20代編5







 ひどく穏やかに目覚めた。瞼を開いたら朝だった。ほとんど裸のまま横たわる不動をシーツが優しく包んでいた。不動は起き上がり部屋を見回した。人の姿はなかった。
 リビングに出るとデモーニオが狭いキッチンから顔をのぞかせコーヒーを尋ねてくる。
 くれ、と一言答えて、ふと呼びとめた。
「おい」
「うん?」
 デモーニオは片手にポットを持ったまま立ち止まり、不動に顔を見せた。
「おはよう」
「おはよう、アキオ」
 ぱっと笑顔になり、今度こそキッチンに消えた。
 不動はリビングに腰かけ、テレビをつけた。ニュースの中で昨夜の試合がダイジェスト放送されていた。
 パスがきれいに届く。安全で、きれいすぎるほどだ。
 面白みもないパス、と不動は口の中で呟いた。
 対して、それを受けたデモーニオのゴールの鮮やかなこと。
「そうだな」
 デモーニオがコーヒーを差し出しながら言った。
「もう一歩先までボールが来ててもよかった。オレなら簡単に追いつけたから」
 いつもなら悪態の応酬をするところ、不動は何も言わずコーヒーを口に運んだ。
「うまい」
 一言呟く。
 デモーニオは不動の背に佇んだままテレビを見ていたが、ニュースが次の話題に移ると、するりと両腕を不動の首に絡みつかせた。不動は伸びてきた腕にキスしてやり軽く抱きしめる力に身を委ねる。
「…最近優しいな、アキオ」
「そうか?」
「つまらないくらいだ」
 デモーニオが耳に噛みつく。ピアスがかちりと音を立てる。
 不動は仰向くと手を伸ばし、デモーニオの頭を引き寄せた。キスの後、デモーニオはソファの背もたれを乗り越えて不動を押し倒し、笑った。
「牙を抜かれた犬みたいだ」
「犬かよ」
「狼はもっと他の奴が似合うだろ」
「だからって犬か」
「一匹狼って言ってやりたいが、オレと一緒に暮らしてるしな」
 指輪をしたデモーニオの手が胸の上に触れた。指輪の部分だけひやりとした感触が触れる。
 デモーニオは筋肉の下の肋骨を感じ取るように手を押しあてた。
「痩せた、孤独な動物」
 ゆっくりと身体を倒し、胸の上にキスをする。
「お前は独りの場所からやって来たし、独りの場所に帰っていくんだろう。一緒に暮らして何年にもなるのに、オレはお前に触るとほとんど毎日そう思う。この部屋はかりそめの宿だ。いつか、ここからもいなくなる」
 抱き寄せてキスをしてやると、デモーニオは少し眉を寄せたまま笑った。
「お前が優しいと、少し怖いな」
 不動は黙って相手の服を脱がせ、自分の上に跨らせた。
「そういや、お前は…」
 手を手綱のように握られ仰け反っていたデモーニオが、不動の言葉に動きを抑え俯く。
「なに…?」
「お前…」
 帰る場所があるのかと尋ねようかと思った。しかしそれは不要のものであると、昔の記憶から分かっていた。
「いいシュートだったよな」
 ぽっかりと浮かんだままだった感想を言葉にした。
「このタイミングで褒めるとか…本当に優しすぎるぞ。なにがあった?」
「馬鹿、下心だよ」
 サービスしろ、と下から突き上げると、デモーニオは笑って手を繋ぎなおす。
 古いソファのスプリングはひどく軋んだ。結局二人は床に転げ落ちてもつれ合った。

 夏の終わりと同時にサッカーの季節が始まる。デモーニオのプレーはいよいよ鮮やかで、それに引き上げられるように不動も他のチームメイトも今より一歩踏み出し、今より一歩強く蹴る。
 そう言えば自分がはるばる異国までやって来てこのチームに入ったのもそういった役割のためだったと思うと、不動にも闘争心が湧いた。
 サッカーに没頭した。冬花を忘れるために、ではなかった。しかし、終わった、とはっきりと口にしたことは少なからず影響を与えていただろう。冬花が泣く夢は以前ほど生々しいものではなかった。それは思い出になろうとしていた。心の棚が整理され、不動はサッカーをする喜びに向かって素直に入り込むことができた。
 翌春、日本から手紙が届いた。
 二通だ。
 一通は久遠道也、もう一通には円堂冬花と署名がされていた。
 不動はデモーニオに悟られないよう封筒を持って部屋にこもった。
 先に冬花の手紙を開封した。丁寧な文字で、短い文章が円堂との結婚を報せた。続けて手紙はこう言った。

   不思議なようですが、今あなたに感謝しています。
   高校生の時の想いを後悔することはないのだと思えた時、私はようやく、
  目の前の人が自分を愛してくれていることを全て受けとめることができた
  のです。

 ありがとう、という一言で手紙は締められていた。
 不動はそれを手にしばらく俯き、黙り込んでいた。想像していたようなショックはなかった。例えば取り乱したり、いつかのように電話をかけたくなるような衝動に駆られることは。
 ただ寂しさはじんわりとその心を支配した。
 自分が終わったと言い、彼女が過去のこととして受けとめたあの恋が、とうとう本当に終わったのだと静かに考えた。いつか来ると分かっている映画のエンドロールを見るように、とうとうやって来た終末を静かに見つめたのだった。
 久遠道也からの手紙を開封することに気づいたのは随分後だった。
 中身は二葉の写真だった。
 一枚は結婚式の集合写真。もう一枚は久遠とウェディングドレス姿の冬花のツーショットだった。
 不動は集合写真の中央で明るく笑う円堂を見て苦笑した。
「仕方ねえよなあ」
 呟きが思わず口をついて出た。
 ウェディングドレスを着た冬花は綺麗だった。不動は今までそういう言葉で冬花を褒めたことがなかった。これで、もうその機会は失われたと思った。
「綺麗だ」
 不動は写真の中の冬花に触れようとする指先を抑え、硬い印画紙の縁をそっとなぞる。しかし眼差しだけは抑えようもなく、彼女への想いを込めて注がれた。
「綺麗だ、冬花」
 向こうからデモーニオが、飯だと呼んでいた。
 不動は手紙と写真を丁寧に封筒の中に戻し、抽斗の中に仕舞った。
 ドアを開けるとトマトの香りが身体を包み込む。おそらく彼お得意のパスタだろう。不動は苦笑して、後ろ手に自分の部屋のドアを閉じた。



2011.4.6