30代編6







 あの日から不動の部屋はもとの独りの部屋に戻ったのではなく、冬花のいない部屋となった。彼は部屋の中に冬花の不在を確認するたびに、心の中にしっかりと彼女の存在を感じ取った。
 不動は今、確かに彼女を想い、この想いは消し得ないと悟った。試合に勝った夜は彼女の電話を思い出した。キッチンの前に立つと、自分のシャツだけを素肌に羽織った後ろ姿を思い出した。シャワーを浴びる時、記憶はいっそう彼女の不在を鮮明にした。あの日、自分の身体を洗ってくれた冬花の手の優しさははっきりと覚えているのに、目を開けてもあの白い手はない。
 冷蔵庫にはメモが貼り付けられている。トマトも食べてね。短い一言。階下の店で朝食を頼む際につけてもらった。何とか食べるようになった。
 一日を数え、一週間を数え、一ヶ月を数える。
 サッカーをし、帰宅して眠り、目覚めればまたサッカーをする。それを繰り返すうちに、一年、また一年と時は過ぎ、いつの間にか三十代も半ばをこえていた。一度は優勝も経験した。
 今、バレンシアの街には雨が降っていた。不動がここに越してきたばかりのあの日のように、もう寒くなり始めた季節だというのに珍しい雨だった。部屋はしんと冷えていた。不動はキッチンテーブルに腰掛け、熱いコーヒーを飲んでいた。
 引退はいつまでも遠い視界の中にあるものではない。シーズンが始まってから何度も医師とは相談した。もう少し走りたい。少しでも長くボールを追いかけていたい。しかし自分の肉体が自分の意志を裏切った時、その二文字が突然目の前に突きつけられたのだった。
 思えばこのチームにも十年近く、スペインに渡ってからは二十年の歳月が流れようとしていた。人生の半分以上を、この土地で過ごしている。
 帰り時だろうか、とも思う。電話は目の前にあった。母に連絡すれば喜ぶだろう。自分の試合をあまさず全部録画しているような人だ。鬼道にも伝えなければ。早々に現役を引退して財閥の長たる仕事に専念した多忙な男だが、今でも自分の身を案じてくれている数少ない友人だ。
 冬花のことも、勿論思った。しかし不動は冬花の連絡先を知らなかった。敢えて知ろうとしなかったと言ってもいい。もし彼女がどこにいるのか分かれば、何かあった時真っ先に飛んでいって彼女を攫ってしまう気がしたからだ。事実、引退を決意した今、欲求を実現させることはたやすい。時差が八時間あろうとも。
 しかし日本に帰って何をしよう。冬花を攫って、どうすればいいだろう。不動からは生活の、人生の中心たるものが失われようとしているのだ。
 サッカーをやりたい。
「俺はサッカーがしたい」
 不動は呟いた。
 コーヒーがぬるくなっていた。それを一口に飲み干し、覚悟したように電話を取り上げた。
 遠い距離を繋ぐ電話は随分、不動を待たせた。
 繋がる、一瞬の空白。
「久遠道也?」
 真剣な眼差しで、目の前に彼がいるかのように不動は睨みつけた。

          *

 鬼道有人が折に触れて訪ねてくれるのは自分を気にかけているのではなく、ここが円堂の家であり、円堂の子どもが気になるのだろうと思っていた。しかし、こうして来客のあることは嬉しい。姑の温子も鬼道のことは気に入っている。
 かつては円堂の捜索状況が主な話な内容だったが、今では子どもの話に重点が移った。気づけば息子は自分が円堂と出会った齢まで成長している。
 不動が監督をやるそうだ、という話を鬼道は、温子が席を立った際、ついでのように言った。
「あの人が、監督を?」
「君が、誰も信じていないかのようと評した男が、さ」
 それで引退してもスペインに残っているらしい、と鬼道は茶を飲む。湯飲みが空になったので冬花は急須を手に取ったが、軽く制された。
「あの不動でさえサッカーからは離れがたいようだな。こうなると俺はこの世にサッカーのある限り円堂を探そうと思う。奴がサッカーから離れられるはずなどないのだから」
 鬼道が辞する際、部活帰りの息子がちょうど帰宅した。玄関脇に自転車を停めたところだった。
「よう、ジュニア」
「その呼び方やめてくださいよ」
 失礼します、と横をすり抜ける。
「ごめんなさい、生意気な子で…」
「いや、こういう反応が面白いからわざと呼んでいる」
 鬼道は開いたままの玄関の戸の向こう、消えた背中を追いかけている。
「見た目はあの頃の円堂にそっくりなのに、雰囲気はまるで違うな」
「そうね、年の頃に比べたら落ち着いた子です」
「サッカーは」
「楽しいみたいです。家ではあまり喋らないけれど、時々、父の所に通っています」
「なるほど、あの雰囲気は久遠監督似か」
 鬼道の車を見送って、しばらく外に出ていた。
 不動が現役を引退した。そして監督をやろうとしている。
 あれから不動と連絡を取ったことは一度もない。何を取り上げてもあの五日間の思い出が強烈に蘇りそうで、冬花は日本のこの日常に没頭しようとしていた。だが今、鬼道の口からこぼれた彼の名前は様々な思いを冬花の胸に呼び起こした。
「あなたのことを何も知らない」
 塀の影に隠れ、冬花は呟いた。指先をそっと左耳のピアスに触れる。彼との間に結ばれたものの証は常にここにある。不動のことを忘れたふりをしながら彼を想う。冬花は周囲に沈黙し、自分にはそっと嘘をついてきた。
 涙がこぼれた。欺瞞の終焉だった。彼女はそっと泣いた。
「会いたいわ」
 円堂が消えてしまってからさえ、一度も口にしたことのない言葉が、とうとうついて出た。
「明王くん…」
 冬花はエプロンで顔を覆った。二階から子どもが自分のことを見ていることには、全く気づかなかった。



2011.4.16