30代編3
少し早い時間に目覚めた。不動はコーヒーを淹れ、キッチンの前に佇んだままそれを飲んだ。窓から見える空はよく晴れて、青く澄み渡っていた。 流しの上の窓を開け、アパートとアパートの隙間の狭い青空から風を通した。リビングの広い窓を開けると、風の通り道が分かるほど爽やかに吹き抜ける。大して物を持たない生活だと思っていたが、思いの外部屋は散らかっていた。風に吹かれながら掃除をし、またコーヒーを飲んだ。 一度、通りに降りた。朝の空腹を満たすためと、足りない物の買い出しだった。たまにしか行かない店の女店主は日本人の不動のことを覚えていて、先日のダービーマッチのことを話しながら、一枚分余計に加えたサンドイッチを出してくれる。 持ち帰りでサンドイッチをもう一食分、それから果物と、少し悩んでワインを買った。アルコールは祝いの席の他、ほとんど口に入れない。銘柄も分からなかったので、店員に選ばせた。隣から女店主がうるさく口を出して、勧められたものを買った。 部屋に戻り、ワインの保存方法などろくに知らないなと思いながら、果物やサンドイッチと一緒に冷蔵庫に入れた。何かの祝いでもらったものの使う機会のなかったワイングラス二つも、その隣に並べる。 めかしこむ訳ではないが、気に入った服を着る。いつものピアスをつけ、鏡の中の自分が真面目な顔をしているのを納得して眺めた。緊張はしていなかった。ただ、決意をしただけだ。 それから部屋の窓を閉める。部屋は澄んだ朝の風の匂いをしっとりと落ち着かせた。 扉を閉め、外へ出る。いよいよ鮮やかな空に早くも爆竹の音が響く。 冬花を迎えに行くため、不動は石畳の道を歩き出した。 火祭りも今日が最終日。真夜中には燃やされてしまう人形の前に、祭りの期間中一番の人だかりができる。 どこもかしこも人でごった返していた。言葉が入り乱れ、あちこちで人が押し合うかと思えば人形を背に写真を撮っている。動物をかたどった人の背丈ほどのもの。ビルと同じ大きさの女神像。子どもが作ったものもある。 市庁舎前広場には今年一番の人形が大型のもの、小型のものそれぞれ展示されている。人気投票で一位を獲得したものだ。これが、この祭りの一番最後に燃やされる。 人混みの中でも不動の足は惑わなかった。先日の試合のように、自分がどこへ足を運べばいいのか、まるで空から見下ろしているかのように分かった。 それは、おそらく彼女も一緒だったのだ。 賑わいで、ひとときだって静かにはできない人混みの中で、二人の視線は合った。 お互いに一歩一歩近づいた。誰も二人の邪魔にはならなかった。二人はお互いの目を見交わしたまま距離を縮め、互いの目の前に立つまで歩き続けた。 冬花は白いワンピースを身にまとい、髪を長く垂らした姿で近づいてくる。 二人の距離が爪先の触れ合うまで近づいた時、また爆竹が鳴って人々が移動を始めた。二人は動かなかった。 「待たせたか」 不動は尋ねた。 「待ったわ、とても」 少し拗ねるように冬花が答えた。 不動は冬花の手をとってキスをする。 「悪かった」 冬花が優しく首を振る。 「いいの。全部赦してる」 キスをされた手を、冬花は繋いだ。 人波に溶け込むように二人は歩き出した。サン・ホセ橋から聖堂までの献花パレードに沿って歩いたが、人が多すぎてパレードは見えなかった。冬花は、不動の手に捕まってジャンプした。献花をする火祭りの女王の姿が見えたのは一瞬だけだった。 それから人混みを抜けるように聖堂前広場に向かい、花で飾られた聖母像を二人で見上げた。聖母像のドレスとマントは献花で作られている。冬花は、綺麗、と言い、不動は、すげえ、とそれなりに感嘆の声を上げた。それを聞いて冬花が嬉しそうに寄り添った。 不動はそっと腕に隙間を作り、冬花はそこにするりと自分の腕を絡ませた。 寄り添い合ったまま街を歩いた。最後の爆竹ショーで轟音に悲鳴を上げ、拍手をし、それから街中の人形を見て歩いた。 同じ物を見、同じものを聞き、思ったことを口にし合う。 綺麗。 面白い。 楽しい。 冬花の笑い声が身体をくすぐる。不動はそのくすぐったさに、笑う。目が合って、また二人で同時に笑った。 まだ日の残る夕方に、不動のアパートの前に着いた。 階段の前で不動は立ち止まった。冬花も足を止めたが、それは不動の足に合わせてだった。 「何階なの?」 「四階」 「エレベーターは?」 「ない」 「大変ね」 「そうでもねえよ」 くすっと小さく冬花が笑う。 「かっこいい」 その言葉に一瞬、このまま抱え上げてのぼっても構わないと思ったが、流石に浮かれすぎかと思ったし、何より階段の幅は狭かった。 冬花が組んだ腕にきゅっと力をこめ、身体が密着した。不動は一歩踏み出し、冬花を促した。エスコートをするのは人生で初めてのことだった。照れはなかった。歩調を合わせて階段を上った。 玄関のドアを開けると細長い廊下が伸びている。増築を繰り返したらしいアパートは奇妙な作りをしていた。まず一番端の壁まで廊下が伸び、左に折れるとリビングがある。突き当たりの壁はリビングから続く広い窓が嵌まっていた。広場を見下ろすことのできる窓だ。まだ青い夕空が広く広がっているのが見えた。 廊下の半ばで冬花の腕がほどけた。不動が振り向くと、彼女は片足立ちになってサンダルを脱いでいた。 もう片方も脱いだ冬花は廊下にサンダルを揃えると、振り返った不動の正面に立った。 互いのかすかな呼吸が聞こえた。肩を優しく掴み抱き寄せると、胸が触れ合ってその呼吸も、心臓の鼓動さえも聞こえた。 震える息を吐いて、冬花の腕が首にまわされた。とうとう不動は冬花の身体を抱きしめ、冬花はわずかにつま先立ちになりながら不動と頬を触れ合わせた。 不動が彼女の身体を抱き上げようとすると、冬花はぐっと腕に力をこめ、耳元で囁いた。 「お願い、ここで」 思わず腕の力を緩めて彼女の顔を見る。 冬花はかすかに微笑んでいた。 「ここがいいわ」 不動は靴を脱ぎ捨てた。 白いワンピースを脱がせる。裾を持ち上げて、両手を挙げた彼女の身体の上の方に捲り上げた。腕からワンピースが抜けると、冬花は惜しがりもせずそれを床の上に落とした。下着も同様に、それを脱がせた不動の手から落ちるのを、ただ静かに見送っただけだった。 冬花は壁を背に佇む。初めて見る裸の胸。曲線で描かれた冬花の裸身は、暗い壁紙を背に白く光って見えた。夕方の空のような、柔らかな光だった。不動には、冬花の裸が光を内包しているように感じられた。手のひらを、首筋から身体の中心をとって真っ直ぐに滑らせる。 冬花の白い両手が胸にあてられた。不動は彼女の頬に触れ、顎に触れ、わずかに仰向いた唇に自分のそれを重ねた。 冬花の手はゆるやかに不動の胸をなぞり、シャツのボタンを一つ一つ外した。唇を離すと、最後のボタンまで外され、裸の胸に冬花がキスをした。 服を脱いで落とす。それからポケットを探ったが、冬花はその手をそっと押しとどめて、いいの、と言った。 「ピルを飲んでるから」 それは今までの情感の溢れた空気の中ではひどく生々しく響いたが、不動の気分はそがれた訳ではなかった。むしろ彼女の身体に対する思いやりのような、何か奇妙な愛しさが生まれ、不動は指で冬花の下腹に触れた。すると、冬花も自分の手のひらを不動の下腹部にそっと押し当てた。 不意にくすくすと冬花は笑い出した。 「何だよ」 「ううん、よかった」 「何が」 「よかった…」 冬花の手が背中を抱き、不動の身体を抱きしめた。密着する裸に、まだベルトも緩めていない下で不動の強ばりは増す。 二人は言葉を交わすのをやめた。互いの手が相手の身体を探り、皮膚の下を流れる血に、震える筋肉に言葉を読み取った。 待ち望んでいた瞬間を目の前に、冬花が不動の首を抱いた。微笑みながら、しかし哀しみに震えるような瞳が不動を見上げた。 淡い色の唇がほころび、囁きかける。 「世界中で不動君だけは、私のこと、全部赦してね」 不動はキスをしようとし、ふと思いとどまると、彼女と額を触れ合わせた。 「当然だ。最初にお前が赦してくれたんだから」 「不動君…」 「赦す」 至近距離で、目を細め涙を滲ませている冬花に囁いた。 「全部赦す、冬花」 冬花の口から長い溜息が漏れた。充足と、歓喜の混じり合った溜息だった。 二人、同じ頂に到達した後は、不動は今度こそ彼女の身体を両腕で抱え上げ寝室に運んだ。朝の風の残り香がベッドの上に漂っていた。不動はそこに白い身体を優しく横たえ、すぐにはのしかからず腕をついてその裸身を見下ろした。 「綺麗だ」 思ったことを掠れた声で囁くと、彼女は両手を伸ばして不動を迎え入れた。 冬花の身体はどこまでも優しく不動を受けとめた。交わる際も、果てた後で息つく身体も。不動はその身体に、綺麗だ、と繰り返し、冬花はそのたびにぽっと赤くなったり、更に体温を上げるのだった。 窓の外、空はすっかり夜の色に染まっていたが花火の光や、歌い、踊る人々の活気に街は明るく彩られていた。不動は自分の身体の上に俯せた冬花の背中を撫でながら、その感触を楽しみ、窓の下の賑わいに耳を傾けた。 「ラ・クレマ」 冬花が囁く。 「ん?」 「人形の点火式。でしょう? 飛行機の中で勉強したの」 窓の外がいっそう明るくなり、火の粉が舞う。 炎の燃え上がる音、どよめき。 冬花の両手が頬を包み込み、優しく長い口づけをされた。それは本当に甘く感じた。 また轟音。張り子の人形が炎と灰になって崩れ落ちる。更に高く舞い上がる火の粉が窓の外を焦がす。不動は冬花に、自分の腕を枕にさせてそれを見せた。彼女はぴったりと不動の身体に寄り添い、それを見つめた。 「綺麗」 深い色の瞳に鮮やかな炎を映しながら、冬花が囁いた。 「綺麗だ」 冬花の手は不動の胸の上、心臓の真上に置かれていた。心臓の鼓動と共に、不動は囁いた。
2011.4.13
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