遠距離恋愛編2







 化粧をする。口紅の色は淡く抑えた。ピアスをつける指が少し緊張していた。
 表は風が強く、強い日差しの焼く肌の上を涼しく吹き抜けてゆく。バスを待つ間、公園に目を転じると、噴水を取り囲む木の一本に淡いピンク色の花が見え隠れしていた。夜合の花だ。
 少し早いわ。
 そう、思った。
 病院のエントランスホールは静かなざわめきに満ちている。一つ一つのささやかな囁きが高い天井に反響し、人の囁きよりももっと些細な振動がさざ波のように、清潔な空気を常に震わせている。
 約束の時間より半時間も早く到着していた。冬花は待合に並んだ長椅子の隅に腰掛け、軽く顔を俯けた。手首の時計の文字盤を何度も指で撫でる。三十分は待つ時間としてはそれなりに長くも感じたが、彼を待つ時間、と思うと心の準備をするには足りないように感じた。いや、きっとどれだけ時間があっても足りないと思うだろう。
 冬花は時々自動ドアの向こうを振り向き、また腕時計に目を落とした。何回かに一回、堪えきれない溜息が漏れた。緊張している。それは自分でもよく分かっている。普通の顔をして会えるだろうか。また溜息。手で頬に触れる。
 自動ドアが開くと、五月の匂いが表から吹き込む。冬花は顔を上げ、振り向いた。人影は明るい表を背に逆光になっていた。
 軽く目を細め、立ち上がる。人影もまた、冬花に向かって近づいてきた。
 逆光の中から鋭い視線が真っ直ぐに瞳を射貫く。冬花は胸の上で軽く手を握り、緊張したまま愛想笑いに近い微笑みを浮かべた。
 相手もぎこちない笑みを浮かべた。
「久しぶり」
「ご無沙汰してます」
 スーツ姿の不動が花束を抱え、目の前に立っている。花束の中の百合が強く香る。今度はバラじゃないんだわ、と思う冬花の瞳の奥には一瞬の内に様々な不動の姿が浮かんで、それが目の前の四十を過ぎた不動の姿に落ち着いた時、ようやく自然な微笑みが湧き起こった。
「着いたばかりで疲れているんじゃないですか?」
「そう、長くもいねえから」
 不動の目元も少し和らぐ。冬花はホッとして不動を病室に案内した。
 今回の久遠の入院は長引いていた。本当はもう自宅療養でもいいんだが、と父が珍しく愚痴をこぼすのを、冬花は花を花瓶に生けながら聞いた。
「あんた、家に戻ったら休みゃしねえだろ」
「自分の身体のことは自分がよく分かっている」
「そう言う奴に限って倒れて運ばれるじゃねえか。完全にお約束だろ」
 しっかり休めよ、と不動は言ったが、結局二人の話はサッカーのことになる。父にとっても、不動にとっても、サッカーは仕事だが、同時にそれ以上に人生の楽しみと喜びだ。これを取り上げることはできないのだ。冬花は微笑んで二人の会話を聞いていた。父と不動の話は尽きなかった。
 あの不動明王が来ているという噂がナース・ステーションに広がったらしく、看護婦が仕事の隙を見ては覗きにくるので、不動はとうとう入り口に鍵をかけてしまった。
 そうか、と冬花は気づく。モテるんだわ、不動君。
 スペインで活躍するサッカーの監督。独身。見た目も悪くない。いや、率直にいいのだ。
 冬花は話に頷くふりをして不動の横顔を見た。私は、もう、ずっと彼のことを格好いいと思っていたから。
 結局、夕方近くになるまで二人は喋っていた。喋り疲れたらしい父が溜息をついて、不動はそれを見て苦笑し、無理すんなよ監督、とその肩を叩いた。
「お前も身体には気をつけることだ。少しでも長くピッチの側に立っていたいのなら」
「へいへい」
「ちゃんと返事をしろ」
「あいよ、監督」
 とっとと身体治してスペインに観に来いよ、と不動が言うと、久遠は返事に少し声を詰まらせた。
 自分も涙が滲みそうな気がして、冬花は一歩先に病室を出た。
 不動は少ししてから出てきた。
 二人は黙ってエレベーターに向かった。下りのエレベーターが到着する間、冬花はぽつりと言った。
「来てくれてありがとうございます」
「俺が来たかったんだ」
 不動は言い、デイルームの向こうの窓を見遣った。
「逆に悪いことしたな。疲れさせてよ」
「そんなことないわ。お父さん、楽しそうだったもの」
 一階に下りると、エントランスホールはほとんどひと気がなく、自動ドアの向こうの車寄せにはタクシーが人待ち顔で停まっていた。
 二人の足が自然と止まる。
 ぎこちない沈黙が生まれた。
 不動が腕時計を見る。冬花も同じように視線を不動からもタクシーからも逸らした。夕食には少し早い。アルコールにも。
 隣の不動が小さく息を吸う。
「不動君」
 不動が何か言う前に冬花は彼の名前を呼んだ。
「コーヒーでも、どう?」
 視線が合う。冬花はなるべく何気ないふうを装って、言った。
「もし時間があれば。不動君もお父さんの話につきあって、疲れたでしょう」
「半分は俺が喋ったぜ」
 不動は笑い、でも、と言った。
「お言葉に甘えるか、喉、乾いたし」
 タクシーに乗り込み、冬花がマンションの住所を告げても不動はもう眉も動かさなかった。冬花は細く息を吐き、背もたれにもたれかかった。

 マンション着き、七階の通路を生ぬるい風が吹き抜けた。
「雨、降りそうだな」
 不動が言う。
 ドアに鍵をさそうとして振り向き、全体を淡い夕焼け色に染めた曇天を見上げ、冬花は呟いた。
「夜合の花みたいな色」
 不動の視線がちらりとこちらを見た。
 中に入り、リビングに腰を下ろしても二人の間にはまだぎこちなさが漂っていた。コーヒーを飲むことで、沈黙に理由をつけ、時間を稼いでいた。
「…ねむって?」
 不意に不動が言った。
「え?」
「さっき言っただろ」
「ああ…、ほら空の色が夜合の花みたいなピンク色で」
「花?」
「公園の、噴水の側に植わった木よ。夜合の木って知らない?」
 ねむ、と不動が呟き、冬花はテーブルの上に指で字を書く。
「夜に合うって書くの。こんな葉っぱで、夜になると閉じるから、それで多分こんな字をあててあるのね」
「初耳だ」
 字を書いた後も冬花の手はテーブルの上に残っていた。不動の手が近づき、指の上に触れた。
「不思議だわ」
「何が」
「不動君とこんなお喋りをしてるなんて」
 冬花は不動の指に自分の指を沿わせる。
「夜合の話なんか…」
 不動は、冬花の手を軽く握り締めた。
「なんか?」
「いいえ」
 冬花は首を振る。
「色々話したかったの。色々なことを」
「例えば」
「…不動君ってモテるのね」
「はあ?」
「看護婦さんが何人も見に来てた」
「物珍しがられただけだろ」
 不動の指がかすかに手の甲を撫でる。冬花は角度を変えて不動の手を握り返す。
「もうずっとスペインに住むの?」
「どうだろうな。でも、監督も言ったとおり、なるべくあそこでサッカーやりてえし」
「ちゃんと野菜も食べてる?」
「当たり前だろ」
「本当に?」
 冬花は笑い、不動の手を引き寄せると頬ずりした。
「マジで」
 不動が落ち着いた声で言った。
「トマトだって食ってる」
 その言葉を聞き、冬花は不動の手に頬ずりしたまま瞼を伏せた。
「よかった」
 溜息のように吐き出すと、不動も微笑む気配がした。
 静かな沈黙が下りた。ぎこちなさのない、心地よい静けさだった。
 冬花はわずかに瞼を持ち上げた。不動がじっとこちらを見つめていた。ベランダの向こうに夜合の色の空。
 唇を触れ合わせる直前、コーヒーの香りが鼻を掠めた。手を繋いだままキスをした。キスをしてから冬花はようやく瞼を閉じた。
 不動の腕が倒れかけた背中を支える。その力強さに安堵する。このまま抱かれていたいと思う。
 冬花、と小さな声が呼んだ。
 リビングには電気が灯っていた。ベランダの窓はカーテンを閉めていない。
 冬花は自分の力で身体を起こし、それから何かを言おうとして唇をかすかに開いた。明かりを。カーテンを。しかし出かかった言葉を飲み込み、立ち上がる。取り敢えず、明かりを落とした。
 光は窓の外の、曇天を越した夕焼けだけになる。薄暗く、柔らかい光の中で二人は見つめ合った。
 冬花は不動に向かって手を伸ばした。不動は一歩、二歩と近づいて、その手を繋いだ。
 寝室の扉を、二人は何かから隠すように音を立てずに閉めた。
 ごめんなさい、と囁こうとする冬花の唇を不動は塞いだ。今にも泣き出しそうな微笑みの上に不動のキスは降った。

 翌朝早く、まだ人通りのない街路に二人は出た。
「ああ、ほら…」
 冬花は公園の木立を振り向くと指で差し、静かな声で囁いた。
「夜合よ」
 不動は、夜合か、と冬花の言葉を繰り返して白い指先の差す先を見た。
「夜合の漢字はもう一つあるの。合うという字と歓……歓びという字」
 夜明けの風が木立を揺らし、冬花の髪を乱した。不動の手が伸びて、乱れた冬花の髪を直す。
 髪を直しても不動の手は留まっていた。冬花はそれを握り、手の甲にそっと頬ずりをした。
 不動は優しく冬花の身体を抱きしめた。
「元気でな」
「…あなたも」
 さよなら、という呟きはかすかな吐息となって耳元をくすぐった。
 優しい抱擁がほどけ、冬花は街路に一人残された。去って行くタクシーが見えなくなるまで見送り、それからふらふらとマンションの七階に戻る。
 あたたかな涙が頬を伝った。冬花は声を漏らさず涙を流し続け、昨日、不動が手を握ったリビングのテーブルの上に突っ伏した。



2011.5.3