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20代編6
ラジオが何年も前に解散したロックバンドの曲を流している。次々とものが片付けられ空っぽに近づいていく部屋の中で、二人は珍しくチャンネル争いもせずロックに乗ってダンボールの山を積み上げた。荷物のほとんどはイタリアに送られるものだった。不動の荷物は少なかった。 デモーニオ・ストラーダが引退を決めた冬、不動も移籍が決まった。 タイミングを合わせた訳ではない。特にデモーニオの身体の異変は突然のものだったから全くの偶然なのだが、ここ数年のチームを牽引してきた人間が急に二人も抜けてしまうことは地元では大きなニュースとなった。 不動はこの後、階段を使って荷物を運ぶことを考え、ちょっと足を止めるとダンボールの上に腰を下ろしてビールを一口呷った。 ラジオから流れるロックバンドは、お互い特に話題に出したことはないが気に入っていたのだろう。今聞こえるこの曲も、不動は聞き覚えがあった。試合も練習も何もない日の夕方、二人であり合わせの夕食を摂っていた。話題というほどのものもなくてリビングは静かだった。そこにこの曲は流れていた。気詰まりはなかった。二人ともロックに耳を傾けて食事をするのを、それなりに楽しんでいた。 その時のDJが言ったのだ。この前彼らが作ったアルバムは素晴らしすぎた。あれを聞いた時、私たちにはもう分かっていたのかもしれない、彼らの解散が。 ビールの壜から口を離し、不動はデモーニオを振り向く。今は眼鏡をかけている。薄く色が入っているのは、彼の瞳の光量を調節する機能が著しく衰えたせいだ。 特にこの一年、デモーニオのプレーは素晴らしかった。彼がゴールを決めるたびにメディアは絶賛したし、不動もその鮮やかさに舌を巻いた。へそ曲がりの彼でさえ、それらのゴールは素直に賞賛に値すると感じた。 だからその時、不動にも本当は分かっていたのだろうし、デモーニオ本人はなおのこと自覚していたに違いない。今こそがピークで、その先には崖があるのだろうと。 それは突然のことだった。ある朝、不動が先に起きてコーヒーを淹れていた。デモーニオはなかなか起き出さなかった。そろそろ起こしてやろうと不動が椅子から腰を浮かした時、寝室で倒れる音がした。駆けつけると、床の上に表情をなくしたデモーニオが倒れていた。 「アキオ…」 全く見当外れの所に視線を彷徨わせ、気弱な声で呼ぶデモーニオは事態を理解してはいるようだった。それでも全くショックなしという訳にはいかなかった。それが声の震えと、蒼褪めた顔だった。 視力の喪失は一時的なものだったが、しかしもう昔と同じ光を取り戻すことはできないと医師は言った。 今、デモーニオがどんな世界にいるのか、不動には想像がつかない。 ただサッカーを続けると決めた時からの覚悟がデモーニオにはあった。引退も、イタリアへの帰国も決断は早かった。本来なら春以降、バレンシアに移籍した不動と敵同士として対戦することになっていて、不動はそれが楽しみだったのだが。 「怠けるな、アキオ」 デモーニオがこちらを見て叱る。 「見えるのか?」 「働いている音が聞こえない」 飲みかけのビールを差し出すと、デモーニオはふと表情を緩め静かに手を伸ばした。不動の腕に触れ、手の甲から掴んだ壜をなぞるように手のひらを滑らせ、受け取る。 「…どんな風に見えてるんだ」 初めて、そう問いかけた。 デモーニオはビールを呷ると、苦笑し、説明しづらいな、と言った。 「明るいものが見える。暗い影も。光も影もある世界が見える」 「俺は?」 「お前は光だとでも言ってほしいのか? ルシェじゃあるまいし、おこがましい奴だ」 今は亡き影山零治の最後の光となった少女の名前を口にし、デモーニオは不動に向かって壜で軽く叩く仕草をした。不動はそれを受け取り、残ったビールを飲み干す。 「寂しいのか、アキオ」 「んな訳あるか。そもそも俺が出て行く予定だったんだ」 五年以上、共に暮らしたこの部屋から。 「お前こそ寂しいとか思ってんじゃねーの?」 「オレは故郷に帰るんだから、別に寂しくない」 不動の舌打ちはデモーニオにも聞こえたようだ。 「だとしても、これからどうすんだよ」 「それなりに顔も売れたし、オレは見た目がいいからモデルでもやろうかと思っていたが、フィディオ・アルデナから誘いを受けた」 「…はあ?」 「パートナーとしての誘い、だ。イタリアに帰ったら彼の仕事を手伝う」 その言葉の響きに嗅ぎ取るものがあった。そういうことか、と思う。そもそもこいつはフィディオに憧れていたのだ。 母国に待つ人間がいるのだな、とまじまじとデモーニオを見ればサングラスの下の瞳が穏やかなのもうなずける。 「…急に静かになった」 時計が正時を過ぎ、ラジオも番組が移った。さっきまでのロックと打って変わり、クラシックギターの音色が哀愁をもって響く。 デモーニオは小さな歩幅で不動に近づくと、そっと頭を抱いた。 「な、オレの予言通りだろう」 「何が」 「お前は孤独な場所からやってきた。そして孤独の道を行くんだ」 「…望むところだ」 「でもオレは、お前と暮らした日々は楽しかった。お前のことも、少しは愛した」 「よせよ」 「些細なギフトだ、怖がるな。お前は孤独な男かもしれないが、誰の想いも届かない訳じゃない」 窓の下からクラクションが鳴らされた。家具屋が中古のそれを引き取りにきたのだ。 デモーニオの腕がほどけた。不動は立ち上がると窓から顔を出して家具屋に上がってくるよう声をかけた。 バレンシアのアパートは空っぽだった。テーブルも、椅子の一脚もなかった。部屋の真ん中に少ないダンボールを積み上げ、不動は溜息をついて腰を下ろした。 雨が降っていた。この地方では珍しい冬の雨だった。 隣のダンボールの上にはコーヒーとサンドイッチの袋がのっていた。これがバレンシアについて初めての食事となる。 取り敢えずコーヒーに手を伸ばした。冷たい雨が、冬の涼しさを肌寒さに変えた。カップの蓋を取るとコーヒーはその黒い水面からあたたかな湯気を立ち上らせる。湯気と一緒に香りを鼻腔の奥まで吸い込めば、殺風景な部屋ながら人心地もついた。 窓の景色は斜めに広場を見下ろすなかなかに良い部屋だった。管理人の話だと、春の火祭りの様子もよく見えるらしい。 今はその広場も人影はなく、露天の屋根を雨が冷たく打つ。憂鬱な薄暗い景色だ。 こんな日には家具を買いに行く気にもなれない。どうやって寝ようかとも思ったが、いざとなれば今夜一晩くらいどこか安宿で眠ってもいい。 何かをするには身体の少し重い日だった。雨の冷たさだろうか、一挙手一投足にまとわりつくようなひんやりした何かがあった。寒さ、憂鬱、あるいは哀しみとも表現できそうなものが。 そういったものに取り憑かれるのは不動の好むところではない。 コーヒーをもう一口。 立ち上がらなければならなかった。せめてベッドを確保しなければ、板の間にダンボールをかぶって眠ることになる。それなのに足が動かない。手はコーヒーのぬくもりから離れようとしなかった。 まるで何かを待っているような心地だった。 何を待っているのかは分からない。 携帯電話が鳴り出した時、不動は少し驚いた。しかしコーヒーを手放してそれを握り締めると、自分を呼ぶこの音は雨音の向こうでずっと鳴り続けていたように感じた。 通話ボタンを押し、耳にあてた。 「もしもし」 静かな雨音が電話の中にも降っている。遠い雨音。静かな沈黙。 『…不動君』 その瞬間、不動は理解した。自分が何の為に憂鬱な薄暗い部屋で、雨音の向こうを眺めながら待っていたのか。手の中に残ったコーヒーのぬくもりが何の為か。 「冬花か」 その名を呼ぶことに躊躇いはなかった。自然と口をつき、強く彼女を呼んだ。 相手の声を待つ間、自分の息づかいだけが聞こえる。 『不動君、私、わたし、どうしよう』 「…何だって?」 『お父さんが病院に…、今、手術が始まって、わたし…』 「落ち着け、手術だって…?」 不動君、と震える声が呼んだ。 『お願い、ここに来て』 冬花の声は今にも途切れて消えてしまいそうだった。不動は電話を強く耳に押しつけた。バレンシアの石畳を打つ大雨は、東京から細い電波で繋がれたか細い女の声などかき消してしまうかのように容赦なかった。 「円堂はどうしたんだ。円堂守は?」 『…お願い、あきおくん』 不動は耳から全身が震えるのを感じた。 冬花が不動のことを名前で呼んだのはそれが初めてだった。かつて一度もそう呼ばれたことはなかった。十代、学校の中庭、キスの前も、後でも。 しかし彼女はずっと昔からそう呼んでいるかのように、不動をそう呼んだのだ。 痺れ、動けない不動の耳に冬花の涙声は訴えかけた。 『私のそばにいて。抱き締めてくれないと、私、きっと壊れてしまう…』 「冬花!」 不動は叫んだ。 電話の向こうで子どもの泣く声が響いた。火のついたように激しく泣いている。その声を聞いた瞬間、不動の胸の奥に何かが突き刺さり、冬花が沈黙した。 『――――』 上の空のような掠れた囁きが不動の耳を掠めた。不動には分かった。聞き覚えのないそれ。冬花と円堂守との間に生まれた子どもの名前を、今初めてこの耳に聞いたのだ。 不意に冬花の気配が遠のく。不動は呼び止めようと喉から出かけた言葉を留めた。 それ以降、何の音も、息遣いさえ聞こえなかった。電話は切れ、通話終了の冷たい電子音だけが耳の奥に、やけにくっきりと響いた。 まるで屋根もなく降り込んだ雨がびしょびしょに濡らしたかのように、肩も腕も重かった。不動は何度もボタンを押し間違えながら着信履歴を呼び出した。 最新の着信。並んだ数字。 通話ボタンを押した。 遠く隔てられた場所を繋ぐ音が沈黙を挟んで響いた。 呼び出し音が響くと、不動は歯噛みした。衝動的な行為は、無機質な電子音にわずかに鎮められた。ここで築いた自分の地位、功績の数々も全て擲って日本に帰ると言うのか。そして彼女を優しく抱き締める腕の全てを薙ぎ払い、自分の手の中に入れようと? 何が惜しく、何が恐ろしい。 「冬花…」 あれは終わった恋ではないのか。彼女は一人の女に過ぎないのではなかったか。彼女の優しさに応え、彼女に優しさを与えることができるのも自分ではないと、あれほど――互いに傷をこうむるほどに――思い知ったというのに。 不動は携帯電話を閉じた。彼はぐったりと俯き、冷たい雨音が背を打ちつけるのをじっと耐えていた。 日が暮れようとしていた。雨は黒く、灯り始めた街灯や車のヘッドライトに銀色の筋となって浮かび上がった。 「冬花」 沈黙した携帯電話に向かって、不動は囁きかけた。 「冬花……」 * 例の事件の後、雷門中サッカー部監督に就任していた円堂守が消えたとスペインの不動に報せたのは鬼道有人だった。 「消えた?」 『少なくとも日本にはいない』 「断言できるのか」 『俺や基山が全力を挙げて探した』 そして今も探している。鬼道の力と基山ヒロトの執念は不動も知るところである。それでも見つからないのなら、確かに消えたと表現するのが正しいだろう。失踪や蒸発といった言葉は円堂には似合わない。 電話を切ろうとすると、鬼道が呼び止めた。 『円堂冬花は気丈にしている。久遠監督の支えもあるからな』 「…そうか」 今度こそ通話を切り、溜息をついた。 冬花、円堂冬花だ。 部屋を見渡すと、椅子やテーブルが目についた。しかし不動は耳の奥に雨音が蘇るのを感じた。 あたりが薄暗くなり、椅子もテーブルも消える。肌寒い部屋の真ん中で、冬花の声だけが聞こえる。 手の中から落ちた携帯電話が床の上でひどい音を立てた。不動は我に返った。 バレンシアの空はよく晴れ、地中海の上に輝く明るい太陽の光が窓から射していた。
2011.4.9
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