30代編2







 祭りの期間に試合が重なることはないでもないが、それが特にダービーマッチともなると火に油を注ぐの言葉どおり、スタジアムの内も外も例年以上の賑わいだった。
 ハーフタイム終了後、監督が拳で背中を叩いた。
「暴れてこい」
 いつもは温和な監督が、動物が牙を剥き出しにするような顔で笑った。
 不動も勿論そのつもりだった。前半はベンチを暖めていた鬱憤が溜まっている。
 ピッチに踏み込んだ瞬間、細胞単位で全身が目覚めるのが分かる。これは視覚として認識しているのだろうか。ボールがどこへ落ちるのか、味方がどこから声をかけ、敵がどこに走り込むのか、全てが正確に分かる。監督の指示、コーチの大声、スタンドの罵るような応援。
 見守られる視線を感じた。
 身体がふわりと軽くなり、ボールに追いつく。どうすればいいのか、自分の行くべき道が見える。
 がら空きだぜ。
 果たして本当にそう呟いたのか。不動の蹴ったボールは選手達の足の間をすり抜け、キーパーの手の、ほんの1センチ届かない先でネットを揺らす。
 歓声が沸き上がるまでのほんの一瞬、不動の耳の中は完璧な静寂に満たされた。不思議な瞬間だった。
 勝利が歓声と共に落ちてくる。
 不動も拳を空に突き上げたが、更に後ろから抱きついてきたチームメイト達に押し潰されてしまった。彼らは口々に喜びとも罵りともつかないような大声で喚き立てる。しかし明澄な瞬間は続いていた。自分の名前を呼ぶ監督の姿が見えた。一番遠く離れたゴールキーパーがぐっと拳を握り締めるのも。そして満員のスタンドの中から、たった一つの視線を感じた。
 試合終了の笛が鳴るまで、視線は不動を見守り続けていた。

 アパートの部屋に帰り着いた時にはすっかりへとへとだった。帰るまでにまた人に揉まれ汗まみれになっていた。
 スポーツバッグを床に落とし、服のままふらふらと浴室に踏み込む。蛇口を捻ると冷たいシャワーが頭上から降った。不動は異様なほど熱のこもった身体を水で洗い流し、濡れて脱ぎにくくなった服を苦心して脱いだ。
 素裸になり床の上をうろうろする。濡れた足跡が浴室から続いている。
 キッチンの前の椅子に腰掛け、乾いたタオルに顔を埋めた。
 あの歓喜が訪れる前のほんの一瞬、不思議な静けさの余韻が胸の中に残っていた。不動は勝利に興奮しつつも、自分の中に静かな芯があるのを感じていた。それは明澄な意識。あの瞬間、自分にゴールを指し示したものでもある。
 不動は顔を上げ、自分の足を見下ろした。過去の様々な瞬間が、三十を過ぎた今の自分の肉体に繋がっているのを感じた。
 俺はこの瞬間が来るのを知っていた。ボールを初めて蹴った日に。沈む潜水艦からもがき脱出し、水面を目指して泳いだあの時にも。FFI。日本の高校で過ごした日々。スペインに渡ってからの歳月。それはどの勝利の瞬間でもなく、今日、このゴールに繋がっていた。それは全ての時間のう一瞬しか訪れない、完璧な瞬間だった。
 そして完璧な瞬間を経た不動には感じ取ることができた。彼は床の上に放り出したままのスポーツバッグに目を遣った。携帯電話が鳴り出したのは、その直後だった。
 知らない番号。だが、市内だ。
『もしもし…』
「冬花か」
 顔に微笑みさえ浮かべて不動は呼んだ。
『よかった。電話番号、変わってなかったのね』
 今、ホテルから電話をかけているのだと冬花は言った。
『試合、見たわ。おめでとう』
「それで、わざわざ電話したのか」
『どうしても伝えたくて』
 疲れてるわよね、ごめんなさい、と彼女が声を小さくしたので、不動は引き留める。
「悪い気分じゃねえよ。こうやって祝ってもらうことなんか、ねえし」
『…じゃあチケットのお礼もかねて、お祝いに御馳走させてくれない。今日でなくてもいいんだけれど。明日にでも。不動君の都合さえよければ』
 今夜でも全く都合は悪くなかった。
 不動はホテルのベッドに腰掛けて電話をする冬花の姿を思い浮かべた。おそらく彼女もシャワーを浴びたばかりだろう。長い髪が濡れている。バスローブから伸びる白い足は歩き疲れて投げ出されている。
 イメージは自分の妄想ではなく、電話を伝って彼女の気配が具現化するように不動の脳裏に浮かんだ。
 今夜。もう日が暮れる。それからまた花火が鳴り響く。
「じゃ、お言葉に甘えるか。明日、迎えに行く」
 ホテルのロビーで待ち合わせの約束をし、電話を切る。
 不動はもう一度冷たいシャワーを浴びた。意識ははっきりしていた。だからこそ、今湧き起こる衝動は何としても抑えなければならなかった。
 明日は火祭りの最終日を前にしたパレードが行われる。街中を歩けばどうせぶつかるイベントだからざっと案内して、食事をして、先日のようにホテルまで送っていけばいいだけの話だ。古い知り合い同士が異国の地で再会して辿る、ありきたりなシナリオに従って。

 翌日、ホテルのロビーに待っていた冬花は長い髪を簪でまとめ、この街で出会った初日、一瞬だけ見かけたあの姿そっくりで立っていた。
 同じ服だと不動が気づいたことに冬花も気づき、恥ずかしそうに言った。
「急にこっちに着たから、ろくに着替えもなくて」
「買えばいい」
 また何かを言う前に、不動は冬花の手を取って外へ出た。女物の服のことはよく分からないが、適当に若い女が多くいそうな店に入る。
「選べよ」
「え……」
 驚いて見上げる冬花の瞳は大きく見開かれ、わずかに涙で潤んでいた。イヤリングも、ピアスの穴もない美しい形の耳が赤く染まった。
 冬花は遠慮がちに服を選んだが、店員がやって来ていろいろと服を差し出す。お似合いですよ、とあてて見せたのは膝丈の白いワンピースだった。ふわりと柔らかそうな生地のそれは冬花には似合うだろうと思った。当の冬花は値札を見てすっかり困っており、つたないスペイン語で断ろうとする。
 不動はそのワンピースと冬花の手にしている服の二着を店員に預けた。
「不動君…!」
「折角だから着替えて来いよ」
 支払いを済ませた不動は店の外で待っていた。
 目の前を献花パレードが通り過ぎてゆく。金糸銀糸の民族衣装をまとった少女達が、花を手に聖堂へ向かう。
「お待たせしました」
 少し緊張した冬花の声。
 振り向くと、さっきの白いワンピースではない。
「着ろよ、折角なんだから」
「…遠慮と奥ゆかしさは日本人の美徳です」
 献花パレードと擦れ違うようにレストランへ向かった。
 旅行ガイドで調べたらしい、高い店だったが、値段に相応に美味かった。
 冬花は今度こそ自分の財布から支払いをし、ホッとしたような顔をした。
 日が暮れかかり、人形を照らし出すライトアップがそこここで始まっていた。一足早く、花火が打ち上がる。二人は自然と足を止めて空を見上げた。
「花火、ホテルからは見えたか?」
「ええ。でもこうやって見る方が綺麗」
 不動はそっと彼女の横顔を盗み見た。髪を上げたせいであらわになった薄く清潔な耳、白い首筋。花火を見上げる瞳は深い色に染まった空を映す。
「…不動君?」
「あと、どれだけいるんだ」
 冬花はふと俯き、視線を逸らして小さな声で、もう少し、と言った。
「明日は」
「いるわ」
 視線が持ち上がる。
 周囲が皆空を見上げる中、お互い正面から見つめ合った。
「不動君は?」
「オフだ」
 まるで決闘する者が銃を手に一歩ずつ後ずさるように、二人は互いに少しだけ離れた。視線は結び合ったまま、互いの中のものを読み取ろうとしていた。恐れか、攻撃の爪か、それとももっと別の炎か。
 約束の言葉はなかった。二人は短い言葉で別れた。
 何故、今夜では駄目なのか。何の躊躇だったのか。必要なのはワンピースなのか、赤いバラなのか。
 不動は冬花に気づかれぬよう振り向いた。ほっそりした後ろ姿はホテルの階段を上るところだった。サンダルの足首、ふくらはぎがスカートからちらりとのぞいた。彼女は緊張している、と思った。不動自身と同じように。
 また冬花も、不動に気づかれぬように振り向いていた。階段を上りきったホテルの玄関前で立ち止まり、雑踏の中に不動の背中を見た。祭りにごった返す通りから、たった一人を、彼女の瞳は探し出すことができた。彼の姿から背を向けるのは難しいことだった。ドアマンに声をかけられ、冬花はようやくホテルの中に姿を消した。



2011.4.12