30代編5







 お願いやめないで、終わらせないで、と冬花の手がしがみつく。細く途切れる悲鳴が夕方のもったりした光の中を落下し、ベッドのぬるい影の底に沈む。
 不動がその胸に沈み込むと、冬花はぐったりと力の抜けた足をそれでも動かして不動の腰に絡みつかせ、あたたかい溜息をついた。
「……もう夕方」
 泣きそうな声で冬花が呟く。終わらせないで、とはそういう意味だったのかと、不動は横目にちらりと西日の淡く染める部屋を見る。
 今日が終われば、不動はもう冬花を手放さなければならない。彼女を海と大陸が隔てる彼方へ返さなければならない。
「腹、減らないか」
 耳にキスをしながら尋ねると、すいた、と小声で囁く。その声は少し明るい響きを含んでいたので、わずかながら安心した。
 洗濯した下着はまだ乾いていない。冬花は不動のシャツを羽織ってキッチンに立った。長い髪が邪魔らしく、ペンを一本貸してほしいと言われた。言われるままに貸すと、彼女は器用に髪を巻き上げ、ペン一本を簪のように使って結い上げた。
 知ってはいたことだが冬花の料理はうまいもので、冷蔵庫に残っていた乏しい食材が、鍋やフライパンの上でいい匂いを立て始める。不動はキッチンテーブルにかけたまま、それを眺めた。
 冬花の後ろ姿は、少し痩せた印象がある。不動の知る限り、女の身体の柔らかな部分というのはふくよかなものだ。冬花の身体もあんなに柔らかかったのに。
 気苦労がないはずはない。円堂の失踪から、もうすぐ十年を数える。その間、一人で子どもを育て守ってきたのだ。
 しかし今冬花の背中に見えるのは生活の気苦労の影ではなく、彼女の人生全体にひっそりと流れる哀しみの底流のような、ほのかな翳りだった。その瞳の色と同じく、冬花の中には底知れない静けさがある。そこに彼女の涙が流れている。
「冬花」
 呼ぶと、彼女はくるりと振り向く。
「なあに?」
 微笑みがこちらを向く。声が柔らかい。
「呼んだだけ」
 冬花は、ふふっと笑ってまた鍋に向き直る。
「もうちょっと待ってね」
 キッチンの上に灯した明かりだけで食事をした。窓の外は暗くなり始めていた。淡い紫から深い青へ、空の色が変化する。
 スープは野菜のみで、不動が滅多に食べたことのない味がした。肉の味がしないが、それでも美味い。
「そういえば、相変わらずトマト嫌いなのね」
 冬花がスプーンを止めて話しかける。
「食わなくても生きてけるし」
「トマティーナって、ほらトマトを投げる有名なお祭り、あれもこの近くでしょう? 勿体ないわ」
「そりゃ勿体ねえよ」
「そうじゃなくて、美味しいのに明王君が食べないのが勿体ないの」
 絶対食べない、と歯を剥き出しにして言うと、好き嫌いすると強くなれないんだから、とわざと叱るような口調で言われた。
 もし十七の夏に彼女をさらってきていれば、こんな日常を送ることができたのだろうか。不動は冬花に笑いかけながら、頭の中であの夏を繰り返す。しかし何度繰り返しても、冬花を泣かせてしまうし、スペインの地には一人で降り立つしかなかった。
 孤独な場所からやって来て、孤独の道を歩む。
 孤独とは独りのことだ。二人は、独りではない。
 冬花が洗い物に立つ。不動はラジオを点けた。冬花が珍しそうに振り向いた。
「テレビは観ないの?」
「テレビつけると動けねーだろ? ラジオなら聞きながら何でもできる」
 ニュースはまだ昨日までの祭りのことを喋っている。チャンネルを変えるとギターの音が流れていた。ゆるやかなメロディの中でフレットノイズが時々、心を掻く。
 拭いた皿を元の場所に並べた冬花が静かに振り向いた。
「ワイン」
 不動が言うと、冬花は冷蔵庫からボトルと、よく冷えた二つのグラスを取り出した。ボトルを目の前に、冬花はどうしていいか分からないようだった。そうか、ワインを開けたことさえないのか、と不動はコルク抜きを手に冬花の後ろから手を伸ばしワインの栓を抜いた。
「かっこいい」
 冬花が呟く。昨日、アパートの前でも彼女はそう言った。冬花に褒められると不動は男として誇らしい気分になる。グラスには冬花が注いだ。そのままの格好で乾杯した。
 グラス一杯のワインを、二人はちびちびと楽しんだ。不動は自分の膝の上に冬花を招き寄せた。彼女がその上に横座りになると、シャツの裾から太腿までがあらわになる。
 不動はグラスを置き、手を伸ばして冬花の髪を留めているペンを抜いた。長い髪がなだれ落ちる。
 冬花はただ不動に抱きついた。不動はしばらく黙って冬花の髪を撫でていたが、やがて首筋にキスを開始した。
 ボタンを外すと、はだけたシャツから胸が覗く。そこにキスをすれば冬花は堪えるような声を出し、不動の血は熱くなる。
 狭いキッチンテーブルの上へ彼女の身体を押し倒した。飾っていた花が落ちる。ワインは倒れしばらく床に向けて赤い液体をこぼしていたが、やがてごろごろと転がると床に落ちた。
 貪るようにキスをする。腰に冬花の足が絡みつく、存外に強い力で。
 噛みつくと、冬花の喉から低いうめきが漏れ、それは笑いのような震えに変わった。
「私を」
 冬花が耳元に囁いた。
「食べて、明王君」
 顔を覗き込むと、普段なら恥ずかしくて言えもしない言葉を、冬花は心底真面目に言ったのだと分かった。深い色の瞳が、じっと不動の眼の奥を見つめる。
 不動が離れると、冬花の目は揺らいだ。言葉にはならなかったが、意気地なし、と目の奥がなじる。不動は一度寝室に入り、またすぐ戻ってきた。冬花は不動が手に持つ白い箱のようなものが何なのか分からないようだった。
 不動は両腕をつき、テーブルの上の冬花を見下ろした。
「食べて」
 声が掠れていた。
「やろうか」
 左耳にピアッサーをあてる。冬花にもそれが何かが分かったようで、潤んだ目がぱっと表情を変えて不動を見上げた。それは一瞬の戸惑いと痛みへの恐怖と、それが全部喜びに変わって、彼女は眉をわずかに寄せたまま微笑した。
 小さな音。冬花の手が腕にしがみつく。
「あ、あ……」
 目の端から涙がこぼれる。不動はそこにキスをする。
「痛かったか」
「少し…」
「悪い」
「ううん」
 冬花は不動を抱きしめた。
「嬉しい」

 翌朝早く、ホテルから荷物を引き上げ空港行きのバスを探した。手を繋ぎ、黙って歩いた。
 冬花は髪留めで長い髪を結い上げていた。左耳のピアスが朝日に光る。不動はそれを見下ろし、手に力を込める。冬花の身体はそっと寄り添う。
 バスターミナルの付近は常より人が溢れていた。火祭りに訪れていた観光客が帰るのだろう。
 明王君、と囁く声が聞こえた。
 首の後ろを柔らかなぬくもりが掠める。
 ふっと繋いでいた手がすり抜けた。
 一瞬、身体が揺れた。不動は足下が抜けたかのようによろめき、慌てて後ろを振り返った。
「冬花!」
 あの姿が見当たらない。髪を結い上げ、不動の買った白いワンピースを着た後ろ姿が。左耳には昨夜空けたばかりのピアスが光っている。
 冬花。
 道をタクシーが走り去る。あれだ、と直感した。走ろうとしたがバス停に向かう人波に逆らうのは難しかった。
 タクシーが通りの向こうに消えた時、不動は追うのをやめた。もとより追うつもりはなかった。彼女の手は離さなければならなかった。しかし。
 アパートへの道を走った。冬花が去った今、本来の自分の日常に戻ればいいだけなのだと分かってはいた。しかし不動は一瞬先、何を考えればいいのか分からなくなった。何を考え、何を食べ、どんな音楽を聴けばいいのか。
 息をきらせて四階分の階段を駆け上がり、ドアを開けて飛び込む。
 細く、薄暗く、まっすぐな廊下が伸びている。突き当たりの窓が朝の光にぼんやり輝いている。
 誰もいない。何もない。床に揃えたサンダルも、脱ぎ捨てた服も。
 ベッドのシーツは皺が伸ばされている。
 キッチンには洗って、きれいにそろえた皿。シンクに並んでいる空きビンはワインのそれと、昨夜まで花が生けられていた透明なビン。
 テーブルの上には染みが残っている。不動はそこに手を滑らせ、部屋を見渡した。
 彼女の姿はどこにもなかった。
 冷蔵庫の前でしゃがみ込み、水を飲んだ。冷たい水が喉から空っぽの胃へ滑り落ちる。冷蔵庫の中には、いつの間に作ったのかサンドイッチが入っていた。不動はそれを取り出した。皿の上には、一緒にメモがのっていた。

   トマトも食べてね

 不動は吹き出し、皿を持ったまま笑ったが、素直に大きく振れた感情が自分の本音を引きずり出すのを感じた。
 床に尻をつき、うなだれる。不動は声を殺して泣いた。



2011.4.16