30代編4
軽くうたた寝をしたと思ったら、もう夜が明けていた。腕の中のぬくもりと触れ合った肌の優しい感触が眠りを一瞬の夢に変えた。胡蝶の夢のようにたゆたっていた意識が腕に抱いた冬花の身体を実感し、肉体の中に息づいた。 冬花はぐっすりと眠っていた。不動は静かにその寝顔を見下ろしていた。自分の呼吸も、心臓の鼓動も、そして冬花の寝息も、何もかもが穏やかで優しかった。カーテンの隙間から射す朝日も柔らかく拡散し、照らされる光景は、この世からたった二人逃げ出して、粒子の粗い写真の中に休んでいるかのようだった。 不動はそっとベッドを抜け出した。シーツの隙間に滑り込んだ朝の空気に、冬花は小さく声を漏らし寝返りをうった。顔が半分、枕に埋められる。不動はそれをちょっと残念そうに見下ろすと、寝室を出てリビングの隅の作り付けのキッチンに向かった。 冷蔵庫を開け、まずは何も考えずに水を一杯。それから中身を物色すると、サンドイッチも果物も、そして折角用意したワインさえ昨日のまま収められていた。それらをキッチンテーブルの上に出してしまい、それから足音を忍ばせて寝室を覗く。冬花はまだ眠っている。 今朝は街も静かだった。昨夜はほとんど眠らない調子で騒いでいたのだ、無理もない。窓から見下ろせば、広場に黒い炭と灰の山。それを片付けに出てくる人間もほとんどなく、街全体が宿酔の眠りを貪っている。 窓の下を大きな荷車が通る。幾つかバケツがのっているが、内一つにだけ、売れ残ったのだろう、種類も様々な花が雑多なままに詰め込まれていた。白は献花のカーネーション、それからよく見かけるオレンジの花と、赤はバラだろうか。 不動は窓を開け、だるそうに荷車を引く男を呼び止めた。 「いくらだ?」 「もってけ泥棒ってやつでね」 「全部買う」 少し上乗せするから四階まで運んでくれと言ったが、どれだけ金を積まれてももう動きたくないと男は承知しなかった。仕方なく、通りまで下りていって両腕でたっぷり一抱えもある花を受け取った。 ちらりと上を見上げる。窓から見下ろす視線を感じる。冬花の顔が一瞬見えて、すぐに引っ込んだ。 不動は駆け上がるように階段をのぼった。寝室に飛び込むと、冬花がベッドに俯せてくすくすと笑っている。 「起きてやがったな」 その上から花を振りまくと、冬花の笑い声はもう悲鳴のようになって、花に埋もれながら笑顔がきらきらと光った。 ようやく花の雨が止む。ベッドにも、そこから溢れ出した床の上にも爛漫の花弁が散る。 冬花はまだ笑いの余韻を残し、ベッドの上で身をよじる。不動は腕をついてその上に覆い被さり、じっと冬花を見下ろした。あまりにじっと見つめるので、冬花は恥ずかしそうに花の中にうずもれる。 顔を隠そうとする手をそっとどかし、不動は笑みをにじませた頬に手の甲で触れる。 「すげー可愛い」 指の背に微熱。頬がほんのりと赤く染まる。 冬花が腕を伸ばし、不動に抱きついた。本当に照れているらしく、胸に顔を押しつけて表情を見せようとしない。 「あきおくん…」 くぐもった声だったが、確かに冬花はそう呼んだ。 「好きです。あなたが好き…」 抱きしめ、花のまき散らされたベッドに横になる。 不動は彼女の身体に巻きついたシーツを剥がした。胸も、なめらかな曲線を描く腰も、昨夜自分の抱いたものが朝の光の中でも実在することを肌で確かめる。 胸を包み込むように触れると冬花が小さく声を漏らし、同時に腹が鳴った。 あまりに意外なタイミングで、不動は自分が今胸に触れていることさえ忘れて笑いの発作を堪える。覗き込むと、冬花は今度こそ真っ赤に染まった顔を背けている。 とうとう笑ってしまった。 「だって…!」 言い訳を言おうとした冬花はしかし、もう言葉が出なくなり、花とシーツの中に隠れようとする。 「やべえ」 不動は逃げようとする冬花を捕まえて、囁いた。 「マジ可愛い」 「からかわないで、恥ずかしい…」 「バカ、本気だって」 ぎゅっと瞑った瞼の上にキスをすると、おそるおそる瞳が覗いた。深い色の底から不動を見上げる。不動は、暴れて頬にかかった髪をそっとどかし、そこにもキスを落とした。 足のふらつく冬花を抱え上げ浴室に運ぶ。 あたたかなシャワーは、狭い浴室をすぐに湯気で一杯にした。 二人は同じ石鹸で身体を洗った。シャワーの下、冬花は不動の背にぴったりと胸を押しつけ、腕を前にまわすと不動の身体を抱きしめた。手にはじわじわと強い力がこもった。 「明王君」 囁き声も、水音と共にタイルの壁に反響する。 「仕事で来たって言ったの、嘘」 胸に押しつけられた冬花の手を、不動は握り締めた。 「解ってる」 「私…」 「冬花」 不動は冬花の手を取り上げ、指先にキスをする。 「お前のこと全部、俺は赦す」 おそらく冬花は泣いていた。背を流れるあたたかなものはシャワーだけでなく、彼女の涙だった。 浴室から出た不動は、自分は下着だけを穿き、バスローブを冬花に渡した。 キッチンテーブルに向かい合って座り、サンドイッチを半分ずつ、果物も半分ずつ。ワインは冷蔵庫に戻して、コーヒーを飲んだ。 冬花は頬杖をつき、不動を見つめる。その視線は顔の中心より少しずれている。不動は耳に、ちりちりとした視線を感じ、指をやる。ピアスが触る。 「いいなあ」 冬花が呟いた。彼女の耳は傷一つなく、美しい。 「これか?」 不動は指でピアスを弾く。 「明王君がしてるのを見ると、羨ましくなっちゃう」 「空ければいいじゃねえか」 冬花は、うーん、と苦笑し、コーヒーに口をつける。その時、彼女の胸に去来したものを思うと、不動は彼女を元のままに戻して日本に返さなければならなかった。それは自分に会うためだけに、何もかも置いてここへ来た冬花への暗黙の義務だった。しかし一方で、義務なんざクソくらえとばかりに彼女に傷痕を残し、あるいはどこへも行くなと強く抱きしめて離したくない衝動も生まれる。 「あるぜ、ピアッサー」 呟くように言った声は、思いの外低かった。 不動は敢えて何でもないことのように尋ねた。 「いつ、帰る?」 「明日」 冬花もまた短く、端的に答えた。 互いの視線が逸れる。コーヒーカップの底に何か大事なものでも沈んでいるかのように。しかし視線を逸らしてもそれぞれへ向けられた意識が身体を動かす。 裸足の爪先が時々触れ合った。不動が指先を踝からふくらはぎに滑らせると、冬花はコーヒーカップを震わせたが、退こうとはしなかった。 二人は不意に立ち上がり、手を繋いで小走りに寝室に向かった。しかし、そこにあったのは大きくカーテンを開かれた窓明かりの下、もみくちゃにされた花とシーツで、二人はその手前で立ち止まると、顔を見合わせてちょっと笑った。 それから二人は掃除をした。一緒にしゃがみ込んでベッドと床の上に落ちた花を拾った。ほとんどが潰れてしまったが、何本か生き残ったものがある。冬花はそれを空きビンに生けてキッチンテーブルの上に飾った。 それからシーツと、廊下に脱ぎ捨てたままだった昨日の服の洗濯。窓を開けると、心地よい風が吹き込んで、冬花が窓辺で伸びをする。それを後ろから抱きしめ、窓から遠ざけると、彼女は振り向いて不思議そうな顔をした。 「誰かに見られるかもしれない」 「あ、ごめんなさい」 「そうじゃない」 まだしっとりと水気を含んだ冬花の長い髪に顔を埋め、不動はぼそぼそと言った。 「誰にも見せたくない」 新しいシーツの上に二人で乱暴に転がり込む。 冬花が 「窓が…」 と指さすので、不動は乱暴にカーテンを引っ張った。レールから外れたカーテンが三分の一、斜めにだらりと垂れ下がった。
2011.4.15
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