしていて言葉は覚えているものの、具体的な指示はともかく、彼ほど的確に思っていることを言葉にすることはできない。
 出来るならあと一回優勝するまで一緒に仕事をしたかったのだが、倒れた父のかわりに農場を継ぐらしい。
「私は確かに、これが天職だと思ってるんですよ」
 ワインに口をつけながら、彼は言った。
「でも抗えない。家がどうとか、古い考えじゃなくて、これは実感として、俺は親父の子だと思うんです」
「で、トマト作って一生暮らすのか」
「そうです、監督の大好きなトマトをね」
 苦笑して、もう一度乾杯。
「そういえばもう長らく一緒に仕事したのに、監督の家族の話はほとんどしませんでしたね」
「…まあな」
「仕事とプライベートは分けるべきかもしれないけど、私はもうちょっと監督が心を許してくれるような相手になりたかったですよ」
「これ以上何も出てこねえよ」
「そうかな。監督はいつも孤独な場所に立っているような人だったから、私は橋になった気分でした」
 お前には助けられたさ、と不動は呟いた。頭の中では、彼の言った孤独という言葉が響いていた。
 ここもまた独り歩く道の途上なのだろうか。
 隣でワインを呷る男は生まれた家に帰る。老いた母の待つ家へ、妻と子どもを連れて帰り、親の守り続けた畑を継ぐ人生。
 不動にはサッカーしか考えられない。自分が行く道も、帰る場所も、もうここしか考えていない。
 彼女が…、と思い出す面影がない訳ではなかった。
 もし彼女が自分の人生の隣に寄り添ってくれたら、世界はどうだっただろう。不動には想像がつかない。勝利を思い描くことができても、幸福というものを想像するのが不動は苦手だった。
 冬花。彼女は幸せになるべき人間だ。幸福を積み上げることのできない自分の腕の中に捕まえてはならない。
 散会前に全員で歌を歌った。チームの応援歌、酔っ払いの大合唱。
 元相棒は泣きながら不動に抱きついた。不動はその背中を叩き、俺だってお前に心を許してたぜ、と思った。

 新しい通訳が日本人だと聞いた時、不動はそうかとしか思わなかったし、名前がエンドウだと聞いた時も、まさかその音を円堂と繋げて考えはしなかった。
 だから、
「円堂です」
 そう言って右手を差し出す目の前の若い男が、在りし日の円堂守そっくりであった時、内心本気で動揺していた。
「有人さん達からはジュニアと呼ばれてきましたから、監督もお気軽に」
「…ああ」
 不動はようやく相手の手を握り、軽く握手した。
 ふ、と円堂は笑った。
「新鮮です」
「え?」
「最近はこうも驚いてくれる人もいなくなりましたから。皆、僕が父とそっくりなことも当たり前になってしまって」
 まあな…、と曖昧な返事をしながら、不動は円堂が言うのとはまた別の面でも驚いていた。
 この青年が円堂守と冬花の間に生まれた子どもなのだ。
 不動が彼について知っているのは、もう二十年も前の幼い泣き声と、冬花が儚い声で呼んだ名前のみだった。それがこの期に及んで、あの円堂守にうり二つの顔かたちで目の前に現れたのは悪い冗談か何かだろうか。
 しかし現実はいたって真面目であり、通訳としての円堂は非常に優秀だった。前の通訳が辞める際、不動はこの男でなければと思っていたのだが、彼の仕事ぶりと比べても遜色がない。
 その意味において不動は思いの外、早々と円堂を信頼した。
 円堂は外見こそ父親そっくりだが、性格はほぼ反対と言ってもよかった。通訳ではあるが、自身に関しては口数が少なく、二十代半ばだが非常に物腰も落ち着いている。不動の隣でピッチを見つめる目は厳しく、その姿は誰かに似ていた。
 それが誰なのか思い至っても不動は口に出すことはなかった。
 飲みに誘ったのは円堂が先だった。
「監督が誘いづらそうにしていたので」
 円堂はずばりと物を言う。そのあたりは父親似かと思う。
 いや、性格が環境によって形成されるものであれば、むしろ…。
「皆、二回驚きます」
 円堂は口を開いた。
「見た目があまりにも父そっくりなので、まず一回。それから外見と中身のギャップでもう一回」
「そうだな…」
「監督は、僕が誰に似ているか、分かっているでしょう」
 丸い瞳がこちらを向く。その目には相変わらず何もかも見透かされるような力がある。
 不動はその視線から軽く逃げながら言った。
「久遠道也」
「正解です」
 円堂はグラスの中身を乾し、息をついた。
「正直なところ、僕は、周囲の言う、あの円堂守、が父である実感はほとんどありません。彼の息子であることは散々実感してきましたが」
「…それはどう違うんだ」
「僕には父の記憶はほとんどない。物心つくかつかないかの内に、彼は姿を消しましたから。僕を育ててくれたのは、母と祖父母と、それから久遠道也です。不幸自慢をしようと言うのではない。僕は存外、父性に事欠かず育ってきました。有人さんや修也さんだけじゃなく、北へ行けば吹雪さんがいるし、西へ下れば立向居さんがいる。授業参観に現役プロリーガーの基山ヒロトが毎回来たんですよ」
「お前…凄いな」
「ええ」
 円堂はさらりとうなずく。
「あの人の息子だからこそ、なんです。全てね」
「円堂守の息子である実感、ね…」
「お分かりいただけましたか」
 不動は黙ってボトルを傾け、円堂のグラスを満たした。
「彼らにも勿論感謝していますが、それを抜きにしても祖父とはずっと一緒に暮らしてきましたし、それに久遠道也という師が、僕にはあった」
「サッカーは久遠仕込みか」
「人生の師と言った方が正しいでしょう」
 円堂は酒で唇を湿らす。
「皆が期待した才能を僕は持っていなかった。からきし、と言う訳ではないが、突出して上手くもない。本当に部活レベルです。反抗期にはサッカーから離れようともしましたが、できなかった」
 グラスを手放し、円堂は自分の手のひらを見つめた。
「僕はサッカーが好きだったんです。こういう所が、血は争えないのかもしれない。上手くもない、期待にも応えられない、それでもサッカーから離れられなかった」
 そう言うと、円堂は少し笑みを浮かべた。
「そんな人生の節々で相談にのってくれたのは久遠道也、その人だったんです」
「お前のじいさんだろ、一応」
「でも、彼のことをおじいちゃんと呼ぶのは憚られますよ。監督も、仕事で関わっていればお分かりでしょう」
「…まあ、な」
「監督」
 円堂は真っ直ぐに不動を見た。
「久遠のことになると口が重くなりますね」
「そうか」
「母のことが気になりますか」
 不動は返事をしなかった。今更、動揺は表に出さなかったが、やはり知られていたのか、という事実は冬花のことを思えば苦しかった。
「監督」
 円堂はカウンターの向こうに視線を移し、言った。
「僕は望んでこのチームに来たんです」
 不動は酒を一口、含む。
 酔いは醒めていた。飲み下したアルコールも、冷たく胃を撫でるだけだ。
「僕は、自分の父親があなたではないかと疑ったことがある」
「……は?」
 思わず円堂を見ると、円堂はわずかに顔を赤くして正面を見つめていた。
「今、何つった」
「二度は繰り返しません」
「お前、自分の顔を鏡で見てみろ」
「見ましたよ。散々見ました。それで、そんな可能性はミクロレベルでも存在しないと納得しました」
「なんつうか…」
 不動はすっかり脱力してしまい、グラスを一気にあおった。酒の力でも借りなければ立て直せない気分だ。頭がくらくらした。
「突拍子もなさすぎるだろ」
「突拍子もないことを考える齢だったんですよ、中学生の頃っていうのは」
「どうして俺なんだ」
「それを……あなたが言うんですか」
 円堂の瞳が再びこちらを見た。不動は口を噤み、新しい酒に口をつけた。
 しばらく黙ってグラスを舐めていた。沈黙は勿論、些か気詰まりだったが、ここで全てを暴く訳にはいかない。不動だけのことなら構わない。しかし、冬花は。
「彼女は」
 円堂は低い声で言った。
「あなたのことを想っているのだろう母は、自分の母親ではないようだった」
 不動はカウンターに札をまとめておしつけ、立ち上がった。
「綺麗だった」
 円堂の声を背に、不動は店を出た。
 雨が降っていた。傘はなかったが、構わなかった。不動は雨の中に踏み出した。後ろから足音が一つ追ってきたが、振り返らなかった。
「いいですか、僕の齢と同じくらいの年月、父は帰らなかった。同じ年月、母は独りで年を取った。今、母がいくつかご存知ですか」
「知るかよ」
「あなたと同じ齢ですよ」
「当たり前だ、馬鹿」
「そろそろ五十になるんだ。考えてください」
 不動は雨の中振り返った。円堂は傘を差していた。
「何を考えろって」
 傘の中の円堂を睨みつけ、不動は言った。
「人生は短い」
「若造に言われるまでもねえよ」
「彼女を攫うなら、早くしろと言うことです」
 円堂は不動に向かって傘を差しかけ、風邪を引きますよ、と言った。
「何…唆そうとしてやがる」
「僕はただ、母は幸せになるべき人だと思っています。それだけです」
 夜の雨は冷たく石畳の道を打った。
 不動は、雨音にかき消されてしまいそうな冬花の声を思い出した。
 雨はいよいよ強く傘を打った。二人はお互いを睨みつけたまま、じっと動かなかった。



2011.5.3