30代編1







 風から涼しさが抜け、ひどく暖かい日だった。街はざわめいていた。どこもかしこも人で溢れ、そこここに爆竹の音が響いていた。
 サン・ホセの火祭りは旅行ガイドでもトップにくるほど有名な祭りだ。始まったばかりで既にこの賑やかさだが、これからもっと騒がしくなる。観光客も増え、最終日の夜は一晩中眠れないだろう。
 不動は居残り練習をしていたが、そういう選手はこの季節ばかりは少なかった。コーチは、日本人らしく真面目だ、と言うが、不動の本音は祭りで賑わう雑踏を一人歩くのも遠慮したいと思っているだけだ。大人しく部屋に帰っても、参加しない祭りの爆竹は耳にうるさく響くだけ。
 仲の良いチームメイトもいるが、彼らには恋人や、あるいは家庭があった。彼らの姿はもうない。今頃は相応しいパートナーと共に祭りを見物しているだろう。一際大きく、連続した爆竹の音が石造りの建物や石畳の道路に反響してここまで届いた。市庁舎広場でのイベントの爆竹だろう。あいつも、あいつも、多分そこにいるに違いない。
 気が逸れたが、飛んできたボールを受けて蹴り返すことができた。わざとそうしたのだろう相方は悔しそうな顔をして笑う。
「不動、こっちに来て何年になる」
「さあ」
「祭りには行かないのか?」
「観光客だらけで面倒くせえ」
「ストイックな男だな、お前は」
 ふとデモーニオの顔が脳裏に浮かんだ。いつか似たようなことを言われた気がする。
 居残り練習も結局、早めに切り上げた。
 ロッカールームで不動から話しかけた。
「お前は行かないのか、祭り」
「明日試合を見にお袋が田舎から出てくるんだ。パレードと最終日を一緒に見る」
「親父は?」
「死んだよ。大工で、生きてた頃は祭りの人形も作ってたけどな」
「そりゃあ、悪かった」
「別に。死んでもう十年になる」
 ここだけの話、お袋には恋人がいるんだ。俺とそんなに齢が違わない男が。俺が知ってることに彼女は気づいてない。多分、祭りの夜に告白されるんだろうな。そう勝手に喋るとさっさと着替えを済ませ、ドアから不動に手を振った。不動も軽く手をあげ、チャオと返した。
 祭りの人形。火祭りと言われるとおり、連日の爆竹や夜の花火、そして祭りのクライマックスには街中に展示された張りぼての人形を燃やす。大きいものではビルほどの高さのものが巨大な火柱を上げ、あっと言う間に燃え尽きる。最後は灰と炭になってしまう人形の製作に、バレンシアの職人達は一年を費やし技を尽くすのだ。
 不動は真っ直ぐアパートには向かわず、少し遠回りをして市庁舎広場へ足を向けた。もう今日の爆竹のイベントは終わっているが、広い場所には巨大な人形の展示がされている。いつもはテレビでも流して見る程度だったが、たまには見るのも悪くない、そういう気分になった。
 人形のデザインは様々だ。映画のキャラクターもいれば、今年の有名人の顔を見ることもできる。風刺を込めた政治家の人形もある。これが最終日の夜に全て燃やされるのだ。
 広場に近くなると道は混雑した。人形の前では人の流れが淀む。いざ人混みに揉まれ、些かの悔いを感じながら不動はゆっくりと広場を一周した。
 まだあちこちで爆竹の音がする。これは祭りが終わるまで止まない。破裂音が響くと人々はそれに負けぬような大声でお喋りをする。この地方の方言ばかりではない、外国語も声高に聞こえた。
 混雑の中、一方からどっと押される力。人々が足をもつれさせる。何人かが転びそうになる。罵る声と悲鳴の中、不動の耳に日本語が飛び込んできた。
「ごめんなさい」
 その声はあまりにか細くて人混みの中で押しつぶされてしまうかに聞こえた。不動は周囲に目を走らせた。
 ほっそりした女の後ろ姿。身体が斜めになり、顔が一瞬横を向く。留めていたらしい長い髪がほどけてなだれ落ちる。
 また人混みが揺れた。女はまた押されるままに身体を傾ける。
 ふらりと残った手を不動は掴んだ。
 その手を掴んだ瞬間、幻のように感じていたそれは確信に変わった。
「…すみません」
 女は人混みから引っ張り出され、足をふらつかせながら俯けていた顔を上げた。
「ええと、グラシアス…」
 顔を上げた彼女は勿論驚いたのだが、不動が逆に驚かせたのは、彼女の表情にみるみる優しい微笑が広がったことだった。
 眩暈を起こしそうだった。時の流れを忘れ、不動は目の前の微笑に全てを奪われた。彼女の、冬花の微笑みは雑踏も爆竹の破裂音もかき消してしまうほど不動に眩しく焼きついた。
 冬花は不動の手に支えられてちゃんと自分の足で立つと、柔らかく手を離し、スカートの裾を払った。
「…こんなに早く会えるとは思わなかったわ」
「早く?」
「今日、着いたばかりなの。ホテルに荷物を預けたまま、チェックインもしてないのよ?」
 自分と同い年のはずだが、まるで少女のままのような明るく柔らかな物言いだった。彼女は結婚して、子どももいる。それは頭の中で分かっていた。しかし、不動の目の前にいる冬花は時をこえて現れたかのように、若々しく、また清らかだった。
「どうして、ここに」
 冬花は微笑むだけで答えなかった。
「冬花」
 笑わず、名前を呼ぶ。冬花にもその真面目さが伝染したかのように一瞬笑みが引っ込んだ。
「不動君に会いに」
 しんとした声が言った。
 ざわざわと二人を包み込む祭りのざわめきが蘇る。
 冬花の、見上げる目元に微笑が刷かれる。彼女は広場を見つめ、目を細めた。
「嘘よ。仕事なの」
 不動が息を吐くと、彼女はごめんなさいとあのウィスパーボイスで囁きながら笑った。
「とても賑やか」
「この時期ならな、当たり前だ」
「ラス・ファリャスね。飛行機の中でパンフレットを読んだの。時期が重なったのは偶々なんだけど、折角だから見て行こうと思って…」
 わずかに沈黙が生まれた。冬花の表情からはそっと陽が翳るように微笑みが消えた。
「あ……」
「飯は?」
 不動が偶然を装って、言葉を遮った。遮らなければ、冬花は、会えてよかった、と言っていただろう。
 彼女はあ、という形のまま開いた唇をそっと閉じ、少し顎を引いた。
「まだなの。機内食だけ」
「一緒にどうだ?」
 いい店を知っている、と付け加えた。
 冬花は大人らしい笑みで答えた。
「ご迷惑じゃなければ」
 歩調を落として歩いた。冬花はすぐ後ろをついてきたが、不動が何度も振り返るので苦笑して隣に並んだ。
 食事をしながら、明日は試合だと言うと冬花は驚く。
「ごめんなさい、ちっとも知らなかった。急に出てきたものだから…」
「仕事で来てんなら仕方ねえだろ」
「でも、見たいわ、試合。今からでもチケット取れるかしら」
 不動は電話をし、チケットを一枚確保する。冬花がバッグから財布を取り出そうとするのは押しとどめた。
「いいんだよ、貸しのある奴だったんだ」
「でも、悪いわ…」
 せめて食事代だけでも、と冬花は言ったが、不動は先んじて支払いを済ませている。
「偶々会えただけなのに、すっかり甘えちゃって。本当に、悪いわ…」
 店を出てからも冬花は繰り返す。不動はぶっきらぼうに、いいんだよ、と繰り返し答えた。
 ホテルの前まで彼女を送った。旧市街の落ち着いた通りだった。バレンシアは高い建物が少なく空が広いから、そこからも花火が見えるかもしれなかった。そう言うと、冬花は黙って笑い、うなずいた。
 別れの言葉が切り出せなかった。
「明日の試合、頑張ってね」
 冬花の言ったひとことがようやくきっかけとなった。
「ああ」
 それじゃ、と背を向ける。
 不動は背中に冬花の視線を感じていた。彼女はまだ通りに立っていた。角に展示された人形のライトアップにほのかに照らされて、不動の背中を見つめている。
「振り返るな」
 小さな声で不動は呟いた。自制の手綱を強く握り締め、夜を睨みつけて歩いた。
 どこをどう歩いたのか自分でも分からない内にアパートに着いていた。乱暴に玄関のドアを閉める。後ろ手に掴んだドアノブが冷たい。彼は手を離し、それを目の前に持ってきた。
 掴んだ冬花の手首の感触が消えなかった。鮮やかに、今も彼女が目の前にいてこの手を引けば抱き寄せられるような幻を感じた。
 花火の音が古いアパートを震わせる。花火の、飛沫のような光が、四角く切り取られた夜空の端に見えた。
 冬花はホテルの窓からこれを見ているのだろうか。そうに違いなかった。彼女は今や幻ではなく、同じバレンシアの空の下にいる。不動は彼女の為にチケットを用意し、明日、彼女は自分の試合を見に来るのだ。
「…畜生」
 にやける、とまではいかなかったが、笑いが不動の中に込み上げた。戸惑いも、幻を目の前に揺れた心も、全てが一つの昂揚へ繋がった。
 明日はスタメンであるように、と、らしくもなく天に祈り、不動は眠りについた。



2011.4.10