遠距離恋愛編1
冬の匂いが空から降る。 街のノイズを洗い流すように北風が吹き抜け、電灯に照らされた街路は静けさの中、二人の足音だけを響かせた。 「お父さん、帰ったら先にお風呂に入っちゃう?」 「いや、食事から済ませよう」 「鼻声よ。身体をあたためないと」 「こんなに早く寝たら湯冷めするかもしれない」 「大丈夫、ちゃんと部屋は暖めておくから…」 冬花はくすくす笑い、隣を歩く父を見上げた。寒そうにしているし、声も言ったように鼻声だが、しかしいつもより顔色がいい。 きっと父は嬉しいのだろう。 父である久遠道也が自分の仕事を手伝ってほしいと、正式に申し出をしたのが先月の末のことだった。体調管理もフットボーラーの仕事の一つ。ならば、彼とて自分の身体がどうであるかを自覚しなければならなかった。しかし仕事に厳しい父が、仕事のパートナーとして自分を指名するとは。 冬花は父と、また円堂の両親と相談し、生活の場を実家のマンションに移すことにした。息子も大学進学を機に一人暮らしを始めたから、あの家には義父母二人だけになってしまう。それは心苦しかったが、姑の温子は「のんびりやるわよ」と笑って手を振った。 今日が越してきた第一日目だった。 部屋には自分の使っていたものがほとんど残っていたから、着替えを持ち込むだけで事足りた。初日の仕事は早めに切り上げ、買い物は父と連れだって出かけた。今までは時々口を出す程度だったが、今日からは食事管理も冬花の仕事だ。 父は口数は少なかったものの、表情を緩めて過ごした一日に見えた。買い物の袋を半分持ち、冬花より風上に立って歩く。 冬の匂い。マンションの七階から見下ろす景色。十二月を前にした街の明かり。 これまで何度も帰ってきたマンションのこの部屋の前。 父が鍵を開ける。冬花、と呼び、扉を開けている。 「ただいま」 冬花は敷居をまたぎ、部屋に入った。懐かしい匂いに、ここが自分の暮らした家だと感じ、そして。 「ただいま、お父さん」 この人は本当に自分の父なのだと、心から思った。 父は扉を閉め、静かな声で、おかえり、と返した。 父の仕事を手伝う上で彼の名前と出会ったのは不思議なことではなかった。メールボックスには不動明王の名前でフォルダも作られていた。十代の夏、不動をスペインのチームに紹介したのも父だと、今では冬花も知っている。 父と不動の遣り取りや、実際の試合の映像を見ながら、冬花はこのように穏やかに見守ることもできるようになったのだと、胸の中で溜息をついた。 不動は、彼が最初に在籍したチームの指揮をとっていた。改めてじっくり見てみると、彼のやり方は父に少し似ているような気がする。父にも、そう指摘したことはないのだけれど。 新しい仕事を覚えることで数ヶ月があっと言う間に、しかし生活としては穏やかに過ぎた。正月は父を連れて久しぶりに円堂の家に帰った。息子も帰省したので、総勢五名、賑やかな正月になるかと思いきや、父は無口だし、自分よりも父親よりも祖父である久遠にその点似てしまった息子がこれまた無口で、二人が並んで座っているのを見て温子は、外見は守にそっくりなのにね、と笑う。 確かに、ここに守がいたらそれは賑やかだったろうと冬花も思った。今でも、この家にいる間は、食事は少し多めに作る。いつ夫が帰ってきてもいいように。 カレンダーは捲られ三月、とは言えまだ真冬と同じ寒さの続く日々の中で、父が入院をすることになった。定期検査の結果が芳しくなかったのだ。今でも通院は何度かあったが、入院は久しぶりのことだった。 担当医は若い医師に変わっていたが、以前の医師の治療方針を受け継いでおり、久遠に病室で仕事をさせようとしなかった。冬花はメールが届くたび、それをプリントアウトして父に届けた。 不動からのメールも印刷した。冬花はそれをフォルダに綴じる前に、何度か読み返した。時候の挨拶もない、素っ気ない仕事のメール。しかし不動の声が聞こえてくるような気がする。あの少しぶっきらぼうな喋り方。言葉遣いは乱暴だけれども、彼は確実に美声の部類だ。冬花は美声とまで捉えた訳ではなかったが、頭の中に聞こえてくる彼の声をとても好きだと思った。 夜の少し遅い時間、電話が鳴った。 うっかりリビングでうとうとしていた冬花は電話の音に反射的に病院からかもしれないと思い、慌てて立ち上がって子機に手を伸ばした。 眠気の残る瞼をこじ開ける。 「もしもし」 『……久遠?』 遠くから不思議そうな声が尋ねた。 思いの外の美声。 目がぱちりと覚める。冬花は手近なものに掴まり、ここが実家のマンションのリビングだと自分に言い聞かせた。一瞬、今がいつで、ここがどこなのか、混乱した。その声を聞いた瞬間に。 『久遠?』 もう一度電話の向こうから呼びかけられる。 「はい」 冬花は返事をした。 「久遠、です」 『…冬花か』 「はい」 息を吸う音が聞こえる。 『久しぶりだな』 「ええ」 監督は?と尋ねられ、いきさつを説明しながら、不動が今でも父を監督と呼んでいることに少し微笑ましくなる。 去年から冬花が仕事を手伝っていると知っても、不動は 『なんだ、そうか』 としか言わなかった。 「もっと驚かれるかと思ったんだけど…」 『いや、監督、あの頃からテンション少し変わったし』 「テンション?」 『言葉尻が明るいからさ』 ともすれば途切れそうになる会話を二人はぎりぎりのところで繋ぎとめながら話し続けた。話題は何でもよかった。父のこと、仕事のこと、天気の話、季節の話題。 日本はまだ暖かくならないのよ。 こっちは涼しい季節も終わりだぜ、来週には…。 不動は言葉を途切れさせる。冬花はカレンダーを横目に見る。 サン・ホセの火祭り。 今度こそ話題が途切れた。 仕事の電話らしく終わりの挨拶を切り出したのは不動の方だった。監督には改めて見舞いを。こちらの相談は急を要するものではないから、調子のいい時に返事をもらえれば。そんな言葉を連ねるのは、まるで別人の声のようにも聞こえる。 わざとらしいほどの社交辞令が済むと、またぎこちない沈黙が湧いた。 『じゃあ、冬花』 不動は彼女の名前を呼んだ。 『おやすみ』 「…おやすみなさい」 電話が切れた後も、冬花は子機を胸に抱いて呆然としていた。いつのまにか日付が変わっていた。 冬花は全ての明かりを落とし、自分の部屋のベッドに倒れ伏した。 「不動君…」 夜の下で彼を呼ぶ声は甘く掠れていた。 不動は時々マンションの電話を鳴らした。冬花は自分の携帯電話の番号を教えなかったし、不動も訊こうとしなかった。 受話器の向こうの彼に冬花は思いを巡らせる。まだ日のあるスペインの街。きっとアパートの部屋に一人いるのだろう、四十四歳の不動。 そして四十四歳の自分。不動との電話の後は必ず頬が緩んでいる。自然と湧き上がる笑み、そして訪れる寂しさ。 淡い切なさを胸に日々を過ごしたある日。 懐かしい春の匂いがした。 冬花は病院から戻り、玄関にかけられたアンティークの鏡に微笑みかけ、洗濯機を回すかたわら、自分のためにコーヒーを淹れた。 電話が鳴った。 不動だった。 電話の向こうの不動もコーヒーを飲んでいた。 『次に日本に帰った時、会えないか』 「いいわよ」 即答したが胸には溢れ出すような想いが満ちていた。 冬花はその瞬間、涙が出るほど感じていたのだ。 自分は不動明王が好きなのだと。
2011.4.30
|